1. トップ
  2. 恋愛
  3. 前代未聞の攻城戦で秀吉の参謀として活躍。三大築城家と呼ばれる黒田官兵衛の城づくり/武将、城を建てる④

前代未聞の攻城戦で秀吉の参謀として活躍。三大築城家と呼ばれる黒田官兵衛の城づくり/武将、城を建てる④

  • 2024.10.7

『武将、城を建てる』(河合敦/ポプラ社)第4回【全4回】 安土城、大坂城、名護屋城、熊本城、江戸城、松山城など、有名な城をつくったのは、戦国時代を戦い抜いた武将たちだった。城をつくった武将たちの知られざるエピソードや城づくりへのこだわり、どんな城をつくったかなど、人物から見る新たな見解を一冊にまとめました。お城がもっと身近に、そしてもっと面白くなる『武将、城を建てる』をご紹介します。

ダ・ヴィンチWeb
『武将、城を建てる』(河合敦/ポプラ社)

前代未聞の攻城戦

黒田官兵衛孝高(如水)は、藤堂高虎、加藤清正と並んで三大築城家(三大築城名手)といわれている。ただ、いつからそう称されるようになったのかわからない。それに、他の二人と違って、官兵衛がつくった城郭の石垣や建物が多く残っているわけでもない。

今回は、官兵衛が手がけた中津城と福岡城を紹介したいと思う。

官兵衛は、播磨国の大名・小寺政職の重臣であった。播磨は、強大な毛利氏と新興の織田信長にはさまれた地域だったが、官兵衛はいち早く信長に従うべきだと主張し、主君を納得させて織田方に付かせた。

天正五年(一五七七)秋、信長は毛利攻めのため、重臣の羽柴秀吉を中国地方へ差し向けたが、このとき官兵衛は、遠征の拠点として己の居城である姫路城を秀吉に譲り渡した。また、備前・美作の大大名である宇喜多直家を織田方に寝返らせることに成功する。喜んだ秀吉は、「おまえを弟の秀長同様に思っている」という書状を官兵衛に与え、参謀(軍師)として重用するようになった。

しかし翌年、官兵衛の運命は暗転する。

信長の重臣で有岡城主の荒木村重が謀反をおこすと、官兵衛は説得のために単身で有岡城へ乗り込んでいった。ところがそのまま獄に押し込められてしまったのだ。官兵衛が救い出されたのは、一年後のことだった。だが、陽の当たらぬ狭い土牢に閉じ込められていたので、膝も曲がったままになるなど身体が不自由になってしまった。

天正十年(一五八二)五月、秀吉は官兵衛の進言に従い備中高松城を水攻めにしたが、その最中、信長が本能寺で自刃したという知らせが入った。このとき官兵衛が秀吉に仇討ちを勧めたので、秀吉はすぐさま毛利氏と講和を結んで引き返し、京都近郊の山崎で明智光秀をやぶったといわれる。ただ、水攻めや中国大返しが官兵衛の功績だというのは、黒田家の『黒田家譜』に載る話なので、史実かどうかはわからない。

いずれにせよ、秀吉は翌年、石山本願寺の跡地に大坂城を築くが、その縄張りを担ったのも官兵衛だったと伝えられる。普請惣奉行をつとめたという説もある。なお、官兵衛が築城にあたったのは最初の本丸の普請だけで、二の丸工事以後はあまり関与しなかったらしい。

本能寺の前は二万石程度の大名だった官兵衛だが、四国平定の功により三万石(五、六万石とする説もあり)の大名となり、さらに九州平定後、豊前国八郡のうち六郡に渡る領地(約十二万石)を与えられた。

官兵衛の血筋を引き継ぐ

天正十七年(一五八九)、官兵衛は豊前での統治が軌道に乗ると、息子の長政に家督を譲った。まだ官兵衛は四十四歳であった。当時としてもかなり早い。一説には、主君秀吉が官兵衛の天下簒奪を疑っていたので、その疑念を解くためだったというが、土牢に入れられ身体が不自由になっていたことも、関係しているかもしれない。だが、それからも官兵衛は、秀吉の側近として小田原平定などで抜群の知謀を見せた。

秀吉の死後、官兵衛は京都で連歌や茶を楽しむ悠々自適な生活を送っていたが、豊臣政権はギクシャクしており、慶長五年(一六〇〇)六月、家康は上杉景勝が謀反を企んでいるとして、大軍を引き連れ大坂から会津へ出立した。官兵衛の息子・長政もこれに従った。そこで官兵衛は、中津城に入り、息子の留守を守った。

家康が会津へ向かうと石田三成と大谷吉継が挙兵、さらに大老の毛利輝元が大坂城に入り込み、豊臣秀頼を手中に置き、淀殿や長束正家ら三奉行を仲間に引き入れ、家康の言動を非難する豊臣政権の公的文書を諸大名に送達した。逆賊に転じた家康は危機に陥った。このとき家康のために大きな働きをしたのが長政だった。彼は福島正則、小早川秀秋、吉川広家など、去就に迷う大名を味方に引き入れ、次々と寝返らせていった。こうした知略は、父・官兵衛の血筋を引き継いだのだろう。

結果、関ヶ原合戦は家康の大勝に終わった。

いっぽう、中津にいた官兵衛は、徳川方の許可を得て多数の牢人たちを金銭でかり集め、加藤清正らと結んで次々と西軍方大名の城を落とし、九州を席巻する勢いを見せた。天下分け目の合戦が数カ月は続くと考え、東軍と西軍の勝ったほうと戦って自分が天下を取ろうと考えたのだというが、これは巷説に過ぎず、実際は徳川方と連絡を密にとっての行動だった。いずれにせよ、長政の功績を高く評価した家康は、戦後の論功行賞で長政に筑前一国(五十二万三千石)を与えた。こうして黒田氏は、一気に大大名へと昇ったのである。

<続きは本書でお楽しみください>

元記事で読む
の記事をもっとみる