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24歳、ギリギリグラドル。人生の話をします。/2000年生まれ グラドルの暗め自分語り②

  • 2024.10.12

連載第2回! 辛かった記憶が多い幼少期から、そんな時期に自分を救ってくれたカルチャーの話、学生時代などを思い出してみます。

私は岐阜県で生まれて、18歳まで地元で過ごしました。 2歳の時に両親が離婚して、母の実家に一瞬住んで、 そのあと5歳で母が再婚して、今度は再婚相手の実家に引っ越し。 前の父との間に私と妹ができて、再婚して弟が2人できたので、私は4人兄弟の長女でした。 新しい父はマクドナルドで働いていた母をナンパして結婚まで漕ぎ着けたそうで。何度も自慢されて、母のことをとても好きそうなのがいつも伝わってきました。

一方で、私はとても人見知りで、昭和の価値観で接してくる新しい父に、言葉にできない不信感を抱いていました。

いつまでも馴染めない私に対して、父の当たりが段々強くなってきて、 一緒に暮らし始めて1年経つ頃には、暴言暴力が日常化していました。 大人全般なんとなく信用できず、 先生をはじめ、周りの大人全員敵のように感じて辛かった小学生時代。

そんな日々の中でも自分の心を救ってくれていたのが、アニメや漫画でした。 5歳頃から父が昔見ていたアニメをレンタルビデオ屋で毎週借りてきて見ていたので、その影響でセル画のアニメが自分の根っこの部分にあります。 「ミスター味っ子」が人生で最初に好きになったアニメで、そのあと「地獄先生ぬ〜べ〜」にハマり……。 一番好きになったのは「ハイスクール!奇面組」というギャグ漫画/アニメで、明るくて面白くて優しくて、キャラクターも画もコミカルで可愛くて、当時どんなに辛い状況でも笑えて本当に救われました。 弟が生まれて、幼児向けアニメや戦隊モノを一緒に見ているうちに、キャラクターの多さやコミカルさに心を奪われ、そっちにもズブズブとハマっていました。

小4のある日、本屋で立ち読みした戦隊モノ雑誌の企画の罰ゲームで、男性の俳優同士がキスしている画像を偶然目撃。 何かやばいときめきが直撃したな〜とびっくりしすぎてすぐ雑誌を閉じてフラフラ自転車を漕いで帰宅。 次の日衝動的に放課後もう一回その雑誌を見に行って、自分の中に何かが芽生えたことを確信。 その後、授業中や下校途中などあらゆる瞬間に、(男性同士の恋愛が好きなんておかしいよね、自分……。)と一年葛藤することに。

小5になり、Nintendo 3DSをひいお婆ちゃんが買ってくれました。 遊んでいるうちに、インターネットに繋いで色々調べたり出来ることに気づいて、はじめてネットの世界に足を踏み入れました。 好きなアニメについて検索を重ねるうちに、インターネット掲示板の存在を初観測し、そこで初めて腐女子という存在を知ることになります。 「(某サッカーアニメのキャラ)好きな人あつまれ〜!」という板にその日からのめり込み、そのキャラクターへの愛を時間が許す限り語り合うという新しいコミュニケーションに気づけばどハマりしていました。 しかし我が家はルールが色々あり厳しかったので、まず「自分の部屋にゲーム機を持ち込まない」というルールを破って3DSはすぐ使えなくなりました。 完全に掲示板中毒だったので、父のエロ本の山の上に隠されていた3DSをすぐ見つけ、コソコソ使っていたのですが、それもまたすぐバレて3DSはへし折られました。 一瞬だったけど色んなことを教えてくれた3DSよ、ありがとう!

