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平安時代、「不倫」をしたら懲役2年ってマジか⁉ 百人一首の有名歌人は「尻軽オンナ」扱いされて、雇い主に猛抗議!

  • 2024.10.14

*TOP画像/彰子(見上愛) 敦康親王(片岡千之助) 大河ドラマ「光る君へ」 39話(10月13日放送)より(C)NHK

 

『光る君へ』ファンのみなさんが本作をより深く理解し、楽しめるように、40代50代働く女性の目線で毎話、作品の背景を深掘り解説していきます。今回は平安時代における「男女の情熱的な恋」について見ていきましょう。

 

 

宮中は数多くの「恋の物語」が生まれた場所

平安時代、男女が顔を合わせる機会は家族でもない限りほとんどありませんでした。貴族階級の男女の多くが文をやりとりし、愛を育んでいました。相手の顔は結婚前まで見ることができません。

 

しかし、宮中ではさまざまな男女が顔を合わせて働き、多くの時間を共有していました。このため、宮中は恋愛にもってこいの場所だったのです。

 

夜になると、女房の局には男性が頻繁に出入りしていました。お目当ての相手を求めて歩きまわる男性の沓音が女房の局に響いていたといいます。紫式部のもとに訪れた男性もいたようで、彼女は「局のドアを叩いたのに、あなたは開けてくれなかった」と書かれた文を受け取っています。

 

 

平安時代、「姦通罪」はすでに存在していた

平安時代といえば、不倫が多かったのではと勘ぐってしまいますが、当時において姦通罪が存在しました。当時の刑法である養老律には「夫ある女性との姦通には懲役2年の刑を加える」と記されています。ただし、法治国家であったとはいえ、現代ほどに法が機能していなかったため、刑が必ず執行されていたとは考えがたいでしょう。

 

現代においても不倫は社会的制裁を受けますが、婚姻関係のない男女の一線を越えた関係は平安時代から厳しく扱われていました。

 

 

百人一首の女たちの中には、男のあしらい方がうまい女や、許されない恋に悩む女も

いつの時代も恋をして心が乱れ、苦しむ男女が存在します。恋は生命の誕生にもつながる美しく、尊いものですが、自分の身を滅ぼすものでもあります。

 

小野小町に恋した深草少将。99日間、小野小町のもとに通い続けるが…。

世界三大美人の一人としても知られている小野小町は平安時代の女性歌人です。彼女は出羽国司の娘で、第54代天皇の仁明天皇からその子である文徳天皇、孫の清和天皇の三代の時代に宮仕えをしていたといわれています。

 

小野小町は多くの男性の恋心を射止めていましたが、男性からのアプローチには慎重に対応していました。小野小町と深草少将にまつわる有名な逸話があります。小野小町は深草少将から結婚を申し込まれますが、彼女は「100日間毎日通い続けたら結婚してあげるわ」と厳しい返事をします。深草少将は小野小町の言葉を信じ、悪天候の日も寒い日も彼女のもとに通います。しかし、あれだけ待ち焦がれた99日目の夜に小野小町から裏切られるのではないかと怖気づいてしまいました。そしてこの日、彼は亡くなってしまいました。なお、深草少将は榧の実(かやのみ)を糸に毎晩とおし、小野小町のもとを訪れた日数を記録していました。

 

 

道長に「浮かれ女」の烙印を押された和泉式部

紫式部と一緒に宮仕えをしていた和泉式部は夫がいながらも冷泉院の皇子である為尊親王、さらには弟の敦道親王とも関係を結びます。この貞節の欠如が原因となり、親から勘当されます。和泉式部は「誰と関係をもとうがもつまいが私の勝手よ!」というポリシーで恋をしていました。

 

越えもせぬ 越さずもあらん 逢坂の関守ならぬ人なとがめそ
和泉式部

 

この和歌は藤原道長が誰かが持ってる扇に「だれのだ?」と問いかけ、和泉式部が「私のです」と答えたやりとりをきっかけに詠われたものです。道長は和泉式部の扇に「うかれめのあふぎ(浮かれ女の扇)」とふざけて書くと、和泉式部はそのかたわらに上記の和歌を書きました。和泉式部はかの道長様に向かって「男に逢うという名の逢坂の関を越えようと越えなくても、夫でもないあなたにそんなこと言われたくないわ!」と、自らの意思を表明したのです。

 

和泉式部は道長の娘の彰子に仕えていますし、道長への行き過ぎた発言にもお咎めがなかったよう…。和泉式部は和歌の才能はもちろん、多くの人から愛され、かわいがられる魅力があったのだと考えられます。

 

 

恋心を隠し切れないならこの世を去りたいと詠った式子内親王

式子内親王も情熱的な恋をした女性の1人です。彼女は後白河天皇の皇女で、賀茂神社に斎院として仕えていました。和歌を藤原俊成に教わり、息子の定家と親しい仲になったといわれています。

 

玉の緒よ 絶えなば絶えね ながらへば 忍ぶることの 弱りもぞする
式子内親王

 

式子内親王は周囲の目を忍んだあの人への恋心を隠しきれなくなるから死んでしまいたい…と上記の和歌で詠っています。神に仕えていた彼女には恋愛は許されませんでしたが、定家に恋をしてしまいます。自分の立場を考えたら男性を恋しく思うことなんてできないのに…それでも好きだという思いがあふれてしまうという悶々とする心境が読み取れる和歌です。

 

 

恋は無意識にしてしまうもので、社会的に許されないと分かっていても簡単にセーブできるものではありません。また、自分の気持ちを抑制できたとしても心は曇り空のまま……。1000年以上前から、多くの男女が恋に悩み、恋に身を焦がしていたのですね。

 

 

参考資料

吉井 美弥子『語りたくなる紫式部 平安宮廷の表と裏』主婦と生活社 2023年
濱口博章『日本のかるた』保育社 1973年

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