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砂村かいり「オレンジシャドウの憂鬱」 vol.1【web連載小説】

  • 2024.9.12

”どうして彼は、私と付き合っていたことをあの子に喋ってしまったのだろう?”――30代の揺れ動く心を、旬の作家たちが描くCLASSY.ONLINE限定アンソロジー。第三回は砂村かいりさんの『オレンジシャドウの憂鬱』。毎週水曜、全6回でお届けします。

私は無駄なことはしない。できるだけ、必要なことしかしたくない。
物心ついた頃から、そんなふうにしてやってきた。宝くじは買わない。ソーシャルゲームに課金しない。仕事の失敗を気にしすぎない。そして、過去の恋を引きずらない。
それなのに、同僚からもたらされた情報に思いがけず心を引っぱられる自分がいた。
「すみません、私の記憶違いだったら申し訳ないんですけど……T社の夏目(なつめ)さんって前、稲葉(いなば)さんと付き合ってませんでしたっけ?」
「えっ、まあそうだけど……」
半年ほど前に別れた相手の名前を久しぶりに耳にした。冬生まれだけど、名前のせいでなんとなく夏のイメージがある男。
「やっぱりそうですよね。よかった、勘違いとかじゃなかった」
「もうとっくに別れてるけどね。なんならその次に付き合った相手ともこの間別れたとこだよ、私」
「ちょ、稲葉さんサイクル早っ!」
コピーをとったばかりであるらしい資料の束を持った魚住(うおずみ)さんはくすくすと笑った。悪意のない噂好きキャラとして社内で愛されている彼女は、二期下の後輩だ。
「それで、あいつがどうかしたの」
「あ、いや、なんか……」
華奢な首を左右に動かして残業中の社員がぽつぽつ散らばるオフィスを見回すと、魚住さんは耳元に顔を近づけてきた。
「なんか夏目さんとK社の丸山(まるやま)さんが付き合い始めたって聞いて、ちょっとびっくりして」
「礼奈(れな)と?」
耳を疑った。
丸山礼奈とは先週も一緒に渋谷のコスメイベントで遊んできたばかりだ。一緒に新作コスメを体験したり、美容系インフルエンサーのライブ配信を生で観たり、フォトスポットで写真を撮ったりして楽しんだ。彼氏ができただなんて、そのときひとことも聞いていない。
「あ、やっぱり稲葉さん知らなかったんですね。丸山さん、もしかしたら稲葉さんに遠慮したんですかねえ」
「いやいや、そんな義理ないでしょ。っていうか私、考えたら夏目と付き合ってたこと礼奈に話してなかったし」
抑え気味の声で魚住さんと話しながら、そもそも礼奈から自身の恋愛話をしてきたことが一度もないと思い至る。男性にあまり興味がないのだろうと思い、私も自分の恋人について話したり話さなかったりした。八歳も年下の彼女だけれど、聞き上手だし笑いのツボが合うので、一緒にいて居心地がいい。お互い化粧品が大好きという共通の趣味があり、会えば新作コスメや話題のスキンケアの話であっという間に時間を消費する。
「そりゃあ夏目もさ、別れて半年も経てば新しい彼女くらいできるでしょ」
「稲葉さんってほんとさばさばしてますよね」
さばさばしてる。ときどき自分に与えられるその評価に、私は内心満足していた。
けれど、人懐っこい笑顔を残して魚住さんが自席に戻ったあとも、パソコンに向かいながらつい考えてしまっていた。半年間ほど恋人だった男のことを。
――あずみ。
私を呼ぶ声がまだ鼓膜の襞の中に住んでいる気がして、少しばかり戸惑った。

