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【神野三鈴さん】連載「ものがたりのちから」

  • 2024.9.30

生まれて初めて、演出も音楽もない、小さなギャラリーで朗読会をすることになった。私を舞台役者として育ててくださった、井上ひさし先生の小説「新釈 遠野物語」を読む。

お客様の前で、本を持ちながら読むという朗読は慣れていないのでこれはちゃんと練習しなければ! と文庫本を引っ張り出した。そして開いた途端、絶望した。

字が読めない。引いたり、寄せたりしても読めない。見えない。
老眼がこんなに進んでいることに気が付かないほど、読書から離れていたの? と愕然とした。

今好きなことは今楽しめ! という説話で、読書が趣味で、お小遣いの殆どを本の収集に費やし、老後にそれらを読むのを楽しみにしていた人が、いざそのときを迎えたら、視力も気力も無くなっていたという切ない話を聞いたことを思い出し、「ほう、真理かもしれんな」と爺さん口調で呟いた。でも諦めるのはまだ早い! 衰えていく変化(老眼も)を初心で受け止めていこうと決めた。

まずはカッコイイ老眼鏡を作りに行くぞ。何より読書する喜びは諦められない。この小さな四角いものの中には、まだ出合ったことのない物語が待っている。そして私たちの人生には「物語」が必要なのだ。幼い頃から本がとても好きだった。

読むのはもちろん本が並べられた本棚の、その背表紙に書かれたタイトルを眺めて、どんな世界が潜んでいるのか想像するのも好きだった。表紙をめくればひとつひとつ違う世界が繰り広げられている。出会ったことのない者たちが動き出す瞬間をじっと待っているような、ざわざわとした気配を孕んでいた。

自分で1ページずつ読み進めていかなくてはならないのも、自分の足で(目だけど)一歩ずつ進んでいく感じが、ちょっとした冒険気分だ。本に思い入れが強かったのは、父の事業の激しい浮き沈みの影響で、引越しばかりの子ども時代も関係していたのかもしれない。

鎌倉で生まれた後は小学校時代の6年間、北海道から沖縄まで六度の引越しと五回の転校を経験した。林芙美子の『放浪記』の、「私には故郷と呼べる場所がない」という一節に「あっ私もだ…」と本から自分の感情に合う言葉をもらった気がした。

引越しの度に華美な思い出の品は姿を消したが、3人の子どものために、母は大きな二つの本棚分の本だけは死守していた。だからお金がない時期でも本を読むことはできたのと、馴染みのない環境に慣れるまでは見知った顔ぶれの本達が友達だった。

そして物語の中で私はいろんな人に出会い、彼らの経験を一緒に伴走していた。主人公の一生の出来事を体験させてくれたり、もっともっと長い歴史の時間の世界観を教えてくれた。昨日、今日、明日のことで囚われている日常の中で、それは自分の今抱えている問題を小さく感じさせる力があった。

登場人物の人生に励まされたり、憧れたり、ノックアウトされたり、うわあ、私は恵まれているなあと感じたり。自分がなにが好きか知っていく旅にも似ていた。そして今回朗読する、井上先生の本もこの本棚にいた。受け取ってくれる誰かのために物語を書き続けた井上ひさしさん。そして住処を転々としながら、それを受け取っていた私。

まさか自分が井上先生の物語の登場人物を演じることになるとは、夢にも思っていなかったけれど。朗読会のお知らせのために書いた自分の文章が、あの頃の私を蘇らせた。

拝啓 井上ひさしさま

あなたの「ものがたり」が私を何度も救ってくれました。私には「ものがたり」が必要なんです。他者の人生をまるで自分が生きたように体験したり、別の世界があることを想像したり。

なかなか上手くいかない自分の人生を誰かの「ものがたり」を通して抱きしめなおしたりするんです。ほんの少しだけでも日常から違う世界に心をあそばせ笑ったり涙したり。

あなたのこの世界を語る言葉から私の心は旅をするのです。

そして「ものがたり」の旅から戻ると前よりこの世界が人がいのちが愛おしく思えるのです。

神野三鈴

あの時の少女が老眼鏡をかけて、井上先生の本を朗読いたします。今日は、あなたの物語の一番新しいページ、冒険がまた始まるかも。

鎌倉にある「しかけ絵本専門店メッゲンドルファー」。
時間を忘れていろいろな絵本に夢中になってしまう。知的な雰囲気のオーナーご家族にお会いするのも楽しみ。
お気に入りの本屋さんです。

文/神野三鈴 撮影/枦木功[nomadica] スタイリング/平井律子 ヘアメイク/奈良井 由美 協力/しかけ絵本専門店メッゲンドルファー

大人のおしゃれ手帖2024年9月号より抜粋
※画像・文章の無断転載はご遠慮ください

この記事を書いた人

大人のおしゃれ手帖編集部

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