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恋人にならなくても親密な関係を楽しめる…社会学者が指摘「いまどきの結婚を阻む"異性の友人"の破壊力」

  • 2024.9.12

結婚した3組に1組が離婚する時代になった。なぜ、自由恋愛の現代が、結婚をするのも結婚を続けるのも難しい「難婚」社会になったのか。社会学者の山田昌弘さんは「結婚も離婚も個人の選択に任され、選択自体の『難易度』が時代とともに変わってきた」という――。

結婚も離婚も個人の選択

〈2022年に離婚した夫婦のうち、同居期間が20年以上だった「熟年離婚」の割合が23.5%に上り、統計のある1947年以降で過去最高になった〉(朝日新聞2024年8月13日)。

先月、このような新聞記事が注目の的となりました。

拙著『パラサイト難婚社会』でも詳しく書きましたが、今は、結婚した3組に1組が離婚する時代。結婚が、難しい。いわゆる「難婚なんこん」社会を私たちは生きています。

結婚も、離婚も、個人の選択です。選ぶか、選ばないか。決めるか、決めないか。いずれも選択という行為になんら変わりはありません。言うなれば、その選択自体の「難易度」が、時代とともに変わってきたのです。

今回は、結婚。結婚相手の選択の難易度の変化について、「排他性」というキーワードから見ていきます。誰かを選ぶとは、他の人を“選ばない”こと。すなわち排他性が、結婚という選択には活きているのです。

まずは「異性の友人」について。結婚を決めたパートナーにいる異性の友人という存在は、どこまで許せるものなのでしょうか。

“新婦の先輩”という安全地帯

約40年前(1980年代)、私が20代の頃、親しい異性の友人の結婚式に出席しました。

テーブルセッティング
※写真はイメージです

私の席には「新婦の先輩」とあり、彼女の職場仲間のテーブルに座らされました。彼女が結婚前、お互い恋人がいる中で知り合い、気が合い、時々食事などを一緒にする仲でした。

もちろん、新郎も知っています。後で聞くと、どうしても祝って欲しかったが、夫の家族や親戚の手前、「男性の友人」がいたというのは憚はばかられる。だから、仕事上の先輩ということにして出席してもらった、とのことでした。

こんなことは昔のことだろうと思うと、私が回答者を務めている人生案内(読売新聞)に次のような相談が載せられました。相談者は60代主婦、要約すると、「結婚前の女性の友人と夫が年賀状のやりとりを40年続けていることが分かった。夫にそれは非常識だと言うと、別に何もなかったと答えたが、信じられない。私たちは仮面夫婦で、仲が悪いのは、その女性のせいだと思うと許せない」というものでした。

私は、「年賀状を出しあう関係が即深い仲とはならない。恨むのはよして、自分の楽しみを見つけたら」という趣旨の回答をしましたが、私と同年代で、年賀状を交換し合う異性の存在自体が許せない、と考える人がいることが驚きでした(2024年7月8日朝刊)。

昔、私の母(1931~1996)によると、当時は結婚したら単なる知り合いでも男性とは一切連絡をしないのが当然だったそうですが。存命中に直接聞いた言葉です。

「排他性の基準」という愛の証し

前回、1980年頃までは、たとえ恋人であっても結婚前に性関係はもってはいけないという意識が強かったことについて述べました。同じように、結婚後はもちろん、お付き合いを始めたら、交際相手以外の異性と親しくすることさえもいけないという意識が存在したのです。

だから、気になる異性がいたらグループ交際を勧められ、お付き合いが始まると「異性の友人」になり、告白したら「恋人」、そしてプロポーズを経て、結婚がゴールとしてある。途中で途切れたら、それは失敗。振り出しに戻って、結婚に至るまで同じパターンを繰り返す。親しくなりたい異性を絞っていって、一旦親しくなったら、その相手とのみ親密関係が許され、他の異性との交流を絶つということが、当時規範としてあったのです。

「異性の友人」は、恋人の一歩手前の存在。だから、恋人や配偶者がいるにもかかわらず、異性の友人と親しくするのは、二股をかけているのと同じ、誠実ではない、愛情がない証拠、だから許されない。そう考える人が昔は多かったのです。

