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町田康『家事にかまけて』第2回:持続可能性とLED照明

  • 2024.9.27
動物たちと食事をするイラスト

このところ巷で、SDGs、という言葉をよく耳にする。SクラスとDクラスの爺ぃ達、という意味ではなく、Sustainable Development Goalsという英語を略したもので、持続可能な開発目標という意味らしい。

なんのこっちゃわからんので検索すると、「このまま人間がいい感じの暮らしを求め続けたら全体的な不具合が生じてあかん感じになってまうので適宜考えながらやっていくから文句言うな」みたいなことが書いてあった。

これを俺の生活に当てはめるとなにがあるのだろうか。俺は別になにも開発してないから関係がなさそうなものだが、しかし便利な現代文明を享受していることについては間違いがない。

例えば東京から約百キロ離れた伊豆の片田舎に住んでいる俺は日々の買い物や仕事に出掛ける際、必ず自動車に乗って出掛ける。これによって、ほんの数十分で歩いて行ったら丸一日かかるようなところへも行くことができる。うれしい。

だけどこれに持続可能性がないのは明らかである。

なぜなら俺の車は昔ながらのガソリン車で、ガソリンがないとただの鉄の塊だが、ガソリンの原料であるところの石油は、今はまだ有るけれども、何十年かしたらなくなってしまう。つまり持続可能性がない。

それを防止するためにはどうしたらよいのか。ひとつには自動車をやめ、歩きで行く。という方法がある。どういうことかというと別にその通りで歩いて行くのである。

俺は毎週決まった曜日に東京に仕事をしぃに行くが、その際は日の丸弁当をぶら下げて三日前に家を出る。そして小田原で一泊し、平塚でもう一泊して、三日目にようやっと職場に着くからである。その日は東京に泊まり、また三日掛けて家に帰る。その翌日にはまた家を出て東京に向かう。そうすることによって持続可能性が……、生まれるかあっ。一回で嫌になるに決まっている。

そこで、EV車や水素カーに乗れ、と仰る方があるが、それだって電気を使うんやったら一緒ちゃうんけ?と俺なんかは思ってしまい、乗り換え/買い替えの金がないことも相俟って未だに持続可能性がまったくないガソリン車両に乗り続けている。なので今後、世の中の持続可能性がなくなった場合、その責任の一端は間違いなく俺にある。なので今のうちに謝罪しておく。すみません。なるべく五十年以内に死んでお詫びします。

だけど一寸の虫にも五分の魂。俺とてまったく手を拱(こまね)いてなにもしないでいる訳ではなく、やれることはやっている。それは例えば家の白熱電球の多くをLED照明に換えたという点だ。このLEDというのがなにを意味するのか俺は知らない。或いは、ロング・エレクトリック・ドングリの略で、日持ちがして、クマやシカのエサとなり、そして人間も食べることができ、剰え焼酎などにも加工できる団栗のような照明、という意味なのかも知れないが、これは飽くまでも俺の推測なので違っているのかも知れない。

動物たちと食事をするイラスト

しかしこれの消費電力が従来のものに比べて低く、これにより持続性が高まることには間違いがなく、これに換えることよってガソリン車に乗っていることによって背負った罪業は相殺されるという効果が期待される。ところが。

これがなんというか、俺が買ったやつが偶々不良品だったのか、本来、長寿命という触れこみでもあったのに、過日、突如として点灯しなくなった。場所は一階の廊下で、これには人感センサーという乳首に似た装置が取り付けてあり、人が通ると点灯し、暫くすると消灯する仕組みになっているのだが、おそらくそれが壊れたのだろう、真下を通っても点灯しなくなった。

廊下には三箇所に灯りがあり、灯らなくなったのは、うち真ン中の一箇所なので、真の闇ではないが、本来、器具があって灯りが灯らないのは、ただでさえ住み荒らした陋屋(ろうおく)がより廃屋じみて、それだけで気持ちが荒むので早く交換したい、とそう思いつつ、もう半年以上になる。

なぜ半年も放置しているかというと、それには門口の門灯が関係している。なぜ一見無関係に思える廊下の照明と門灯が関係しているかというと、そちらの方には世間が暗くなると点灯し、明るくなると消灯する式のセンサーが付いているのだが、数年前からこれが故障して、昼日中から灯りが付きっぱなしになっている。

これに関してはマア別に真の闇になっている訳ではないので廃れてる感はないのだが、しかし無駄に電力を費消しているのであって、SDGsの観点から言うと大いに問題であり、これについて俺は人類に対して負い目も感じ、大いに心を痛めていた。

だが廊下のセンサーが壊れて灯りが灯らなくなったことにより、門灯が点灯し続けていることによって費消される電力は相殺されてプラスマイナスゼロとなる。これに問題があるとすれば、右に言った、廃屋感、によって俺の精神力が弱まるという点であるが、俺はそれは人類のために捧げようと思っている。

また世の中には、「ならば門灯も交換すればいいぢやないか。そうすればもつと持続可能性が高まるぢやないか。それをせぬのは不精だよ」と無理難題を言って俺を誹謗する人もあるだろうが、馬鹿も休み休み言え。電球ならば、ただ買ってきて自分で踏み台に乗って交換することができるが、門灯ともなれば業者に発注せねばならず、その業者を選定したり、見積を取って交渉したり、費用を工面したり、と精神的な労苦が発生するが、そのための精神力は今言ったとおり、家の廃屋感によって失われているんだよ。

そんなこともわからぬ阿呆にも、理屈を捏ねてやるべきことを先延ばしにするクズにも等しく日の光は射し、季節はめぐる。そんな私たちのかけがえのない地球環境を俺はなによりも大切にしたい。

朝晩、涼しくなってきた。そろそろ秋だ。

profile

町田康

まちだ・こう/1962年大阪生まれ。作家。『くっすん大黒』でBunkamuraドゥマゴ文学賞、野間文芸新人賞、「きれぎれ」で芥川賞、『告白』で谷崎潤一郎賞、『宿屋めぐり』で野間文芸賞など受賞多数。他の著書に「猫にかまけて」シリーズ、『ホサナ』『ギケイキ』『しらふで生きる』『口訳 古事記』など。

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