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「カワイイに正解なんてない」渋谷駅の広告が炎上した理由…背景にあるモノとは

  • 2024.10.17
「Dove(ダヴ)」の渋谷駅広告イメージ(ユニリーバ・ジャパン・カスタマーマーケティングのプレスリリースより)
「Dove(ダヴ)」の渋谷駅広告イメージ(ユニリーバ・ジャパン・カスタマーマーケティングのプレスリリースより)

10月7日から同月13日まで、東京のJR渋谷駅や東急田園都市線渋谷駅の構内に掲示されていたビューティーケアブランド「Dove(ダヴ)」の意見広告に対し、ネット上では「不快になる」「ルッキズムを助長させる」など、批判が相次ぎました。この広告は少女の権利やエンパワーメントの促進を呼び掛ける、同月11日の「国際ガールズ・デー」に合わせて掲示され、「カワイイに正解なんてない」というキャッチコピーが掲げられていましたが、なぜ批判が続出する事態になってしまったのでしょうか。

さまざまな社会問題を批評する評論家の真鍋厚さんが、広告の内容を読み解きながら、批判を招いた原因について、考察します。

知る必要のない「カワイイの基準」を宣伝してしまった

Doveの広告は、外見や身体的特徴に基づいて他者をランク付けする「ルッキズム」(外見至上主義)に異議を唱える趣旨の内容でしたが、一般的にあまり知られていない「遠心顔/求心顔」「中顔面6.5cm」「Eライン」などの美容業界の言葉を取り扱ったために、かえって「寝た子を起こすな」的な反発を招いてしまったことが、批判を招いた主な原因です。

例えば、「中顔面6.5cm」と書かれたボードには、「目の下から唇までの長さのこと。小顔かどうかを判断する基準」という説明文があり、6.5cmの部分に取り消し線が引かれ、「#カワイイに正解なんてない」というキャッチコピーを添えています。このようなスタイルで10種類の「SNSにあふれる、画一的な美しさやカワイイの基準」を同様に紹介し、“私たちに必要ないカワイイの基準”として世に問う意図がありました。

しかし、先述のように、「遠心顔/求心顔」「中顔面6.5cm」「Eライン」などの言葉は日常用語ではありません。逆に今回の広告や騒動を通じて初めて見聞きした人が多かったのではないでしょうか。

つまり、この意見広告は結果的に、知る必要のない10種類の「カワイイの基準」をむしろ宣伝することになったのではないかという疑念が生まれたのです。確かに、否定的に取り上げたとしても、広く周知されることによって、マイナーなものがメジャーに認知されるようになることはよくある話です。

そうなると、もともと否定することを前提に紹介した「カワイイの基準」という情報に触れることになり、場合によっては、その情報から自分の容姿を捉え直すということも起こり得るかもしれません。普段からSNSで何となく聞いたことがあった程度の情報をさらに深掘りするきっかけになってしまう可能性です。「余計なことをするな!」「逆効果になっている!」というのが、この炎上騒動の核心にあることは明らかです。

一方で、気になるのは、なぜこれほどまでにルッキズムに関する広告が炎上しやすいのかという社会的・心理的な背景です。分かりやすいところでは、近年、美容医療に対する心理的なハードルが下がり、低年齢化が進んでいることが挙げられます。

整形手術の一部始終を実況する「整形ユーチューバー」をはじめ、多くの人々がSNSで積極的に情報発信していることも影響し、実際のイメージがつかみやすくなり、かつてのような暗くて偏ったイメージを払拭したことも大きいといえます。

加えて重要なのは、ダブルスタンダード(二重基準)に対する道徳的なジレンマの存在です。「人は顔ではない。人は体形ではない」と言うのは簡単ですが、果たしてどれだけの人がその価値観を実践できているのでしょうか。私たちは無意識のうちに標準的なものを好ましいものと感じ、規格外に思えるものを排除しています。

顔や体形だけではありません。服装やしぐさ、話し方、目線、そういったものを総合的に評価し、快/不快の感覚に従って人を選んだり、避けたりしています。

順番に詳しく説明します。まず、美容医療の拡大と低年齢化は、想像以上に進んでいます。例えば、「うちの子どもがまぶたを二重にしたいって言うから、クリニックに付き添って行ってあげた」というような話をよく聞くようになりました。

美容整形がかなりカジュアルになっており、学校の夏休みや冬休みなど、長期休暇の時期に気軽に行うことが多いようです。これは、切開を伴わない施術の発達などにより、子どもでも施術を受けることが技術的に可能になった以上に、美容整形に対する抵抗感が弱くなったことが要因です。コンプレックスの克服など、美容整形をポジティブに捉える考え方が広がったことも大きいでしょう。

思春期の真っただ中にある若年層にとって、容姿は一大事です。しかし、親としてみれば、そのままの姿を肯定的に見ていますから、顔や体形の何が悪いのか分かりません。そこで、「SNSなどから良からぬ情報に触れ、振り回されている」「周囲の子どもたちから悪影響を受けている」などと疑うわけです。そのため、影響力のある発信者やメディアに対する批判が起こりやすいといえます。

けれども、顔や体形の悩みはもっと複雑です。人は広告を見ただけで自分の信念を変えるほど単純ではありません。

2つ目のダブルスタンダード(二重基準)に対する道徳的なジレンマは、「人は顔ではない。人は体形ではない」という建て前と、でも「人は容姿に左右される」という実態に引き裂かれる心境です。

子どもたちは、大人がこのダブルスタンダードを無意識に使い分けているのを観察しています。美人の店員には頬を緩ませ、そうではない店員には無愛想だったり、太っている友人のことを「だらしがない」と言ったりしている姿です。そもそも、私たちは、「きれい」や「美しい」という文化的な基準を持っています。

「美貌格差 生まれつき不平等の経済学」(望月衛訳、東洋経済新報社)という、変わったタイトルの本があります。著者の労働経済学者のダニエル・S・ハマーメッシュは、さまざまなデータから、容姿は収入や家族形成など広範に影響すると結論付け、「ブサイク差別と美形びいきは今どきの社会ではまったくジェンダーの問題ではない。容姿での差別は男にも女にも突き付けられた問題なのだ」と述べました。身もふたもない話ですが、仮にこの「美醜」で人を選別することが社会課題なのであれば、これを変えていく必要があります。

ですが、ここでまたややこしい問題が出てきます。私たちは、「ある顔」に良い印象を持ち、「ある顔」に悪い印象を持つことがあります。けれども、その印象はどこからやって来るのでしょうか。乳幼児にすら「美醜」に反応することが示される研究もあります。この「美醜」の評価軸が「いつ」「どこ」でインストールされたかどうかは分かりません。

しかし、次々と目の前に現れる人々の容姿を巡り、私たちは日夜何かしらの判断を下しているのです。当然、それは自分の容姿も誰かから判断され、最悪の場合、罰点を付けられていることを意味します。こうしたことに対するいら立ちは根源的です。

ルッキズムをめぐる炎上は、そんな「基準」をいつの間にか内面化し、自他を無意識に評価している自分に対する否定的な感情が、“燃料”の一部になっている可能性があります。なぜなら「言うは易く行うは難し」だからです。ダブルスタンダードがまん延する動かしがたい現実を言葉の上だけでも粉砕しようとする試みといえます。

そうなると、究極的には、自分自身を「棚上げ」にしてたたきやすい対象を攻撃することを正当化しかねません。私たちが直視すべきは、見落としがちな「内なるルッキズム」なのではないでしょうか。

評論家、著述家 真鍋厚

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