これを「排他性の基準」と呼んでおくことにします。恋人や配偶者との関係の特別性は、他の人との間に親密な関係を作らないことによって保たれる、という考え方です。つまり、「あなただけしか親しくしないのが、愛の証し」ということですね。

そしてそれは、交際相手との親密性の中身には関係ない。例えば、先の人生案内の例で見たように、夫婦間に愛情がなかったとしても、他の異性と親しくするのは許されないと考える――。「交際相手」は一種の「特権的な地位」なのです。

異性の友人とどこまで親しくしてもかまわないか

もちろん、年配者だけでなく、現代の若い人でも、恋人がいるのに、異性の友人の存在を許さないと考える人もいます。

毎年、家族社会学の授業を受講している学生に次のようなアンケートをしています。今年は200人あまりの学生が回答しました。読者のみなさんは、どう答えるでしょうか。

質問内容は、「恋人以外の異性との交際がどの程度まで許されるか」を訊いたものです。

【図表1】中央大学学生授業アンケート 「家族社会学」受講学生対象

みなさんの回答と比較してどうでしたか。現代の大学生に限っても、「恋人がいる人」が「異性の友人との付き合い」に関して多様な意見をもっていることがわかります。

図表内の設問Aの「メールやラインで個人的なやりとりをする」について、さすがに⑤の「許せない、即、別れる」という人はいませんでしたが、2人(約1%)は④の「やめなければ別れる」と回答しています。

一方、Dの「キスをする」、Eの「性的関係をもつ」では、回答者のほぼ4分の3が⑤「許せない、即、別れる」を選択しています。でも、1割ほどは、①「気にしない」、②「嫌だけど何も言わない」を選んでいます。

BとC、「二人きりでカフェでおしゃべりをする」や「二人きりで一緒に遊びに行く」は、意見が分かれます。平均すれば、③「『やめて欲しい』と言うが、許す(別れない)」、になるのでしょうが、①「気にしない」人もけっこういますし、⑤「即、別れる」という人もそれなりにいます。

恋人だからといって相手を縛ることはできない

回答に添えられていた学生の意見を見てみましょう。カッコ内の数字は、AからEまで各設問で答えた数字を順番に示しています。

まず、ゆるめの人の意見を見てみましょう。

「世の中の人たちが考える浮気に関しての理解は出来るが、私は誰かを縛る権利はないと思っているため、相手が何をしても別れる選択肢はない。相手を縛ること自体が好きではないため、自分のしたいことをして欲しい(①、①、①、①、①)」
「変に私情に干渉して嫌な関係になるよりは自分が我慢すればいいと思ってしまうので、基本的には――、許してしまいます。恋人であっても、自分とは異なる他人であることに変わりはないので、本人の幸せが第一だと思います(②、②、②、②、②)」

このように、たとえ恋人であっても、その人が望んで別の人と親密になるなら性関係があってもかまわない、と考える人もいます。恋人だからといって、相手を縛ることはできないというわけです。こうした意見には、「排他性の基準」は見られません。

異性の友人を隠そうとしている時点でアウト

次に、厳しめの人の意見を見てみましょう。

「『自分がされて嫌なことをしている』のであればそれは浮気と考えたい。そのため、その価値観が合う人じゃないと付き合えないと思う。お互いに独占欲が強い者同士が、上手くいくのではないだろうか(④、⑤、⑤、⑤、⑤)」
「隠そうとしている時点でアウトだなと思った。逆に、『今日は○○ちゃんと二人で遊んでくるよ』と自分から言ってくれるならまだ許せる(嫌だけど)。私は自分に自信が無いので『もしかしたら、私と別れてその子の方に行ってしまうかも』という不安から、嫌なのだろうなと思う(③、③、③、④、④)」

このように、メールのやりとりでもやめなければ別れる、会うのもやめてほしい、と思う人もいます。自分以外の異性と楽しく過ごすのはもちろん、興味をもつこと自体が許せないという感覚でしょう。「排他性の基準」がたいへん強い人と言えますね。

