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スターシェフの光と影──アルコール依存症との闘いを経て、今思うこと

  • 2024.9.12

親子でミシュランスターを獲得

美食のテーブルは夢と光に満ちているが、その舞台裏は、必ずしもそれだけではない。場合によっては、過酷な長時間労働やストレスなどが原因で、心身のバランスを崩す人も少なくない。そんな中、昨年出版された書籍『エンガナチャド』は、スペインの食の業界に衝撃を引き起こした。その主人公は、ラウル・ルスカイェーダ。本の中でLGBTQとしてカミングアウトし、長年苦しんできた薬物やアルコールの依存症についても赤裸々に告白している。

母はスペイン唯一のミシュラン3つ星店「サン・パウ」の女性シェフとして世界的に知られるカルメ・ルスカイェーダだ。ラウルは2009年から、母とともに、マンダリン オリエンタル バルセロナ内にあり、ミシュラン2つ星を獲得したモダン・スペイン料理店「Moments(モーメンツ)」のシェフを務めている。

1976年生まれのラウルは現在48歳。11年前からアルコールを断ち、現在はスペイン各地の地方料理を掘り下げ、季節の食材を取り入れた、美意識とクリエイティビティあふれる料理を提供している。そんなラウルが依存症に苦しみ始めたのは、10代前半の頃。男性が恋愛対象でありながらも、周囲にそれを隠さなければならないという重圧が、薬物やアルコールの依存につながった。「薬を使い、お酒を飲んでいる間は自由を感じることができた」と振り返る。

マンダリン オリエンタル バルセロナにあるモーメンツは洗練されたモダン・スパニッシュが楽しめる。Photo_ Courtesy of Moments
マンダリン オリエンタル バルセロナにあるモーメンツは洗練されたモダン・スパニッシュが楽しめる。Photo: Courtesy of Moments

「語学や数学が嫌いで、アートや歴史が好きだった」ことから、クリエイティブな仕事がしたいと、母と同じ料理の道へ。1996年から母のもとで働き始める。キャリアは順調だった。「レストラン サン パウ」の東京店(惜しまれつつも昨年閉店)を2004年にオープンしてからは東京にも度々訪れ、2009年には「モーメンツ」の共同シェフに就任、料理の創作を任されるように。仕事が多忙を極める中、アルコール依存症は悪化していった。

アルコール依存症の重症化で休職

「何か辛いことや忘れたいことがあったらお酒を飲んで、何かうれしいことがあったらそれを理由にまた飲む。毎日それの繰り返し。世界最高と言われるレストランにも行ったけれども、ずっと飲み続けていて、料理の味は全然覚えていなかった。ワインのボトルが来たら、なるべく早く飲みきって、次のボトルをすぐに注文できるようにしている、まさに病的な状況でした。料理のコースがまだ残っていると『まだ飲めるな』と考えたものです」という。

そんな様子を見かねた家族からの「仕事から離れて、少し休むように」というアドバイスを受けて、妹の看護のもとでしばらく過ごすが、状況が安定した頃に仕事に戻っては依存症が再発するということを繰り返した。「自分でもどうしたらいいかわからなかった。状況は悪くなるばかりで、まるで暗い穴の底にいるような気持ちで『もうどん底だ』と思っていました。こうなったら、『死ぬか、ここから本気で抜け出すしかない』とまで追い詰められました。家族の支えもあって、後者を選ぶことができたのです」

こうして、依存症治療の病院の門を叩いたのは2013年のこと。1年間休職し、完全にアルコールを断った。これまで何度も再発してきたことも鑑みて、仕事復帰も、徐々に行なった。まずはバルセロナ郊外にあった「サン・パウ」本店で、毎朝4時間、魚を捌くなどの基本的な仕事をしてから、拠点とする「モーメンツ」に戻った。「厨房に入ると皆が『おかえなさい』と迎えてくれて、涙が止まらなかった」という。入院以来10年以上、アルコールは一滴も摂取していない。

「飲まないとクリエティブになれないと思っていた」

「医者からは『嗜む程度なら、飲んでもいいんですよ』と言われますが、あのどん底の時期を思い出すと、飲む気にはなれません。依存症はなくならない。共存していくしかないのです」。ラウルの断酒は徹底していて、たとえ加熱でアルコール分が揮発していようとも、ワインなどを使ったソースの味見でさえ、長年ともに働いてきたスーシェフに依頼している。アルコールに依存しなくなったことで、広々とした青空が見えてきたような気持ちになったという。

「これまでは、飲まないとクリエイティブになれないと思っていました。でも、モーメンツがオープンしてから入院するまでの4年間に創作できた料理は10皿。ところが、仕事に本格復帰した2014年から今までには、100皿以上の料理を作っています。私にとって、どちらがクリエイティブになれるかは明白です。考えがクリアになって、ストレスは運動で解消するようになりました」

2016年からは、年に1回新しいコンセプトを決め、それに沿ったテイスティングメニューを作るという、よりクリエイティブなスタイルに舵を切り、創作に磨きをかける。8月末までのテーマはスペイン各地をめぐる長距離自転車レース「ブエルタ・ア・エスパーニャ」。この自転車レースで回るスペイン各地の郷土料理をモダンに解釈して提供するという内容で、歴史好きのラウルにとって、郷土料理を改めて紐解くという仕事も楽しかったという。現在の新テーマは「モーメンツの15周年を祝うメニュー」で、過去の料理に、新たな革新を加えた特別メニューを提供し始めた。

自らの経験から、ラウルは警告する。「ヨーロッパでは、子どもがまだ若い頃から、休みの日の食事どきなどに、親が少しだけアルコールを与えることもあります。けれども、アルコールは若くして飲み始めると、より依存症になりやすい。本を出版したのは、こういった慣習の危険さに、気づいてほしいという思いからでもあります」

依存症を乗り越えた先に見えてきたもの。赤裸々な告白本を出版した裏には、自らの苦しい経験を、よりよく健全な社会を生み出す一歩にしたい、という未来への願いがこもっていた。

Text: Kyoko Nakayama Editor: Yaka Matsumoto

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