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「線路に椅子を持ち出してのんびりとダージリンティーを飲む」日本人が知らない鉄ちゃん垂涎の世界遺産の風景

  • 2024.9.13

2024年7月、新潟・佐渡金山が新たに登録され、日本の世界遺産は26件となった。世界総数約1200件とされるその全貌には、どのような“遺産”が含まれているのか。日本人唯一の世界遺産条約専門官である林菜央さんは「環境保存のためにも『産業遺産』と『海洋遺産』というカテゴリーを多くの人に知ってほしい」という――。

※本稿は、林菜央『日本人が知らない世界遺産』(朝日新書)の一部を再編集したものです。

産業遺産はライフスタイルの反映

条約やその指針に明確に定義はされていませんが、共通の特徴を持ったグループとして認識されている、一般的にはあまり知られていない世界遺産のカテゴリーについて、ご紹介したいと思います。

その一つである産業遺産は、文化遺産のひとつの区分とみなされており、産業革命以降、人間のライフスタイルに劇的な変化をもたらした技術的革新や産業にちなむ場所や施設がこれにあたります。日本では、「富岡製糸場と絹産業遺産群」や「石見銀山遺跡とその文化的景観」などが産業遺産にあたります。

鉱山、輸送機関などが代表例で、また産業によって変化した社会生活を体現する住宅群、産業博物館なども含まれます。このカテゴリーの遺産を産業考古学という分野で研究し、その保存修復について専門に扱う機関として、ICOMOS(国際記念物遺跡会議)に認定された「産業遺産の保存のための国際委員会」(TICCIH:The International Committee for the Conservation of the Industrial Heritage)があります。

東京の上野にある国立西洋美術館本館を含む「ル・コルビュジエの建築作品――近代建築運動への顕著な貢献」(フランス、アルゼンチン、ドイツ、日本、ベルギー、インド、スイス)は、異なる大陸の7カ国に17の構成資産を有するという希少な世界遺産案件です。フランスの著名な近代建築家ル・コルビュジエが世界各地で新たな社会の要請にこたえるため設計した20世紀建築の代表的な作品が集められています。

インドの山岳鉄道群はアジア初の産業遺産

私が保存状況の査察のため訪れた産業遺産の中に、「インドの山岳鉄道群(Mountain railways of India)」があります。

今も地元の暮らしに必要とされているインドの山岳鉄道
今も地元の暮らしに必要とされているインドの山岳鉄道(出典=『日本人が知らない世界遺産』朝日新書)

インドの異なった州の山岳部を走る3つの鉄道を統合した遺産です。もともと1999年に、「ダージリン・ヒマラヤ鉄道」として単一資産が登録され、2005年に「ニルギリ山岳鉄道」が登録対象に加えられた際に現在の名称に変更されました。

2008年にはさらに「カルカ・シムラ鉄道」が構成資産として追加承認されました。アジア初の産業遺産として登録されたこの「インドの山岳鉄道群」は、1番目の構成資産であるダージリン・ヒマラヤ鉄道が現在でもなお、山岳での鉄道運営を技術的に克服した最も顕著な例とされています。1881年に設立され、技術革新のみならず、当初は移動が困難だったヒマラヤ地方の平野部と山岳地帯の住民の交流、物資の流通などに大きな役割を果たしました。

ニルギリ山岳鉄道は、1854年から1908年まで50年以上かけて完成し、標高326メートルから2203メートルまで走る鉄道です。

カルカ・シムラ鉄道は、19世紀半ばに、山の上にあるシムラの街に人手や食料を調達するための手段として拓かれました。

鉄道好きにも住民にも求められるライフライン

私が査察に訪れたのは12月。1週間で5カ所を回るという体力的にかなり骨の折れる出張でしたが、ダージリンとシムラの鉄道に乗せてもらいました。

ダージリン鉄道路線は、山岳鉄道のイメージを地で行く車両や駅が多く、列車には「ヒマラヤン・プリンセス」などそれぞれに名前も付けられ、姿も愛らしい観光列車の趣おもむきもありましたが、実際には住民もいまだにこの鉄道をライフラインとして使っています。

鉄道が開通した当時から、その周辺にはすでに住居地区があったので、住宅も店舗も線路のすぐ横に建っており、電車が走っていない間、線路に椅子を持ち出してのんびりとダージリンティーを飲む人々の姿も見られました。

これを安全上、保全上、危険だと問題視する向きもあります。しかし世界遺産の中には、登録以前からその場所に居住していた人々がたくさんいるケースもあることから、簡単に住民の立ち退き要求や土地のステータスを変更することはできません。

鉄道車両やエンジンの維持や修理を行っているダージリンの工房は、こちらも技術装置など見どころが多く、鉄道好きな方には必見の場所ではないかと思います。新しい建築物や、住居などの景観への影響は指摘されますが、車窓からはどこまでも広がるダージリンのお茶畑や、万年雪をいただくヒマラヤの霊峰カンチェンジュンガを臨むことができました。

ダージリン鉄道の沿線には多くの駅があり、観光ルートらしく、小さな博物館や展示コーナーが設置されているところが多いです。渓谷の間に建てられた、英国風のティーハウスも素敵でした。

カルカ・シムラの方は、さらに実用的な鉄道として多くの人に使われており、3つとも現在でもその機能は変わらないままです。

海洋遺産はガラパゴス諸島に始まり50件

海洋遺産は、言うまでもなく自然遺産のひとつの分野で、1978年、条約が発効して最初に登録された遺産の中に、海洋遺産としてすでにガラパゴス諸島(エクアドル)がありました。

