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女性宮家の先駆けといえる存在…「博士論文性胃炎」にかかり悲恋も経験した彬子女王の次の王道

  • 2024.10.1

なぜ、三笠宮家の彬子女王が注目を集めているのか。宗教学者の島田裕巳さんは「皇族の女性という場合、皇太子妃や皇后に関心が集まってきたが、女王が注目されることは珍しい。彬子女王は、今議論されている女性宮家の先駆けになる」という――。

皇室の新たなスター誕生

日本の皇室に新しいスターが誕生した。

三笠宮家の彬子女王である。

イギリスへの留学記である『赤と青のガウン オックスフォード留学記』が文庫化され、ベストセラーになった。著者は、「徹子の部屋」をはじめとしたテレビ番組に次々と出演し、その存在が広く知られるようになった。

女王といえば、一般には「じょうおう」と読まれ、イギリスのエリザベス女王のように女性の王をさす。だが、彬子女王の女王は、内親王と対比されるものである。内親王が「嫡出の皇子及び嫡男系嫡出の皇孫」の女性であるのに対して、「三世以下の嫡男系嫡出の子孫」の女性である(皇室典範の規定による)。

昭和天皇の兄弟には、秩父宮、高松宮、三笠宮がいて、三笠宮の孫にあたる女性たちが女王と呼ばれる。彬子女王の父親は、「ヒゲの殿下」として親しまれた寬仁親王で、母親は麻生太郎元首相の妹、信子妃である。彬子女王の妹には瑶子女王がいる。

「博士論文性胃炎」にかかった女王

私も早速、『赤と青のガウン』を読んでみたが、とても興味深い本だった。それも、ただの留学記ではなく、オックスフォード大学で博士号を取得するまでの奮戦記だからである。

三笠宮彬子さま
三笠宮彬子さま(写真=Saji Kuichi/CC-BY-SA-3.0/Wikimedia Commons)

今とは違い、私が大学院生だった時代の日本の文系の大学では、博士論文など書かせてもらえなかった。指導に当たっている教授たちも、多くは博士号をもっていなかったからである。

その分、修士論文の比重が重く、しかも1970年代終わりにはワープロもなく、手書きだった。私の修士論文は300枚を超え、途中、とうてい書き終わらないのではと思うようになり、胃が痛くなった経験がある。生涯で胃が痛くなったのはそのときだけである。

その経験からすれば、オックスフォードという超名門大学で、しかも英語で博士論文を書くことがいかに大変かがわかる。彬子女王は、「博士論文性胃炎」にかかったという。その点には深く共感した。

皇室のなかには、オックスフォードの留学生が含まれている。現在の天皇夫妻、秋篠宮、それに寬仁親王である。他の国の大学に留学した経験をもつ皇族もいる。

また、秋篠宮夫妻は、博士号を取得しているが、どちらも日本の大学からである。高松宮妃は海外だが、名誉博士である。海外の大学で博士論文を書き、博士号を取得したのは彬子女王がはじめてのことである。

禁中並公家諸法度を誤読する教科書

天皇や皇族と学問との縁は深い。

江戸時代に徳川幕府が発した「禁中並公家諸法度」では、天皇の主なつとめとして、「天子諸芸能のこと、第一御学問なり」と、学問が筆頭にあげられていた。これは、鎌倉時代の順徳天皇があらわした「禁秘抄きんぴしょう」という有職故実ゆうそくこじつについての書物から引用されたものであった。

禁中並公家諸法度のこの部分については、日本史の教科書などでは、天皇を学問に専念させ、政治から遠ざけるためのものであると解説されている。

しかし、これに続く部分では、学問を行わなければ、昔からの道理は理解することができず、政治をよくし、世の中を太平にすることができないと述べられている。

教科書はまったくの誤読の上に解説しており、そのもとは、ジャーナリストで思想家の徳富蘇峰が『近世日本国民史』で述べたことにさかのぼる。徳川幕府はむしろ、天皇が歴史について学び、その上で政治に臨むことを奨励していたのだった。

歴史から生物学への関心の誘導

昭和天皇が生涯にわたって生物学を研究し、とくに変形菌類であるヒドロ虫類の研究で大きな成果をあげたことはよく知られている。その影響なのか、秋篠宮文仁親王はナマズの研究者として知られている。そして、悠仁親王はトンボについて研究している。

いずれも自然科学の研究であり、「禁秘抄」や禁中並公家諸法度が求めた国家の太平に結びつくような学問とは異なっている。

現在の天皇の場合には、学習院大学の史学科で学び、瀬戸内海の海上交通について研究した。だが、オックスフォードでは、対象が国内ではなくなり、テムズ川の水上交通について研究を行った。日本のことを研究すれば、どこかで国家の太平に結びつくかもしれないが、イギリスのテムズ川では、その可能性は低くなる。

ここで注目されることは、昭和天皇が生物学を研究するようになったいきさつである。昭和天皇は、学習院の院長だった乃木希典の発案で東宮御所内に創設された「御学問所」において、13歳から19歳まで、5人のご学友とともに教育をうけた。

その際、もっとも関心を示したのが歴史の授業だった。ところが、「最後の元勲」と言われた西園寺公望が、「歴史を深く学びすぎると特定のイデオロギーにかぶれてしまう」と、それを危険視し、それで生物学に関心がむくようになった、むしろ「むかされた」というのである(〈なぜ、天皇は「生物学」を研究するのか? 「歴史を学びすぎないように」と誘導される⁉ 皇族の教育方針の歴史〉『歴史人』2024年9月17日配信)。

