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アニー・レノックス、ルールを打ち破るパイオニアが問う差別と自由【社会変化を率いるセレブたち】

  • 2024.9.19

「『あなたは女性なのだから、女性らしい装いをして、女性らしい人生を歩まなければならない』という暗黙の縛りが蔓延するこの社会では、性差別があらゆる形で存在しています。ですから、その影響から逃れるためには、本当の自分を表現する強さが必要です。たとえそれが世間を不快にさせたり、怖がらせたりしたとしても、それは私の問題ではありません、と主張し続ける一貫性が大切でなのです」

かつてアメリカの経営学誌『ハーバード・ビジネス・レビュー』のインタビューでこう語ったアニー・レノックスは、1954年12月25日、スコットランド・アバディーンに生まれたレジェンドだ。1970年後半にニューウェーブバンド、ツーリスツを経て、1980年に当時恋人だったデイヴ・スチュワートとユーリズミックスを結成。デビューシングル「Sweet Dreams (are made of this)」(1983)のMVで披露した独特の声とオレンジのバズカット、そしてメンズのラウンジスーツ姿で世界に衝撃を与え、音楽性だけでなく、アイコニックなイメージの確立という面でも、大きな成功を収めた。以降「There Must Me an Angel (Playing with My Heart)」、「Love Is a Stranger」、「Here Comes the Rain Again」などを発表し、1990年に解散。このときのことを、レノックスはのちにこう振り返っている。

「多くのクリエイティブなグループ同様、長く活動を続けているとお互いが別の方向に進んでいる、もしくは同じことを繰り返していると感じるようになります。アーティストの本質は、常に探究すること。ですから、私たちはそれぞれがやりたいことを、それぞれの方法で探求することにしたのです。それに私は、ユーリズミックスで築いた成功から一旦離れたい、と感じていたのです」

自分らしさを追求することとは

ユーリズミックスのアニー・レノックス。1985年撮影。Photo_ Steve Rapport/Getty Images
Annie Lennox Of Eurythmics At The Churchill Hotel Londonユーリズミックスのアニー・レノックス。1985年撮影。Photo: Steve Rapport/Getty Images

そんな彼女のアンドロジナスなルックは、80年代の世界のLGBTQ+コミュニティから大きな注目を集め、その独特の声と挑発的なパフォーマンスとともにグローバルな支持を得た。そしてレノックスは、デビュー当時からLGBTQ+アライとして広く認知され、アイコン的存在として多方面でコミュニティ支持を訴え続けた。

一方で、ときを同じくして登場したボーイ・ジョージ率いるカルチャー・クラブとともにイギリス「SMASH HITS」紙のカバーを飾ったレノックスは、新たな時代の“ジェンダーベンダー”(性別が判断できないような装いをする人)として世界の注目を集めると同時に、 クローゼットの中に本当の自分を隠している人々へ音楽表現を通して勇気をもたらした。

1984年のグラミー賞にて、エルヴィス・プレスリーに扮したレノックスとデイヴ・スチュワート。Photo_ Barry King / WireImage
The 26th Annual GRAMMY Awards1984年のグラミー賞にて、エルヴィス・プレスリーに扮したレノックスとデイヴ・スチュワート。Photo: Barry King / WireImage

このムーブメントにシンガーのマリリンやデッド・オア・アライヴの故ピート・バーンズらが続き、その勢いは止まることなくアメリカへと波及。『ニューズウィーク』誌などのメディアがこぞってレノックスをカバーに起用し、ジェンダーの意味を問う内容の特集を組むなど、一躍時代の寵児となった。が、当のレノックス本人は当時の熱狂ぶりや、ジェンダーベンダーと呼ばれてきたことについて大きな違和感を感じていたとYahoo!の取材でこう振り返る。

「どうやらボーイ・ジョージと私は、ある意味“共犯”だったようですね(笑)。私が観察したところ、社会で文化が進化する段階では似たものが溢れる現象がよく起こるようです。ジョージは視覚的に社会に対してとても挑戦的でした。実際彼はとても背が高くがっしりした体格で、その“大男”が性別を撹乱するような装いでパフォーマンスするのです。『ねえ、私を男だと思う?あなたがそう思うなら私は男。それが不快なら、あなたが心地よいと感じるものになります。そのために私はここにいるのです。あなたのために男にも女にもなります』と。つまり、私たちはただ私たち自身が心地よいと思うルックで勝負しているだけで、私たちのジェンダーは見る人の判断に委ねているだけなのです」