世界遺産条約局には、「海洋遺産プログラム」があり、この分野に当てはまる世界遺産案件に対し、独自の支援プログラムを展開しています。

現在、海洋遺産として数えられる案件は37カ国に50件あります。いずれも、海洋の生物多様性、エコシステム、地質学的プロセスや景観美を誇ります。

しかし、気候変動、海洋汚染、開発の進行などにより、いくつかの海洋遺産は大きな危機に瀕しており、中でもオーストラリアの「グレート・バリア・リーフ」は、2012年ころから沿岸部での港湾施設の拡大による水質変化、海水温の上昇などのため、その主要な構成要素であるサンゴ礁が白化する現象が加速しています。一時期は危機遺産リスト入りも検討されるほど深刻な問題を指摘されていました。

グレート・バリア・リーフ
※写真はイメージです

登録当時、海域には400種のサンゴ、1500種の魚、4000種の軟体動物が観察される世界最大のサンゴ礁があり、オオミドリウミガメやジュゴンなど、絶滅危惧種も確認されていました。

海洋遺産は、範囲が広域にわたることと、人間には必ずしも完全にコントロールできない環境変化なども影響するため、その保存にはさまざまな角度からの研究や総合的な対策が必要になります。オーストラリア政府は2050年をターゲットにした海域持続計画を打ち出し、水質の向上などを目標に活動しています。

森林地帯スンダルバンの危機的状況

近年私が実際に関わっている海洋遺産のひとつに、世界最大のマングローブ林のひとつ、バングラデシュの「スンダルバン」があります。ガンジス川のデルタ、ベンガル湾にまたがり、総面積は14万ヘクタールに及びます。

世界最大のマングローブ林のひとつ、スンダルバン
世界最大のマングローブ林のひとつ、スンダルバン(出典=『日本人が知らない世界遺産』朝日新書)

干潟、潮汐水路、塩水でも生息できるマングローブ林の群生する島群などで構成され、生態学的プロセスの宝庫ともいわれ、260種の鳥類やベンガルトラに加え、絶滅危惧種のワニや蛇なども確認されています。

現在、スンダルバンで指摘されている問題は、近年、政府が進めてきた火力発電所をはじめとする沿岸部の大規模開発です。それ以前に数回起こっていた輸送船の事故による水質汚染の問題もあり、自然遺産として危機的状況にあるとみなされてきました。

この火力発電所については、欧米諸国のNGOが中心となり、かなり詳細な調査を基にバングラデシュ政府に対する警告をしています。世界遺産委員会での議論の際、バングラデシュ代表団には大臣も務めたことのある特別顧問が参加されており、国土が狭く人口が増加する自分の国には、どうしても必要な施設であり、後戻りはできないのだ、と力説されたことが印象に残っています。

私自身も2021年ごろ、バングラデシュの遺産管理担当者の皆さんの理解を深めてもらうため、世界遺産の基本と、「開発プロジェクトの遺産への影響評価」に特化した特別講座を開催したことがありました。担当官レベルでは皆さん熱心に参加され、議論も盛り上がりました。

国政の影響を受ける世界遺産保持の難しさ

しかし2023年の世界遺産委員会では、我々事務局と諮問委員会であるIUCNが委員会に提案した決議案についての議論が、予想しなかった展開を見せました。

直前までバングラデシュ政府筋から、事務局からの決議案を、小さな変更だけで大筋は受け入れると言われていたにもかかわらず、国政選挙をにらんで中央政府からの指示による世界遺産メンバーへの働きかけが行われ、大きな修正を提案されました。

2晩にわたる「ドラフティンググループ(委員国有志による決議案修正を検討する作業会)」による折衝の結果、決議案は大幅に書き換えられ、次回の義務報告は2025年に世界遺産委員会にはかけられない形の中間報告、2024年に提案されていた本報告書は2029年まで提出が引き延ばされる運びとなりました。

林菜央『日本人が知らない世界遺産』(朝日新書)
林菜央『日本人が知らない世界遺産』(朝日新書)

このように、国政に関わってくる重要な場面で世界遺産への取り組みが対立党や世論に大きく取り上げられているケースでは、交渉の余地は非常に狭くなる件が多いと感じています。

しかし委員会の本会議の場で、バングラデシュの主張を支持する委員国の議論だけでの採択を避け、委員国による決議案の修正案を検討するグループ作業に持ち込んだことで、他の委員国への説明やテクニカルな議論も行うことができました。事務局とIUCNとしてここだけは譲れないという点だけは残されることになったのが、せめてもの救いです。

この数年の間に、締約国がどのようにスンダルバンを巡る環境を世界遺産として保持してくれるのか、非常に気になるところです。

林 菜央(はやし・なお)
ユネスコ世界遺産条約専門官
上智大学、東京大学大学院で古代地中海・ローマ史専攻。フランス政府給費留学生としてパリ高等師範学校客員研究員、パリ第四大学ソルボンヌ校で修士号取得、ロンドン大学で持続的開発も学ぶ。在フランス日本大使館の文化・プレス担当アタッシェを経て、2002年よりユネスコ勤務。ユネスコ・博物館プログラム主任などを経て現職。著書に『ユネスコと博物館』、『東南アジアの文化遺産とミュージアム』(共に雄山閣)。

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