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本能寺の変で縁戚の光秀に目もくれず秀吉に評価された…常に勝者側についた"時流読みの天才"の名前

  • 2024.10.5

織田信長が戦国武将の細川藤孝(幽斎)に宛てた手紙が新発見の資料として発表され、10月5日から東京・永青文庫でその実物が展示される。系図研究者の菊地浩之さんは「幽斎こと藤孝は時流を読む力があった“遊泳術”の人。足利将軍、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康と天下人が替わっても、常に勝者側につき、現在の細川家まで続く繁栄の礎を築いた」という――。

「細川幽斎像(模本)」石本秋園模作、明治38年(1905)以前、原本は慶長17年(1612)、東京国立博物館所蔵(出典=ColBase)を加工
「細川幽斎像(模本)」石本秋園模作、明治38年(1905)以前、原本は慶長17年(1612)、東京国立博物館所蔵(出典=ColBase)を加工


細川藤孝(幽斎)のサバイバル人生・3つのターニングポイント

「室町幕府滅亡」足利義昭→織田信長
室町時代以来の足利家重臣ながら将軍を裏切り信長につく

「本能寺の変」織田信長→豊臣秀吉
信長を討った明智光秀とは縁戚だが、光秀に味方せず秀吉に認められる

「関ヶ原の合戦」豊臣秀吉→徳川家康
嫡男が石田三成と対立。関ヶ原前夜、城を三成の大軍に囲まれる

話題の「SHOGUN」で戸田広松のモデルとなった細川幽斎

織田信長(1534~1582)が発給した未知の古文書が発見されたという報道があった。細川幽斎ゆうさい(1534~1610)に宛てた古文書で、細川家の文化財を保存する永青文庫えいせいぶんこに保存されていた。細川家とは、肥後熊本藩54万石の大名で、直系の子孫・細川護煕もりひろは第79代内閣総理大臣である。その先祖・細川幽斎は足利家から織田信長、豊臣秀吉、徳川家康へと、常に「勝ち組」につく、バツグンの目利きの持ち主だった。

この9月、アメリカのテレビ界最高峰のエミー賞を制した真田広之主演の時代劇「SHOGUN 将軍」。主演女優賞を獲ったアンナ・サワイが演じる戸田鞠子まりこは細川ガラシャをモデルにしているが、西岡徳馬が演じる戸田広松のモデルは、この細川幽斎であるらしい。

細川幽斎は本名を細川藤孝ふじたかというが、実は細川家の血筋ではなく、室町幕府の幕臣・三淵みつぶち家の出身で、細川家の養子となった。13代将軍・足利義輝よしてる(旧名・義藤)の家臣で、義輝が二条御所において反逆者の松永・三好らに殺害された時、たまたま非番であったため難を逃れた。幽斎は数人で奈良に向かい、義輝の弟で興福寺の僧侶・覚慶かくけいを救出。覚慶が還俗して足利義秋よしあき(のち義昭よしあき)と名乗ると、その側近として上洛実現のために奔走した。上洛を要請するために、信長のもとに派遣された使者を務めたのも幽斎だった。

信長と足利義昭の対立が深まると、信長にシフトした幽斎

しかし、織田信長が義昭を奉じて上洛し、やがて両者が対立しはじめると、藤孝(幽斎)は徐々に義昭から距離を置くようになった。信長と藤孝は同い年(午うま年)で誕生日も近かった(藤孝が4月22日、信長は諸説あるが5月11日)からか、馬が合ったらしい。藤孝は筆マメで、京都の情勢を信長に報告して信頼を得ていた。

織田信長像〈狩野元秀筆〉
織田信長像〈狩野元秀筆〉(図版=東京大学史料編纂所/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)を加工

元亀4年(1573)2月、信長が天下を我が物顔で取り仕切るようになったことが許せず、義昭は打倒信長を掲げて挙兵。今回、見つかった古文書はその前年の8月15日のものと考えられている(当時の古文書は月日のみで、年を書かないものが多く、この古文書にも年表記がないが、信長の花押かおう[サイン]の形状から1572年のものと推定された)。

