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実は城づくりに詳しかった! 建築困難な山に城を建てた明智光秀の優れた築城手腕/武将、城を建てる②

  • 2024.10.5

『武将、城を建てる』(河合敦/ポプラ社)第2回【全4回】 安土城、大坂城、名護屋城、熊本城、江戸城、松山城など、有名な城をつくったのは、戦国時代を戦い抜いた武将たちだった。城をつくった武将たちの知られざるエピソードや城づくりへのこだわり、どんな城をつくったかなど、人物から見る新たな見解を一冊にまとめました。お城がもっと身近に、そしてもっと面白くなる『武将、城を建てる』をご紹介します。

ダ・ヴィンチWeb
『武将、城を建てる』(河合敦/ポプラ社)

優れた築城手腕

NHK大河ドラマ「麒麟がくる」の主人公となったことで印象が変わった明智光秀。かつては、主君・信長を裏切って死に追いやった逆臣というイメージが強かった。じっさい、宣教師のルイス・フロイスは、光秀を次のように評している。

光秀は「全ての者から快く思われていなかったが」、「才略、深慮、狡猾さにより、信長の寵愛を受け」、「裏切りや密会を好み、刑を科するに残酷で、独裁的でもあったが、己を偽装するのに抜け目がなく」、「人を欺くために七十二の方法を深く体得し、かつ学習したと吹聴していた」(松田毅一・川崎桃太訳『日本史5』中央公論社)

このように光秀を罵倒しているフロイスだが、それでも「築城のことに造詣が深く、優れた建築手腕の持主」(前掲書)と城づくりの腕前は褒めている。さらに、光秀が築いた坂本城についても、信長の安土城に次いで豪華な城で、この城ほど有名なものはないと語っている。坂本城のほかに光秀は、亀山城、周山城、福知山城など、多くの城郭を手がけた。ただ、その優れた築城術をどこで身に付けたのかは、はっきりしない。そもそも、前半生が全くわかっていないのである。

一般的に光秀は、美濃の名族・土岐一族であるとされ、斎藤道三の家臣として活躍するが、斎藤義龍(道三の息子)の攻撃で居城(明智城)を落とされ、浪々の身となってしまう。のちに鉄砲の腕を見込まれて越前の朝倉義景の重臣に取り立てられ、そこで知りあった足利義昭(将軍義輝の弟)と尾張の織田信長との間を取り持ち、室町幕府の復興に貢献したと伝えられてきた。

けれど、こうした前半生は、一次史料(当事者の日記、手紙、公文書など)には全く残っておらず、二次史料(主に後世の史料)の記録や伝承に過ぎないのだ。

光秀が確かな史料に登場するのは永禄十二年(一五六九)のこと。また、太田牛一の『信長公記』(信憑性の高い二次史料)には、この年、義昭のいる本圀寺が三好三人衆に攻撃されたさい、光秀が境内で応戦したとある。光秀は当時、義昭と信長の二君に仕えていたようだ。

ところが、わずか二年後の元亀二年(一五七一)、比叡山延暦寺の焼打ちで活躍をし、信長から近江国志賀郡を与えられ、坂本城をつくりはじめる。織田の家臣として初めての城持ち大名だ。なぜ中途採用組の光秀が、急激に頭角を現したのかはわからない。ただ、先のルイス・フロイスは築城の才に加えて「戦争においては謀略を得意とし、忍耐力に富み、計略と策謀の達人で」、「選り抜かれた戦いに熟練の士を使いこなしていた」(前掲書)と評し、信長も光秀へ宛てた書状で「とても詳細な報告書ゆえ、まるで現場を見ているようだ」と褒めているから、武勇と知略に秀でた頭脳明晰な人物だったのだろう。

敵城を攻略するための城

天正三年(一五七五)、光秀は信長から丹波攻略を命じられた。丹波国は、信長に追放された将軍義昭の勢力範囲だった。そう光秀の旧主である。しかも山がちなうえ、多く国衆(小さな大名)が盤踞していたので、光秀は平定に大変な苦労を強いられることになった。にわかに裏切られて命の危機に陥ったこともあった。いまも丹波各地には、光秀が敵城を攻略するために築いた陣城(敵城を攻めるとき前線に築いた大将の城)跡や居城跡がいくつも残っている。

そうしたなかで、最大の城が周山城である。あまり有名でないがスゴい城なので、京都市文化財保護課の馬瀬智光氏の「周山城跡―明智光秀が築いた山城―」(リーフレット京都No.374)を参考に、周山城について紹介していこう。

周山城は、弓削川と上桂川の合流点の西側、標高約五百メートルの黒尾山に至る丘陵尾根上に位置する、石垣を多用した山城である。この地域を支配していた宇津氏の宇津城を落とした後、丹波支配の拠点の一つとして天正九年(一五八一)頃から光秀は周山城をつくり始めたようだ。

この城は、若狭と京都をつなぐ周山街道を押さえる場所にあるが、周山の名のとおり、周囲は山ばかりで、当時も城づくりは困難を極めたと思われる。

周山城の最大の特徴は、二本の堀切をはさんで東西二つの大きな区画(城)に分けられていることだ。東の城は、城山(約四八一メートル)を中心に天守台の立つ総石垣の本丸があり、八方向に延びる尾根全てにも郭が築かれている。

西の城は、尾根上(標高約四八二メートル)を平坦にし、土塁と堀切で守られた土の城になっている。このように東と西の城は対照的なのだ。

そんなことから周山城は、京都の城郭史で重要な位置を占めており、織田信長の「武家御城(旧二条城跡)」の築城技術と、豊臣秀吉の「聚楽第跡」の築城技術の間を埋める城と評価されている。

光秀は天正九年(一五八一)八月十四日、茶人の津田宗及を招いて一緒に月見をしている。果たしてこの山城からどんな月が見えたのだろうか。

残念ながらこの城は、山崎合戦後に秀吉の手に落ち、天正十二年(一五八四)頃には廃城となった。ただ、その後開発が進まなかったことから、いまも周山城は山の中にあり、遺構がよく残り、石垣の石もあたりに転がっている。現地に立てば、戦国時代の雰囲気を味わえるはずだ。

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