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事故現場を見てニコニコしている? 引っ越した母がおかしくなった。/近畿地方のある場所について⑬

  • 2024.9.4

『近畿地方のある場所について』(背筋/KADOKAWA)第13回【全19回】「情報をお持ちの方はご連絡ください。」Web小説サイトカクヨムで連載され話題を集めたホラー小説『近畿地方のある場所について』より、恐怖の始まりとなる冒頭5つのお話をお届けします。オカルト雑誌で編集者をしていた友人の小沢が消息を絶った。失踪前、彼が集めていたのは近畿地方の“ある場所”に関連する怪談や逸話。それらを読み解くうちに、恐ろしい事実が判明する――。あまりにもリアルでゾッとするモキュメンタリー(フィクションドキュメンタリー)ホラーをお楽しみください。

ダ・ヴィンチWeb
『近畿地方のある場所について』(背筋/KADOKAWA)

「待っている」掲載前原稿

プリントアウトに貼りつけられた付箋に赤字で指示のメモあり

「この記事ですが、台割の関係上掲載ページが4Pから2Pに変更になりました。細かい描写を削って飛び降り自殺に焦点をあてた怪談にリライトしてください!」

******

Aさんの母はいつもニコニコと笑っている穏やかな女性だった。

Aさんは20歳頃まで、父・母・Aさんの三人で岡山の実家で暮らしていた。

就職を機にAさんは勤務先の長野で一人暮らしを始めた。20年ほど経った頃、実家の父が脳梗塞で倒れた。運悪く発見が遅れたこともあり、病院での治療の甲斐なく父はその日のうちにこの世を去った。

一人残された母を気遣って同居も提案したが、母は一人息子に苦労をかけたくないと、それを断ったという。40歳を過ぎても独身のAさんの婚期がこれ以上遅れることも心配していたのだろう。

折りを見て帰省しては母を気にかけていたが、実家の広い一軒家で一人過ごす70歳近い母はやはり寂しそうに見えた。

「お母さん、引っ越そうと思うの」

母から連絡を受けたAさんは、初めは驚いたものの、その内容を聞いて賛成した。

母が引っ越し先としてあげたのは不動産屋で紹介されたという●●●●●にあるマンションだった。

実家の一軒家は一人で住むには管理が大変で、そこかしこにある父の思い出に心が囚われてしまう。いっそ場所を変えて、そこで余生を過ごしたい。マンションなら何かあったときも隣近所と支え合える。そんな母の気持ちが理解できた。

Aさんがインターネットで調べたところ、80年代のニュータウンブームに乗って建設された多棟型のそのマンションは、かつてはファミリー層を中心に分譲マンションとして人気だったという。現在は分譲賃貸として多くの部屋が貸し出されており、住民はどちらかというと高齢者の夫婦や母のような単身者が多く、家賃も間取りに対してはかなり安く感じられた。

山を削った小高い場所に位置してはいるものの、街との距離は近く、毎日の買い物で下るであろうゆるやかな坂道は高齢者の足でもそこまで苦にはならなそうだった。

不動産屋に連れられて母とともに内見に訪れたAさんが感じた第一印象は「暗い」だった。

街を見下ろす景色はとても良く、背後の山からは自然を感じられる。にもかかわらず「暗い」と感じた。人が少ないのだ。マンションは広大な敷地に何棟も立っているが、外を歩いている人間が全くおらず、敷地内の公園にも人の姿はない。建物自体も、大半の窓にカーテンがかかっておらず、入居者は3割にも満たない様子だった。花壇や共用部分の手入れもされておらず、全体的に荒んだ雰囲気がその印象に拍車をかけていたという。

Aさんの不安とは対照的に、母はそのマンションを一目で気に入った。景色の良さや自然のある立地はもちろん、人が少ないことも大人しい母にとっては気疲れせずにちょうど良いと感じられたのかもしれない。

Aさんも、本人が住みたい場所に住むのが一番だろうと特に口出しはしないでおいた。

いくつか部屋を見て回ったなかで最終的に母が決めたのは5号棟の3階の一室だった。10階建てではあるが高層階は昇り降りが手間だろうということ。5号棟は比較的単身者用や二人暮らし用の間取りが多く、似た環境のなかで近所付き合いがしやすいという不動産屋の強い勧めに従った形だった。

ところが、引っ越し当日に母と一緒に挨拶に訪ねた同じ階の部屋のなかで、ドアを開けてくれたのは一部屋しかなかった。その住民もひどく無愛想な高齢の男性で、手土産のお菓子を受け取ると挨拶もそこそこにドアを閉めてしまった。

本当にここに住むことが母にとって良いのだろうか。そんな不安をAさんはぬぐい切れなかったという。

母の新生活が始まって半年ほど経った頃、Aさんの暮らす長野の賃貸で水漏れが起きた。それはAさんの部屋の真上で起こり、必然的にAさんの部屋は水漏れの被害をもろに被ってしまった。管理会社が言うには部屋のクロスの貼り換えなど現状回復に2日ほどかかるという。その間家を失ってしまったAさんは、これを良い機会に仕事を休んで、母の暮らすマンションに2日間身を寄せることにした。

母の引っ越し以降、Aさんの仕事が忙しくなったこともあり、会うのは久々だった。電話口の母は喜んでいたという。

引っ越し以来初めて訪ねるそのマンションは、やはり暗い雰囲気をまとっていた。

ただ、母の部屋に入ると、壁にはカレンダーがかけられ、引っ越し以降に買ったであろう本が本棚に増えており、母がこの部屋で新たに暮らしの基盤を築いていることが感じられた。住民は少ないながらも何人かは近所で世間話をする知り合いも増えたのだという。その事実はAさんを少しホッとさせた。