古文書では、他の幕臣が信長と距離を置きはじめた中、藤孝一人が贈答品の太刀と馬を贈ってくれたことを「あなたからは、初春にも太刀と馬をお贈りいただきました。例年どおりお付き合いくださり、この上なくめでたいことです」と感謝するとともに、近畿の領主たちを味方に引き入れるように要請している。「藤孝にすがろうとする様子は従来からの“信長像”に再考を迫る内容だ。信長の性格に関する研究が深まることを期待したい」と熊本大学永青文庫研究センター・稲葉継陽いなばつぐはるセンター長は語る(NHK)。

【参考記事】NHK首都圏ナビ「織田信長の新資料 “敵に降伏促す文書” “室町幕府中枢への書状” 読み取れることは?」

信長が政権を握ると取り立てられ、姓や家紋まで変える

果たして、信長が義昭を京都から追放すると、藤孝はその功によって山城国長岡(京都府長岡京市)の地をあてがわれ、細川姓を捨てて長岡姓を名乗り、家紋も足利家と縁のない九曜紋くようもんに替えて、足利一門であったことを隠滅した。

ではなぜ藤孝は九曜紋を使うようになったのか。ある日、藤孝は九曜紋を付けた衣装で登城し、信長から「変わった紋様をつけておるな」と声を掛けられる。すると、藤孝は黙って信長の脇差しを指さした。その鍔つばに九曜紋が彫ってあったのだ。信長は藤孝の観察力とユーモアに感じ入ったという。

藤孝は古今伝授こきんでんじゅの伝承者として知られる当代一流の歌人だった。かつ、能楽に堪能。包丁さばきに優れた腕を披露した。ここまで書くと、青白いインテリっぽいが、その実、大男で武芸に秀で、怪力の持ち主だったという。剣術を塚原卜伝つかはらぼくでん、弓術を波々伯部貞弘ははかべさだひろに学び、弓馬故実を武田信豊のぶとよから相伝された、今でいう資格マニアである。

婚姻関係にあった明智光秀が信長を討つという大ピンチ

しかし、戦国武将としては評価が低い。慎重で戦場での決断力が乏しかったらしい。藤孝(幽斎)は明智光秀の与力につけられた(宣教師ルイス・フロイスが著した『日本史』、興福寺僧侶が記録した『多聞院日記』には、光秀はもともと細川藤孝に仕えていたという記述がある。ともに信憑性の高い史料なので信用すべきと思うのだが、一般的には無視されている)。さらに、信長の命で、藤孝の長男・忠興ただおき(1563~1646)と光秀の三女の玉たま(のちのガラシャ)が結婚し、血縁を通じて光秀との関係を強くした。

だから、本能寺の変が起きると、主君・信長を討った光秀は当然、藤孝・忠興父子の加勢を期待した。

ところが、藤孝は剃髪して幽斎玄旨ゆうさいげんしと名乗り、忠興とともに隠棲。さらに光秀の娘である嫁の玉を丹後国味土野みどの(京都府竹野郡弥栄町)に幽閉してしまう。親族の有力大名である藤孝・忠興父子の離反は、光秀にとって大きな打撃となった。山崎の合戦で敗走した光秀が討たれると、羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)は藤孝・忠興父子が光秀に与くみしなかったことを高く評価した。

【図表1】細川家家系図
筆者作成
関ヶ原合戦前夜、三成の大軍に囲まれた幽斎を救ったのは…

秀吉の時代になると、藤孝(幽斎)はいわば「ご隠居さん」となり、嫡男の細川忠興(当時の名は長岡忠興)が秀吉に仕えた。

忠興は幽斎と違い、戦場では勇猛果敢で、家老たちが押さえるのを無視して一番槍を挙げるくらいだった。信長の晩年、すでに忠興が細川軍を指揮し、幽斎は留守番部隊だったようだ。忠興は「利休の七哲」の一人に加えられるほどの文人大名であるが、猛将で武断派の急先鋒。1599年に石田三成を襲撃した七将の一人でもある。

関ヶ原の合戦で、家康と毛利輝元・石田三成に分かれると、家康側につくのは自明の理である。三成は家康に従った諸将の妻子を人質にとろうと考え、忠興夫人・玉(細川ガラシャ)に兵を差し向けて連れ出そうとしたが、玉はこれを拒否して慶長5年(1600)7月17日に自刃した(玉はキリシタンなので、自害は許されず、実際は家臣・小笠原少斎しょうさいに自分を殺害するように命じた)。