西園寺公望
西園寺公望(写真=『近世名士写真 其1』/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons)
皇族自体を研究対象にした彬子女王

西園寺の考え方は、「禁秘抄」とはまったく対照的である。しかしそれが、近代になってからの天皇の学問のあり方についての代表的な見方であり、それは今日にまで踏襲されているのかもしれない。

現在の天皇が瀬戸内海の海上交通についての研究を続けていたとしたら、歴史学者の網野善彦が問題にした海の民と天皇制との関係にまで関心が広がっていたかもしれない。天皇自らが天皇制について研究するということは、センシティブな問題を生むことになる。

彬子女王は、現在の天皇と同様に学習院大学の史学科で学んでいたが、学問的な関心の移り変わりはまるで反対である。彬子女王は最初、古代ケルト史に関心をもっていた。ところが、最初に1年間オックスフォードに短期留学した際、日本美術史を専門とするようになる。海外における日本美術のコレクションが、いかなる観点からなされたかの研究である。

美術史の研究であれば、まだ国家の太平には遠い。だが、彬子女王の研究のなかには、「女性皇族の衣装の変移について 明治の洋装化がもたらしたもの」(『京都産業大学日本文化研究所紀要』24、2019年)なども含まれる。皇族自体が研究の対象になっているのだ。

「バズり」がベストセラーのきっかけに

しかも、イギリスから帰国後は、立命館大学に就職し、それ以降、京都を拠点に活動を展開している。2012年には、子どもたちに日本文化を伝える「心游舎しんゆうしゃ」という組織を仲間と立ち上げ、翌年一般社団法人になってからは総裁に就任している。その本部は、「二所宗廟にしょそうびょう」と呼ばれ、伊勢神宮とともに重視された石清水八幡宮にある。

石清水八幡宮が、二所宗廟とされたのは、そこで祀られる八幡神が応神天皇と習合したからである。それに、現在の神社本庁の総長は、石清水八幡宮の宮司でもある。

彬子女王の『赤と青のガウン』が文庫化され、ベストセラーになったきっかけは、X(旧ツィッター)での「プリンセスの日常が面白すぎる」という一般の人からの投稿だった。

本人は、そのことについて、テレビのインタビューで「バズる」という表現を使っていた。もしそうした言い方を、たとえば雅子妃や愛子内親王がしたとしたら、そのこと自体大きなニュースになるのは間違いない。

そうした発言が当たり前のようにできるのは、女王という立場にあるからだろう。留学前、同じオックスフォードに留学経験を持つ現在の天皇夫妻に面会するとき緊張したと述べているところに、女王という立場の微妙さが示されている。

2019年の即位礼正殿の儀での三笠宮彬子さま
2019年の即位礼正殿の儀での三笠宮彬子さま(写真=首相官邸 from YouTube/CC-BY-3.0/Wikimedia Commons)
人々を魅了する率直な発言の源

皇族の女性という場合、一般の社会から嫁いできた皇太子妃や皇后に関心が集まってきたが、逆に、結婚すると皇族を離れ、一般の社会に出ていくことになる女王が注目されることは珍しい。『赤と青のガウン』は、そうした女王の目を通し、皇室がいかなるものとして見えてくるのか、それを教えてくれたところに大きな魅力があるように感じた。

しかも、彬子女王は、博士論文を書くための留学期間、皇族を警固する「側衛」もついておらず、自由を存分に味わった。それも、彼女のフットワークの軽さや、読者や視聴者を魅了する率直な発言に結びついていることだろう。それが一躍、彼女を皇室のスターに押し上げたのだ。

彬子女王 子どもたちに日本の文化を
心游舎の活動について語る彬子さま=東京都港区、赤坂御用地内の三笠宮東邸、2022年6月

今後、各種のメディアにおいて、彬子女王が発言する機会は増えていくことだろう。となると、どういった発言を行うかに注目が集まる。そして、メディアの側も、皇室自体のことについて話を聞き出そうとするようになるかもしれない。

女性宮家の先駆けとしての役割

ただ、彬子女王の父親、寛仁親王は、若い頃には、社会活動に専念したいと皇籍離脱を希望したことがあった。そして、2005年に、首相の諮問機関である「皇室典範に関する有識者会議」が女性・女系天皇を容認する提言をまとめた際には、男系継承維持を主張し、大きな話題になった。それは、皇族は政治的発言を控えるべきだという暗黙の了解に反するものだったからである。

『赤と青のガウン』では、彬子女王が結婚を考えた男性のことがさりげなく登場する。そこも読みどころだが、その方との結婚はあきらめたという。

となると、やがて彬子女王は結婚しないまま三笠宮家の当主になる可能性がある。今でも実質的にその役割を担っているのかもしれない。とすれば、彼女は、今議論されている女性宮家の先駆けということになる。

女性宮家とはどういうものなのか。彬子女王のこれからの活動が、その重要性を証明することになるはずだ。

島田 裕巳(しまだ・ひろみ)
宗教学者、作家
放送教育開発センター助教授、日本女子大学教授、東京大学先端科学技術研究センター特任研究員、同客員研究員を歴任。『葬式は、要らない』(幻冬舎新書)、『教養としての世界宗教史』(宝島社)、『宗教別おもてなしマニュアル』(中公新書ラクレ)、『新宗教 戦後政争史』(朝日新書)など著書多数。

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