スマートフォンを使う手
※写真はイメージです

ちなみに韓国では、この基準が強いらしく、留学生から次のような意見が寄せられました。

「韓国では、日本よりこの基準が厳しいかもしれない。韓国では、普段誰かと付き合うとき、自分の恋人が異性の人と二人きりでメールをするのは控えたほうがいいと考える人が多い。(中略)日本の友達のインスタグラムを見ていると、よく同期やサークルの異性の友達とディズニーや旅行に行く様子が見られるが、韓国ではありえないことだと思う。なぜなら、韓国では付き合っている人に疑われるような状況を作らないのが礼儀であり、相手に対する配慮だと考えられているからだ」

身体の浮気か、心の浮気か

多くの人は、その中間です。

「交際相手の行動を拘束すべきではないと思うので、キスをすることや性的関係をもつことなどの、一般的に恋人同士でしかしないこと以外は許せる(①、②、②、④、④)」
「私は、相手に触れてしまったら浮気だなと感じました。二人きりで遊びに行くに関しては気にしませんが、もしそこで手とかつながれていたらすごく嫌です(①、①、①、⑤、⑤)」

このように、身体接触は許さないけれど、食事や遊びは許せる。というより、それは浮気でない、という考え方の人もいます。

「その相手に対して『好き』という感情を抱いていると感じ取れる行動であるかどうかによって、反応が変わるように思った。性的な関係については、その相手に恋愛感情をもっていなければ、気持ち悪いと感じるだけで別れないかもしれない(①、③、④、⑤、④)」
「自ら進んで相手に好かれようとする行動をされたら許せない(①、②、④、⑤、⑤)」

このように、身体接触は別にして、自分以外の相手に「気持ち」が向くことがけしからん、という人もいます。つまり、別の人を好きという感情が湧けば、それが自分に対する裏切りという認識ですね。

2人の若い女と男
※写真はイメージです
恋人になり結婚することの「二つの意味」

昔のように、異性の友人が交際相手の前段階とすれば、話は簡単です。

あえて言えば、現代は、異性の友人がいてもかまわないという時代だからこそ、さまざまな悩みが生まれているとも言えます。

この悩みは、恋人になり、結婚することに「二つの意味」があることから生じています。

一つは、多数の異性の中から、好きな人を「選ぶ」という意味です。もう一つは、相手と一緒に楽しんだり、性的関係をもったりする、つまり親密な関係になるという意味です(これは、同性愛、両性愛の場合でも一緒です)。

一昔前なら、選択することと親密な関係になることがイコールでした。恋人となり結婚すれば、その人以外と親密な関係になることは許されないという規範が強かったからです。親密な関係を楽しむためには、一人の人を選んで恋人、配偶者にしなければならないことになります。

しかし、現代社会では、恋人や結婚相手を選ぶことと、親密な関係を楽しむことが分離しています。

恋人にならなくても、親しくなってもかまわない、恋人ではないから一人だけを選ぶ必要がない。何人いてもかまわない。となると、恋人や配偶者がいてもいなくても、異性の友人と交際を楽しめる。

では、恋人(配偶者)と異性の友人のどこがどう違うのか。同性の友人と会って楽しい時を過ごすのは問題なく、なぜ、異性の友人と同じことをするのはいけないのか。

それこそ、愛の対象が分散している時代だからこそ、恋人の基準がますますあいまいになっている。複数の相手を選べるからこそ、“選べない”時代になっているのです。

山田 昌弘(やまだ・まさひろ)
中央大学文学部教授
1957年、東京生まれ。1981年、東京大学文学部卒。1986年、東京大学大学院社会学研究科博士課程単位取得退学。専門は家族社会学。学卒後も両親宅に同居し独身生活を続ける若者を「パラサイト・シングル」と呼び、「格差社会」という言葉を世に浸透させたことでも知られる。「婚活」という言葉を世に出し、婚活ブームの火付け役ともなった。主著に『パラサイト・シングルの時代』『希望格差社会』(ともに筑摩書房)、『「家族」難民』『底辺への競争』(朝日新聞出版)、『日本の少子化対策はなぜ失敗したのか?』(光文社)、『結婚不要社会』『新型格差社会』『パラサイト難婚社会』(すべて朝日新書)など。

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