勤め先である飲料メーカーは、横のつながりを大事にし、会社の垣根を越えた社員同士の交流やイベント企画を推奨する社風が根付いている。
親睦会と称した呑み会やレクリエーション大会、ちょっとしたスポーツ大会。兄弟会社の関係にあたるふたつの会社にさかんに呼びかけ、三社合同でさまざまなイベントが定期的に実施される。参加は義務ではないものの、不参加ばかりだと付き合いが悪いと思われたり、同僚たちが共有している最新の話題についていけなくなってしまったりする現実もある。
終業後や土曜日を使って行われるそれらは、公私のメリハリをつけたい私にとっては憂鬱でしかなかった。夏目峻(しゅん)と出会うまでは。
新大久保で韓国グルメ巡りをするというイベントが企画されたのは、去年の五月の終わりだった。
梅雨入り前なのに盛夏のように暑い昼下がり、三社の社員合わせて二十五名ほどが新大久保駅前に集まった。韓国ドーナツ、生チュロス、10円パン、チーズホットク、雪氷(ソルビン)と呼ばれるかき氷。参加者のめあてはさまざまだった。自然といくつかのグループに分かれ、ゆるゆると移動した。
甘いものにさほど情熱がない私は、韓国コスメを調達できればという気持ちから珍しく参加していた。
けれど、自分より若い女性社員が集まる場にいると、つい姉御肌なキャラとしてふるまってしまう。コスメの路面店が多い大久保通りを歩きたかったのに、写真やイラストのデータをラテクリームにプリントしてくれるというカフェを目指すグループにいつのまにか引きこまれ、職安通りのほうへ移動した。推しのアイドルやペットの写真で作ってもらったみんなのプリントラテを、スマホで次々に撮ってやった。SNS映えするように、色調やアングルを工夫しながら。
「きみのは撮らなくていいの?」
一通り撮り終わって自分はアイスティーでも頼もうかと思っていると、横から声がかけられた。圧倒的に女性の参加が多いその回で、珍しい男性社員だった。自社の人ではなく、イベント参加率の低い私にとっては初対面だった。
「あれ? っていうか、オーダーしてなくない?」
「ええと……私は甘いドリンクとかスイーツとかあんまり興味なくて」
自分がドリンクを手にしていないことに気づいてもらえたのが嬉しくて、少し気恥ずかしくもあった。
「そしたらさ、きみの行きたい店に行こうよ」
さらりと言われて、思わずその顔を凝視した。甘い印象のある一重まぶたの上で、やや長めの黒髪が揺れていた。
大久保通りに向かってふたりで歩いた。「T社で営業をしている夏目です」と名乗った彼は、大学時代に韓国文化を研究していたため今回の企画に惹かれた旨を簡潔に話した。私はその日初めて、全身に薄く汗をかいた自分の体を意識した。
同い年だとわかってからさらに会話は弾み、ふたりで屋台村でチーズドッグを食べた。コスメショップにも彼は付き合ってくれて、まるでデートみたいだとこっそり思った。途中からコスメの好きな女性社員が数名合流し、ふたりきりではなくなったけれど。
その次の回は梅雨入り間近の六月半ばだった。「テニスで汗を流そう!」という企画の集合場所に、夏目の姿を確認して胸が熱くなった。目が合うなり、彼はまっすぐ私のもとへやってきた。
「この間、連絡先を訊き損ねちゃったから教えて」
みんなが見ている前で、彼は私にそう言ったのだ。迷いのない視線で私をとらえ、低いけれどよく通る声で。

十八時を過ぎたオフィスの外はまだ明るく、夏至に向かって長くなってゆく日の光が最後の力で窓を照らしている。夏目と付き合い始めたのも夏至の頃だった。去年のちょうど今頃。半年付き合ってクリスマス前に別れて、そこからまた半年か──。礼奈とはいつのまに親密になったんだろう。
ふたりが一緒にいるところをまるで想像できない。礼奈はいい子だけど、歳もタイプも私とは違いすぎでしょ。それに、彼女は恋愛に消極的なのだとばかり思っていた。わりと密に会う仲なんだから、話してくれたらいいのに。気づくと思考がループしている。
『やっほー! この間の渋谷、楽しかったね♪ 近々また遊ばない?』
スマホを取り出し、メッセージを送ってみた。いつもなら1分と経たずに既読をつける礼奈は、5分、10分過ぎても未読のままだった。その沈黙に何かしらの意味があるのかと考え始めると止まらなくなってきた。
だめだ、この残業は無駄だ、無駄。明日早出して仕上げよう。
先輩に依頼されている資料作りのために広げていた書類を手早く片づけていると、スタンドタイプのハンドミラーに手が触れた。ふと持ち上げて、33歳の疲れぎみの顔を映してみる。
オレンジ色のアイシャドウをのせたまぶたで、繊細なラメがきらりと輝いた。

vol.2に続く

イラスト/日菜乃 編集/前田章子

砂村かいり(すなむらかいり)

神奈川県在住。『炭酸水と犬』『アパートたまゆら』にて 第5回カクヨムWeb小説コンテスト〈恋愛部門〉特別賞を2作同時受賞し作家デビュー。最新刊『マリアージュ・ブラン』を2024年10月発売予定。

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