忠興は嫉妬深く、玉に見とれて木から落ちた植木職人を手討ちにするほどであったから、人質にされるくらいなら、玉に自刃するよう命じていたという。結局、玉の自刃により三成は人質作戦を断念せざるを得なくなった。

かくして、慶長5年(1600)9月15日、関ヶ原の合戦が行われると、細川軍は奮戦して、徳川方の勝利に貢献した。

「古今和歌集」の権威として天皇に命を救われ、東軍勝利に貢献

一方、留守番部隊だった細川幽斎は、500に満たない兵で丹波田辺城に籠城。毛利・石田軍は1万5000ともいわれる大軍を送って、7月19日から攻城戦を開始した。ただ、攻め手の中には幽斎の歌道の弟子もおり、消極的な姿勢に終始した。

細川幽斎は古今伝授の伝承者である。古今伝授とは、勅撰和歌集である『古今和歌集』の解釈を秘伝として伝えるものである。朝廷は幽斎がまだ古今伝授を次世代に伝えていなかったため、幽斎の討ち死にによって伝承が途絶えるのを危惧した。幽斎の弟子・八条宮はちじょうのみや智仁親王、その兄・後陽成ごようぜい天皇は、使者を遣わして田辺城を開城するように説得したが、幽斎は拒否。

京都府の田辺城跡
京都府の田辺城跡(※写真はイメージです)

ついに天皇が勅使を使わして講和を勧め、9月13日に幽斎は開城した。当然、攻め手は関ヶ原の合戦に間に合わず、1万5000の兵を釘付けにしたことは、間接的に徳川方の勝利に貢献した。しかし、猛将・細川忠興は、討ち死にしなかった父の不甲斐なさを嘆き、しばらく父子間が不和になったという。

徳川の世となり、幽斎は長岡から細川へ復姓。77歳まで長生きし、慶長15年(1610)に、京都の邸宅で生涯を終えた。

幽斎の子孫・細川宗孝が江戸城で殺され、伊達家が窮地を救う

田辺城の攻め手の一人・谷衛友たにもりともは藤孝(幽斎)の弟子で、攻撃するふりをして空砲を撃っていたという。幕末にも似たような話があった。

明治維新の20年前、1747年のことだ。江戸城の厠かわや(トイレ)近くで、肥後熊本藩主・細川宗孝(幽斎の子孫)が刺殺された。犯人の板倉勝該いたくらかつかねは一族の板倉勝清を刺殺するつもりだったのだが、衣服に付いている家紋が似ていたため、誤って宗孝を刺殺してしまったのだという(幽斎が他の家紋を選んでいたらなぁ)。

宗孝はほぼ即死だったらしい。武家社会において殿中で刺殺されるとは不覚悟の極み、最悪は御家お取り潰しといわれても仕方がない。たまたま近くに居た伊達宗村が機転を利かせ、いい働きをした。「細川殿にはまだ息がある。早く屋敷に運んで手当てせよ」と叫んだのだ。宗孝の遺体は藩邸に運ばれ、「治療の甲斐なく死去」ということにした。併せて、子がなかった宗孝は、「弟を養子にしていた」と報告した。そのおかげで細川家は無事存続を許された(この後、細川家は家紋を図表2のようにアレンジした)。

【図表2】細川家の家紋「九曜紋」(中央)
筆者作成

細川家はこの件で仙台藩伊達家に大きな恩義を感じた。戊辰戦争で細川家は官軍として、仙台藩を攻める一角を担ったが、大砲は空砲を撃っていたという。歴史って、めぐりめぐっていくものなのだ。

菊地 浩之(きくち・ひろゆき)
経営史学者・系図研究者
1963年北海道生まれ。國學院大學経済学部を卒業後、ソフトウェア会社に入社。勤務の傍ら、論文・著作を発表。専門は企業集団、企業系列の研究。2005~06年、明治学院大学経済学部非常勤講師を兼務。06年、國學院大學博士(経済学)号を取得。著書に『企業集団の形成と解体』(日本経済評論社)、『日本の地方財閥30家』(平凡社新書)、『最新版 日本の15大財閥』『織田家臣団の系図』『豊臣家臣団の系図』『徳川家臣団の系図』(角川新書)、『三菱グループの研究』(洋泉社歴史新書)など多数。

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