Aさんの母はいつもニコニコと笑っている穏やかな女性だった。

それはAさんに対しても同じで、幼い頃のAさんは学校であったできごとをよく母に話した。そんなとき、母は特に何を言うでもなくニコニコと楽しそうにAさんの話を聞いてくれた。厳格で近寄りがたい雰囲気の父とは対照的だったという。

Aさんが母の住むマンションを訪ねたその日も、母はカーテンを開け放した日差しの射す窓のそばで、ゆったりと座椅子に座りながら近況報告をニコニコと聞いてくれた。

ただ、その様子がAさんの知っている母とは少し違っていた。会話のなかで時折表情が歪むのだ。

Aさんの話を聞きながらニコニコと相槌を打つ笑顔が時折、歯をむき出しにしたような満面の笑みに変わる。笑顔ではあるが、無理矢理に笑っているようなおかしな顔だった。なぜかAさんは、その笑顔の奥に、誰もいないマンションを見たときと同じ「暗さ」を感じた。Aさんがそのことを指摘しても、母は自覚していないようだった。

また、母は座椅子に座りながら長い間、ぼんやりと窓の外を眺めていた。窓の外に広がる山の景色に何をするでもなく目をやっている。もともと内向的で出かけるよりも読書をすることが好きな母だったが、テレビをつけるわけでも音楽を流すわけでもなく、ただただ外を眺めているその姿に、想像したくはなかったが痴呆の始まりを感じてしまったという。

たまりかねてAさんは聞いた。

「どうして外ばかり見てるの? 珍しい鳥でも飛んでくるの?」

母は相変わらず外に目をやりながら答えた。

「待ってるの」

Aさんは母が何を待っているのかを尋ねたが、母はニコニコと笑うばかりでそれ以上は何も言わなかった。

その日の夕方、台所に立ちながら母が言った。

「今日は肉じゃがを作るね。デザートは柿を冷やしておくからね。両方大好きだったでしょ?」

確かにAさんは肉じゃがが大好きだった。しかし、柿は特に好きではない。しかも今は春だ。柿の季節ではない。やはり母は少しボケてしまったのかと悲しい気持ちになった。

そんなAさんの気持ちをよそに、食卓には料理が並んだ。

肉じゃが、味噌汁、菜の花のおひたし、春雨サラダ、炊き立てのごはん。どれもAさんが好きなメニューばかりだ。それが余計に悲しかった。

だが、一口食べたAさんは言葉が出なかった。味がしないのだ。

認知症の症状として、作る料理の味がおかしくなるというのは有名な話だ。ただ、母の作ったそれは、そういった例とは一線を画しているように思えた。見た目は肉じゃがなのに、全く味がしない。まるで砂を噛んでいるかのような気分になる。砂糖と塩を間違えればそれは当然違和感を伴ってまずくなるだろう。しかし、そういったまずさやえぐみといった味もしない、全くの無味だったという。

言葉を失っているAさんに気づかず、母は自分の皿に盛ったそれをせっせと食べ進めていた。その様子も、食を楽しむというよりかは何かの作業として口に運んでいるように見えたという。

大切な母を放っておくわけにはいかない。

Aさんは母を引き取って同居することを心に決めた。

箸を置いて、母にどう切り出そうか考えていたそのとき、窓の外で大きな音が聞こえた。

「ドンッ」という音と「バシャッ」という音が同時に鳴ったような奇妙な音だった。

あまりの音の大きさに驚いたAさんは窓に駆け寄った。だが、それよりも速く、驚くような素早さで母が先に窓に駆け寄った。

窓の下には四肢がおかしな方向にねじれた人間が血だまりの中で、細かく身体を痙攣させていた。

Aさんの母はいつもニコニコと笑っている穏やかな女性だった。

その瞬間をAさんは忘れられない。

窓の下の惨状を見つめながら、母はニコニコと穏やかに笑っていた。

一時的に母を親戚に預けたAさんが、マンションから長野に向けて母の荷物を運ぶ引っ越しのトラックを見送ったその日、敷地内の公園で一人の中年の女性に声をかけられた。

聞けばその女性は別の棟に住む母の知り合いだという。先日、母の部屋に出入りするAさんの姿を見かけ、今日たまたま通りがかったAさんに声をかけようと思ったらしい。

マンションには住人が少ないこともあり、母が引っ越した当初、公園を散歩中に知り合ったその女性は何かと気にかけてくれていたという。ただ、母があまり出歩かなくなってからは付き合いも途絶えてしまった。

Aさんが、母が引っ越す旨とお世話になったお礼を述べると女性は言った。

「寂しいけど、そのほうがいいと思う。息子さんが一緒だと安心だし、何より、あんなところに住み続けるのは気持ち的にもよくないしねえ……」

5号棟で自殺があるのは今回が初めてではないらしい。それどころか、毎年のように人が何人も飛び降りている。一部では自殺の名所として有名なのだそうだ。

自殺者はそのマンションの住人ではなく、わざわざ遠くから「死にに来る」人が大半だという。なぜか他の棟ではそういったことはなく、5号棟だけで飛び降りが多いことからマンションの住民もあまり5号棟には近づきたがらないらしい。

そんな場所に母は住んでいたのだ。

Aさんはふと思いつき、今回以外に母が越してきてからも自殺はあったのかと女性に尋ねた。

すでに二人が飛び降りていたらしい。つまり、住み始めてから3度も飛び降り自殺を目の当たりにしていることになる。

Aさんはそれを聞いて確信してしまった。

母は待っていたのだ。あの窓辺に座りながら、誰かが飛び降りるのを。

現在長野でAさんと暮らす母は、呆けたように一日中窓の外を眺めているという。

何かを待つように。

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