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あの日父が死んだ「人生が終わった…恨んだ」“史上最悪の海難事故”を語り継ぐ今

  • 2024.10.17

70年前の9月26日は、洞爺丸台風によって国内史上最悪の海難事故が起きた日です。

最大瞬間風速57メートルという猛烈な風を伴った洞爺丸台風では、函館湾内に避難していた青函連絡船5隻が沈没、乗客・乗組員あわせて1430人が死亡・行方不明になっています。

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中でも豪華船「洞爺丸」は慰霊碑からわずか700メートル沖で沈没、1155人の犠牲者を出しました。

「こんな被害を繰り返さないために」

生存者や遺族の高齢化が進み、事故をどうやって語り継いでいくかが課題になっています。

さらに、洞爺丸台風は海難事故だけではなく、岩内町で住宅の8割を焼く大火も引き起こしました。

70年の時を経て、今なお語り継いでいくものは何か考えます。

夢も希望も絶たれ…「恨んだ」遺族

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北海道函館市に住む、武山和雄(たけやま かずお)さん87歳。

70年前、洞爺丸台風で、十勝丸の乗組員だった父、常雄(つねお)さんを亡くしました。

当時、武山さんは大学受験を控えた高校3年生。
大黒柱を失い、「進学してジャーナリストになる」という夢を諦めました。

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「遺体と対面しても、ぼう然として涙一つでなかった。泣いたのは葬式のときだった。絶望というか、わが人生は終わりだと思った。夢も希望もない」

国鉄は、遺族補償として武山さんを連絡船の乗組員に採用しました。

「みじめだったのは同期は大学行くやつは行っている。連絡船に乗って帰ってくる。私も、ああなるはずだったと思ったら恨んだ」

台風と戦った、生々しい記録

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生存した乗組員たちの体験を国鉄がまとめた「台風との斗い(たたかい)」。

台風の翌年に約500部作られ、遺族などに渡されました。
「語り継ぐ青函連絡船の会」の高橋摂事務局長は2011年に本を復刻させました。

「お父さん、叔父さんはこんなふうに台風と戦った。船を沈めないように頑張った記録として残しておくという趣旨」

当時、気象台は「台風は時速110キロで北東に進行、午後5時頃には渡島半島を横切る」と予報します。

そして、予報を裏付けるように港には夕日が…。

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大勢の客を乗せ、出航した洞爺丸

「台風の目に入った」誰しもがそう思い、洞爺丸も出航します。

しかし、出航直後に天候が悪化。
実際の台風は渡島半島の手前で速度を落とし、洞爺丸を直撃したのです。

洞爺丸は港の外に錨をおろし、天候の回復を待ちますが波に押され、たまたま海中にできた砂山に座礁。

そのときの船内の様子について「台風との斗い」では、こう記録されています。

『「事務長へ伝令。本船は七重浜沖に座礁した。これ以上動揺もないと思われるから、救助船のくるまで心配しないで待つよう」旅客に伝えるように』

安堵したのも束の間、座礁から19分後には大きな赤い船腹を見せ、転覆・沈没したのです。

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海難審判では船長の天候判断を巡り責任が追及されましたが、それでは教訓にならないと高橋さんは指摘します。

「船長だけを追及して思考が停止し、終わってしまうのはよろしくない。教訓とするためには、ミスが起きないように、ミスを犯しても助かるように考えていく」

洞爺丸を沈めた台風は、次の標的を定めるかのように北へ進んでいきました。

台風が大火につながった

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9月、北海道後志地方の岩内町で消防演習が行われました。
岩内町において火災への備えは特別な意味を持ちます。

70年前の9月26日、マチの8割が消失した岩内大火が起きました。

火の手が広がったのは洞爺丸台風が原因です。

当時高校1年生だった阿久津英一さんと中学1年生だった丸山誠一さん。
2人が逃げ込んだ蔵が今も残っています。

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中には約80人の避難者がいました。

「窓から見たら火の海だった。すごく印象深いし恐怖心はいまでも忘れられない」

蔵の中では、ある工夫によって全員の命が助かりました。

「換気口を閉めて、味噌を詰めたんです。家の中の戸にみんな入ったあと、味噌で全部固めて。味噌は焼けても乾かないから」

味噌で窓を塞ぎ、煙や炎が入ってくるのを防いだのです。

1954年、火災の翌日に撮影された映像には、ほとんどの家屋が焼け落ち、焼け跡の中にある火種がなおも燃えているようすが記録されています。

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町全体では1万7223人が被災、死者・行方不明者が38人という大きな被害が出ました。

町の郷土館では岩内大火を伝える品々が展示されています。

岩内大火から、町は災害に強い町づくりを掲げて、わずか3年で復興。
この奇跡は「岩内魂」と呼ばれています。

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ただ、この岩内大火を知っている人もどんどんといなくなりマチの一部からは「それでいいのかな…」と声があがったといいます。

岩内大火は町の被災の歴史であり、そこからの復興は町の誇り…。

岩内町は、今年60年ぶりに式典を開催しました。
約350人が集まり、被災者や殉職した消防団員への黙とうや献花を行いました。

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岩内町の木村清彦町長は「みんなで『なにくそ』と頑張って、はねのける雰囲気がこの町の住民の持っているパワー。それを総称して『岩内魂』と言っている」と胸を張りました。

70年前に起きた悲しい災害。

それは、先人たちが必死に生きようとした証であり、今の暮らしはその犠牲と努力の上にある事を忘れてはいけません。

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岩内町が火災から復興したときには、全国各地から救援物資などの支援を受けたといいます。
そのため2011年の東日本大震災、今年の能登半島沖地震などのときにも、岩内町は色々な救援物資を支援したり、町営住宅を提供したりしています。

一方、洞爺丸台風から33年後の1988年には、青函トンネルが完成。
トンネルにはいま、新幹線が走っています。

私たちの暮らしはより便利に進化していますが、これももとをたどれば、洞爺丸台風がきっかけ。

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昭和の出来事は、年々歴史の一部になっていきます。
改めて次の世代に引き継いでいくこと、将来に向けた備えをそこから学んでいくことは今を生きている私たちの責任だと思います。

文:HBC報道部
編集:Sitakke編集部あい

※掲載の内容は「今日ドキッ!」放送時(2024年9月26日)の情報に基づきます。

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