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黄金塗りの部屋や凝った庭園を自ら案内! 天下人ならではの豪華な城を建てた豊臣秀吉/武将、城を建てる③

  • 2024.10.6

『武将、城を建てる』(河合敦/ポプラ社)第3回【全4回】 安土城、大坂城、名護屋城、熊本城、江戸城、松山城など、有名な城をつくったのは、戦国時代を戦い抜いた武将たちだった。城をつくった武将たちの知られざるエピソードや城づくりへのこだわり、どんな城をつくったかなど、人物から見る新たな見解を一冊にまとめました。お城がもっと身近に、そしてもっと面白くなる『武将、城を建てる』をご紹介します。

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『武将、城を建てる』(河合敦/ポプラ社)

豪華な大坂城

ポルトガル人宣教師、ガスパル・コエリョら約三十名のキリスト教関係者は、キリシタン大名・高山右近の仲介で天正十四年(一五八六)に大坂城を訪問した。このときのことをルイス・フロイスが書きとめているので紹介しよう。

サービス精神旺盛な秀吉は、右近に連れられたガスパル・コエリョ一行がやって来ると、自ら大坂城を案内した。豪華な黄金塗りの部屋や技巧をこらした庭園を喜んで見せ、壮麗な天守の中まで連れて行った。梁が低いところでは、秀吉本人が宣教師たちに「頭をぶつけないよう気をつけよ」と注意をうながしたという。

天守の各階には財宝が充満しており、一行は金糸を縫い付けた寝台や組み立て式の黄金の茶室も目にしている。四階まで上ると、秀吉は彼らに茶を与えて一服させたという。天守の最上階には外廊が巡っており、眼下には多数の労働者が工事に従事している様子が見え、目を遠くに転じれば数カ国を見渡すことができたそうだ。さらに秀吉は、本丸の居館(奥御殿)に宣教師たちを招き入れ、寝室まで見せる厚遇ぶりだった。秀吉が声をかけると、女性たち(秀吉の妻子や側室)が続々と奥のほうから姿を現したという。

秀吉は、大坂城の周囲を整地して広大な城下町もつくっていった。各地から多くの商人や職人が町に集まってきたが、さらに城下を繁栄させるため、天正十二年(一五八四)、堺の町から商人たちを強制的に大坂城下に移転させた。

大坂城とその城下町は密接に結びついており、城下町は経済活動や物流の中心地になるだけでなく、城の防御ラインの一部としても機能し、城全体の防御力を高めた。とくに小田原平定さい、小田原城の惣構(総講とも。城下町ごと、堀や土塁・石垣で囲む防御構造)を目にした秀吉は、それを模倣して文禄三年(一五九四)から大坂城に惣構を築いた。

近年の発掘調査により、大坂城跡から小田原北条氏特有の障子堀(堀の底部を畝状に掘り残して敵の侵入を防ぐ)も発見されている。このように、敵城の長所を臆面もなく取り入れるところが、秀吉のスゴさであった。

いずれにせよ、大坂城の築城は、これまでとは比較にならない人数を必要とした。山や谷を利用できる山城ではなく、真っ平らな土地に城をつくり上げる必要があったからだ。先述のとおり、堀や石垣はある程度、石山本願寺の遺構を利用できたろうが、広大な平城(大坂城)を造成するため、新たに土を掘ったり、盛り上げた箇所も多かったはず。何より膨大な石材を用いて石垣を組むのは大変な作業だったろう。

完全破壊された聚楽第

秀吉は当初、天皇や公家を京都から大坂へ移し、大坂を都にしようと考えていた。京都五山などの主要な寺社も移転させるつもりだった。なぜそれが中止されたかは不明だが、天正十四年(一五八六)になると、京都の平安京大内裏旧跡に邸宅(聚楽第)をつくり、そこに住むようになった。これにより、豊臣政権の政庁は大坂の大坂城から京都の聚楽第へ移った。天正十六年には後陽成天皇の行幸を仰ぎ、諸大名に秀吉への忠誠を誓わせている。

聚楽第は、秀吉の邸宅というイメージが強いが、記録によると完全なる城郭であった。数年後に完全に破壊されてしまい、現在その痕跡は残っていないが、残された絵図(聚楽古城図副本)を見ると、聚楽第の「本丸は方形で北・西・南の三方向に口があき、西・南の外側にはそれぞれ小規模な曲輪を備える。周囲は大名屋敷で、北には秀吉の母大政所、南には、弟の秀長やのちに関白の座を譲られる甥の秀次の屋敷が示される。文献調査や発掘調査を踏まえた近年の研究では、本丸の北にも曲輪があったことが確認」(大阪城天守閣編『特別展 秀吉の城』大阪城天守閣)できるという。本丸には、天守(異説あり)が聳えていた。

さらに秀吉は、天正十九年になると、鴨川(東)、鷹ヶ峯(北)、紙屋川(西)、九条(南)をアウトラインとして、自然の川や池沼、丘を利用しつつ堀と土塁を二十二・五キロにわたってつくり上げ、京都の中心部を囲ってしまった。これを御土居と呼ぶ。その目的は、秀吉の政治拠点である京都を敵襲から守るためだった。また、鴨川の洪水から町を守る目的もあったという。小田原平定のさいに見た小田原城の惣構を、おそらく京都にも導入しようとしたのではなかろうか。ちなみに御土居の内側を洛中、外側を洛外と呼ぶようになったが、出入口は七口と称される鞍馬口など十箇所ほどしかなかったので、京の人びとは不自由を強いられることになった。

聚楽第の痕跡が残っていないのは、秀吉が徹底的に破却したからである。天正十九年十二月、息子鶴松が夭折したため、秀吉は関白職を甥の秀次に譲り、聚楽第の主は秀次に替わった。しかし二年後に秀吉と淀殿の間に秀頼が生まれたことで、秀吉は秀頼を後継者にしたいと考えるようになり、結果、秀次に謀反の罪を着せて高野山に追放し切腹に追い込んだのである。聚楽第の敷地は更地にされたが、遺構の一部は別の場所に移築された。今も聚楽第の伝承を持つ建物は多いが、西本願寺の飛雲閣や大徳寺の唐門などもその一つで、桃山文化の代表的な建築物として知られている。

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