こう語る彼女が、1984年のグラミー賞授賞式でエルヴィス・プレスリーに扮して披露したパフォーマンスは、ジェンダーにこだわる社会を挑発したものとして、今なおミュージックシーンの“伝説”として大きなインパクトを残している。

差別と分離への反抗

2024 グリーン・カーペット・ファッション・アワードにて。Photo_ Frazer Harrison/Getty Images
2024 Green Carpet Fashion Awards2024 グリーン・カーペット・ファッション・アワードにて。Photo: Frazer Harrison/Getty Images

「16歳のとき、私が通っていたスコットランドの学校にリクルーターが来ました。彼は白人の南アフリカ人で、『現地で音楽を教えるなら、贅沢な暮らしを約束する』と私たちに言いました。私は、そのとき不思議に思いました──公民権のない国なのに、なぜ私たちの将来を安易に約束できるのだろうかと。私は、子どものころからアパルトヘイトや性差別に見られる『私たち』と『彼ら』という分離の概念に不安を感じてきたのです」

Oprah.com」でこう語るレノックスは、その後ユーリズミックスとして南アフリカでのパフォーマンスを打診された際、アパルトヘイト撤廃を要求すべく他のアーティストとともに一斉にボイコットした。かわりに、70年代からイギリスで続く人種差別反対ムーブメント「Rock Against Racism」に出演し、その収益金の全てを南アフリカで反アパルトヘイト活動を続けてきた団体「アフリカ民族会議」に寄付している。

ネルソン・マンデラの90歳の誕生日を祝して開催されたコンサートにて。Photo_ Dave M. Benett / Getty Images
Artists Pose Together Ahead Of The 46664 Concertネルソン・マンデラの90歳の誕生日を祝して開催されたコンサートにて。Photo: Dave M. Benett / Getty Images

そんな彼女は、自身が本格的に活動家として開眼したのは1988年の故ネルソン・マンデラ生誕70周年記念コンサートのステージに立ったときであり、その後の活動により一層精力的に取り組むようになったときにもまた、マンデラの存在があったと明かす。

「2003年に南アフリカの元大統領ネルソン・マンデラが、エイズチャリティーコンサートに出演するよう私に打診してきました。『アフリカにおけるエイズは大量虐殺であり、1,700万人が死亡しているのに有効な対応は何もされていない』と訴える彼の言葉を聞いた瞬間、私は何か強い力に導かれたような気がしたのです。私はシンガーソングライターで、パフォーマーで、母親ですが、その瞬間活動家へと進化したのをはっきり認識しました。その後あらゆる差別の撤廃のため世界各国で講演し、ブログを書き、さまざまな問題により一層精力的に関わり始めたのは、この彼の言葉があったからです」

長年に渡りアムネスティ・インターナショナルのサポーターとして尽力し、1999年のユーリズミックスの「ピースツアー」の収益をすべてを同団体に寄付するなど、自身が築き上げてきた富と名声を惜しみなく社会変革運動のために投じてきたレノックス。そして現在、南アフリカ出身の産婦人科医で3番目の夫ミッチェル・ベッサーと二人の子どもと暮らし、アフリカのエイズチャリティなど差別撤廃に尽力し続けている彼女は、『fotune』誌から自身をどう見ているか、と問われた際こんな風に答えている。

「ビリオネアの中には、慈善活動をしている人もいればそうでない人もいる。私ですか? 私は、ただの活動家です」

Text: Masami Yokoyama Editor: Mina Oba

NAPA, CALIFORNIA - MAY 24_ Megan Thee Stallion performs on Day 1 of BottleRock Napa Valley at Napa Valley Expo on May 24, 2024 in Napa, California. (Photo by Steve Jennings/Getty Images)
CANNES, FRANCE - MAY 17_ Soo Joo Park attends the
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