小6になり、お小遣いが少し増えたので、貰っていたお年玉も使って、イラスト投稿雑誌を初購入しました。1200円くらい。 物心ついたときから絵を描くことも大好きでずっと描いていたので、自分もすぐに投稿するようになりました。

中学校に進学して、3年間、放課後家に帰ってから投稿用のイラストを何枚か描いて、毎月の〆切までに送る!というのが日課になりました。 そこを自分の居場所にしたいという気持ちも強かったのかもしれない。 周りがみんなスマホを持ち始める中で、我が家はスマホ禁止だったので、友達はいたけど、クラスにはあまり馴染めなかった記憶があります。 休日ひとりの時間がある時は、市立図書館に入り浸って何時間もパソコン使って、雑誌に投稿してる人と交流するためにひたすらTwitter。 どこにも居場所がなくてどうしてもインターネットがやりたかったんだなーと振り返って思います。やばい。

さて、3年生に進学して大事な受験シーズンになり、母が毎日「PTAに行く」といって夕方家を出て朝までいない生活が始まります。 金曜はもやしと卵の炒め物かカレーが大量に作って置いてある。帰ってこない。 仕方なく受験勉強しながら弟の面倒みることに。 美術系の高校に行きたかったので、独学でデッサンを頑張ってたものの、出願ギリギリになって受験を強制的に諦めさせられ。未だに少し未練があります。 大学は好きなところに行かせてやるという言葉を信じて、家から自転車で30分の普通の高校に進学。

高1の夏に、父が雇った探偵により母の不倫が発覚して、田舎なのですぐに噂は広まり、住めなくなっておばあちゃんの家に夜逃げみたいな感じで母・妹と引っ越しました。 弟2人が出かけている間に彼らを置いていったので、それから弟や父とは会ってません。 そしておばあちゃんの家から高校に通うことになり、通学時間が片道2〜3時間に延びました。 最初は頑張って通っていたものの、朝、最寄りの駅に、私が行きたかった高校の生徒が、可愛い制服を着て両手に画材を沢山持って通学しているのを毎日何人も見かけて、辛くなって、段々通えなくなりました。 絵も描けなくなってしまい、少し焦りました。

高校3年生になり、私の大学進学のためのお金が全て離婚の裁判に溶けた話を聞いて、学校にもあまり通えなくなっていたので、夏に高校を辞めました。 担任の先生に「ここで逃げたら一生逃げ続ける人生になる」と真っ黒い目で言われて、本当にそうなるのかな〜とかぼんやり考えたりしてました。

単位は全て取れていて、あと半年普通に通えば卒業できるということだったので、通信制の高校に転学することになりました。 真面目に通っていたのですが、その時もうすでにミスiDのオーディションを受けて、東京に行き始めるようになっていた時期でもありました。 ある日、オーディションのために東京へ行くバスに乗っていると電話がかかってきて、卒業がかかった課題を提出し間違えてるから今すぐ持ってきて!とのことでした。 もちろん無理なので、そのまま辞めたのでした。 もったいな! こうしてあとがない私は、ミスiDでどうにかなってもらわないとやばいかもだぜ!!という思いで、オーディションに挑むのでした……。

ここまで振り返ってみて、 合わない人だらけの閉鎖的な環境で、日々ストレスに苦しみながら、大事な思春期を豊かに過ごせなかった私ですが、 大人になるにつれて選択の幅がどんどん広がって、やっと自由に過ごせるようになりました。 誰にも脅かされることのない環境に身を置くと、ゆっくり考えることができたり、のんびり生活できて、その大切さを成人してからやっと噛み締めています。 今もし辛い状況にいる人は、 理不尽なことを全てまともに受け止めていると自分が壊れてしまうので、たとえ家族や大切な人でも他人だし、と辛くても割り切って、自分を責めすぎないでいてほしいと思います。 そして、自分の好きなものを大事にして生き延びれば、耐えた分そのあと楽しいことが待ってるんじゃないかと思います(そう信じたい)。 と、今だから振り返って言えるけど、 当時は切羽詰まってお先真っ暗状態で、 ミスiDに一縷の望みをかけて、必死でもがいていました。 さて果たしてどうなるのか、次回はオーディションからの上京話です。

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