1. トップ
  2. おでかけ
  3. 【日本三大銅山】栃木「足尾銅山」・愛媛「別子銅山」もう一箇所は?それぞれの歴史と共通点

【日本三大銅山】栃木「足尾銅山」・愛媛「別子銅山」もう一箇所は?それぞれの歴史と共通点

  • 2024.9.18

銅山とは銅を採掘するための鉱山を指します。今でも、電線や電子機器、配線などに使われており、電気製品や通信インフラに欠かせない存在です。今回は、日本三大銅山に挙げられる栃木県の「足尾銅山」、愛媛県の「別子銅山」、茨城県の「日立銅山」の歴史や共通点などをご紹介。なお2024年現在、日本国内の銅山はすべて閉山しています。

1890年代に日本一の銅山に! 400余年の歴史を誇る「足尾銅山」(栃木県日光市)

16世紀後半に佐野氏によって発見された「足尾銅山」。以来、江戸幕府の管轄下におかれ、多くの労働者が採掘と製錬を行い、江戸中期には足尾千軒と呼ばれるほど繁栄しました。その後、一時的に衰退しますが、1877年に経営者が古河市兵衛(ふるかわ いちべえ)になったことで状況が一変。

先進的な技術と設備を導入したことにより、1890年代には日本産銅の40%を産出する、日本一の銅山に! さらに次々と鉱脈が発見され、大正時代以降も発展が続きました。

しかし、自然破壊による洪水や、足尾鉱毒事件という公害問題が起こり、廃止の危機に。そのため、のべ58万3千人の人夫が予防工事にあたり、その努力の結果、1903年の洪水の際は鉱毒の被害は著しく減少。

ところが戦後、欧米諸国の発展に伴う貿易の拡大や、世界的な自由化による影響で、閉山を阻止することができず、1973年に閉山しました。

そんな足尾銅山の坑内の一部(全長約460m)は観光可能。トロッコ電車に乗って、薄暗い坑内に入っていくと、鉱石採掘の様子を年代ごとに再現したリアルな人形が展示されています。さらに鉱石から銅になるまでの過程などが展示されている銅資料館、足字銭の鋳造過程が展示されている鋳銭座も併設。足尾銅山の歴史の歩みを学ぶことができますよ。

また、足尾銅山でつくられた江戸時代の貨幣・寛永通宝(一文銭)には、すべて裏に「足」の字が刻まれており、それを模った「足字銭最中」がお土産として人気です。

足尾銅山観光

住所:栃木県日光市足尾町通洞9-2

電話:0288-93-3240

営業時間:9:00~17:00(最終入場 16:15)

休業日:年中無休

料金:大人(高校生以上) 830円、子ども(小・中学生) 410円

交通アクセス:JR日光線「日光駅」・東武日光線「東武日光駅」から市営バス足尾行き乗車約53分、「銅山観光前」バス停下車、徒歩約2分

“東洋のマチュピチュ”と呼ばれる産業遺跡群が残る「別子銅山」(愛媛県新居浜市)

愛媛県新居浜市の赤石山系に位置する「別子銅山」は、一説では1690年に立川銅山(現・新居浜市立川山)で働いていた鉱夫の長兵衛や源四郎らによって発見されたといわれています。その後、住友家が採掘中の備中国吉岡銅山に報告され、その翌年から住友家による採掘が開始。

そして1695年には、別子銅山山中に2,700人もの店員と稼人が暮らす鉱山町が形成されたそうです。明治時代に入ると、住友家は近代化を決意。それまで人力で行っていた作業工程に、火薬とダイナマイトを導入しました。さらに「東延斜坑」と呼ばれる鉱石搬出用のシャフトを設置したほか、1893年には鉄道も整備。

これにより、鉱山業から派生した金属製錬業や機械工業、化学工業や電力業・林業といった拠点施設が築かれ、銅山を中心にして、新居浜市は瀬戸内海岸で有数の都市へと発展。

しかし、採掘場所が海面下1,000mの地中深部に達したことで、採掘の負担が増大。それに追い討ちをかけるように、海外からの鉱石輸入も本格化しました。

最後は、1971年8月15日のドルショックを引き金に1973年に別子銅山は終掘になりました。

そんな別子銅山の軌跡を詳しく知りたいのなら「別子銅山記念館」へ。開坑以来の歴史資料や鉱石、採鉱技術資料、鉱山の生活風俗資料といった興味深い品々を展示しています。

この記念館は、明治時代に操業されていた銅製錬所の跡地および大山積神社の境内にあることにも注目を! 半地下構造の建物で、内部の様子がわからず銅山の坑内に入っていくような気分を味わえます。記念館の前に大山積神社の鳥居がそびえている点もユニークですよ。

また本格的な産業遺産群を見学したいのなら、「マイントピア別子 東平地区」がおすすめ。標高750mの山中に立ち並ぶ石造りの遺構がマチュピチュを彷彿させます。麓にある道の駅「マイントピア別子」からはガイド付きマイクロバスも運行中です。

別子銅山 東平地区

住所:愛媛県新居浜市立川町654

電話:0897-43-1801

当時としては世界一の高さを誇る煙突を建設した「日立銅山」(茨城県日立市)

大煙突の遺構

古くは赤沢銅山と称されていた「日立銅山」は、1591年に常陸領主の佐竹義重(さたけ よししげ)によって発見されたと伝えられます。その後、何度か稼行されたものの、鉱毒水による田畑の汚染などにより、発展しませんでした。

ところが1905年、久原房之助(くはら ふさのすけ)が買収し、日立鉱山と改称。大規模な自家発電により坑内外の電化を図り開発に成功します。

しかし、1907年には煙害問題が発生。近隣農民の煙害反対運動に直面したため、当時としては世界一の高さを誇る155.7mの煙突を建設し、危機を回避しました。

そして1916年には従業員数7500人、産銅量1万3800tを記録。久原は第一次世界大戦期に最大の金属鉱業者へと成長しました。

ですが1970年代に入ると、鉱況が急速に悪化。1981年に閉山しました。

鉱山閉山後の1986年に開館した「日鉱記念館」は一見の価値あり。創業者である久原房之助にちなんだ資料が並ぶ「本館」、歴代の削岩機を展示する「鉱山資料館」などがあり、日立鉱山の歴史はもちろん、世界の鉱山の様子や日立市の発展の経緯も学ぶことができます。

地下には、坑内の様子を再現した「模擬坑道」も! 実物機器と人形を用いた展示でリアルです。かつて世界一の高さを誇った「大煙突」に関する展示もお見逃しなく。

日鉱記念館

住所:茨城県日立市宮田町3585

電話:0294-21-8411

開館時間:9:00~16:00(入館受付は15:30まで)

入館料:無料

交通アクセス:JR常磐線「日立駅」から、茨城交通バス東河内行きに乗車して約30分、「日鉱記念館前」下車

日本三大鉱山の共通点とは?

いずれも主に江戸時代から明治時代にかけて銅の生産地として機能し、日本経済や工業の発展に多大な貢献をしました。特に近代化の時代においては、これらの鉱山が日本の産業革命を支えたといえるでしょう。

[参考]

栃木県

とちぎ旅ネット|公益社団法人栃木県観光物産協会

日光市公式観光WEB

愛媛県生涯学習センター

住友グループ広報委員会

日立市

国史大辞典・世界大百科事典

[All photos by Shutterstock.com]

元記事で読む
の記事をもっとみる