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「秋篠宮さまの言動はなぜバッシングを受けやすいのか」天皇家に生まれながら皇位を継がない男子の悲哀

  • 2024.9.1

秋篠宮文仁親王の言動がバッシングを受けやすいのはなぜか。宗教学者の島田裕巳さんは「その立場があまりに曖昧で、国民も彼に何を期待したらいいのかよく分からないから」という――。

秋篠宮文仁親王は哀しい

もしも自分が天皇家に生まれながら、皇位を継ぐ可能性がない男子だとしたら、いったいどう生きるのか。そう考えたとき、秋篠宮という存在はひどく哀しいものに思えてくるはずだ。

秋篠宮文仁親王は、現在「皇嗣」と位置づけられている。皇嗣とは、皇位継承順位第1位の皇族をさす。

58歳の誕生日を前に記者会見される秋篠宮さま=2023年11月27日、東京・赤坂御用地の赤坂東邸(代表撮影)
58歳の誕生日を前に記者会見される秋篠宮さま=2023年11月27日、東京・赤坂御用地の赤坂東邸(代表撮影)

皇室典範では、「皇嗣たる皇子を皇太子という」とされているものの、秋篠宮は現在の天皇の弟であって子どもではないために、皇太子にはなっていない。しかも、皇室典範では、皇太弟の規定がないため、しかたなく皇嗣と呼ばれている。いかにもその立場は中途半端なものである。

さらにその特殊な立場は、その子息である悠仁親王が皇位継承順位第2位と位置づけられ、愛子内親王の天皇即位がなければ、実質的に次の天皇と見なされていることにある。自分が天皇になる可能性は乏しいのだが、息子は天皇にしなければならないのだ。

将来天皇になる親王には「帝王学」が授けられるとされているが、秋篠宮にはその機会はめぐってこなかった。兄である現在の天皇から、それを授かることもないであろう。

ところが、息子にはそれを授けなければならないのだ。というか、授けようがないはずだ。

「自分は何のために生まれてきたのか」

明治以降の皇室では、天皇の役割として宮中祭祀を司るということが重要視されてきた。

大祭においては、天皇が直接神主役となって祭祀を行うのだ。秋篠宮は宮中祭祀に参列しても、自ら祭祀を司る役割がまわってくることもない。

天皇であれば、日本の象徴、日本国民統合の象徴として、国内外において果たすべき重要な役割がある。

とくに皇室外交では、その主役として、諸外国の元首などと対等の立場でまじわることができる。そうした機会も、秋篠宮にはほとんどまわってこない。

「自分は何のために生まれてきたのか」

私が秋篠宮であったとしたら、幼い頃からそう問い掛けてきたことだろう。立場はあまりに曖昧で、どうふるまったらいいか、それを見いだすことが難しいのだ。

親王が複数いる状態は危険

戦前であれば、秋篠宮の悲哀を理解できる人間はかなりの数にのぼったはずだ。

戦前には家督相続の制度があり、天皇家のように、代々継いでいかなければならない農家や商家があった。そうした家に生まれた男子のうち、将来において家を継げるのは一人で、次男や三男以下は、それができなかった。そうなると、他家に養子に出るか、家を出てほかに働き口を見いだすしかなかった。

天皇家の場合、天皇の位につくことができるのは、基本的に最初に生まれた第1皇子だけである。

ただ、昔は天皇が若くして亡くなることはいくらでもあり、第2皇子に即位の可能性がめぐってくることもあった。しかし、その機会が必ずめぐってくるというわけではない。

皇位の継承をつつがなく行うためには、皇位継承者が多くいたほうがいい。だからこそ、代々の天皇は、皇后のほかに側室を持ち、多くの親王や内親王をもうけてきた。

しかし、親王が複数いる状態は危険なことである。天皇のもとへ嫁いだ皇后や側室の背後には、摂関家などの公家の家があり、それぞれが自分の家に生まれた親王を即位させようとさまざまに画策するからである。

そうなると、どうしても皇位継承をめぐって争いが起こる。皇位継承は、そもそもそうした大問題を抱えてきたのである。

壮絶な死をとげた早良親王

皇位継承をめぐる争いが悲劇を生んだ典型的な例としては、早良親王の場合がある。

785年に没した早良親王は、平安京遷都をなしとげた桓武天皇の弟である。当時は、兄弟でも母が違うことがいくらでもあったが、桓武天皇と早良親王は、光仁天皇と渡来系の高野新笠とのあいだに生まれた同母の兄弟だった。

桓武天皇が即位すると、早良親王は皇太子になった。桓武天皇には安殿親王という後継者が生まれていたが、まだ幼く、早良親王は、桓武天皇にもしものことがあったときの中継ぎ役とされたのだ。

ところが、皇太子になってから4年後、早良親王は、当時造営が進められていた長岡京の造長岡宮使であった藤原種継の暗殺事件にかかわったとして皇太子の地位を奪われ、乙訓寺おとくにでらに幽閉されてしまう。

乙訓寺
乙訓寺(写真=+-/CC-BY-SA-3.0-migrated-with-disclaimers/Wikimedia Commons)

しかも、淡路島に流されることになったのだが、抗議のためか、あるいは強制されてのことなのか、そこははっきりしないのだが、10日余にわたって絶食し、それで亡くなってしまう。

早良親王は元皇太子として壮絶な死をとげたことになるが、それによってのちに祟たたりを及ぼしたとされるようになり、最終的には「崇道すどう天皇」と諡号しごうを追贈され、その霊は丁重に祀られることとなった。

皇位継承者が複数存在すると、そうした悲劇も生まれるのだ。

「法親王」という特別なポジション

もちろん、現在と、早良親王の事件が起こった奈良時代末期とでは、時代のあり方がまるで違う。秋篠宮が自ら天皇になろうとして、謀反を企てるようなことはあり得ない。

だが、考えてみれば、天皇の子として生まれながら、皇位を継承する可能性がほとんどない親王という存在は、どのように生きていけばよいのか、人生の方針を立てることが、相当に難しいことが予想される。

実は、中世の時代においては、皇位継承の可能性のない親王には、特別なポジションが用意されていた。それが、「法親王」である。

法親王とは、出家した親王のことをさす。厳密に言うと、法親王とは別に「入道親王」がある。入道親王は親王としての宣下せんげを受けたあとに出家した場合で、出家後に親王宣下を受けると法親王となる。ただ、両者の区別は明確でないところもあり、法親王と一括してとらえてもよいようだ。

天皇になる道と仏教界を支配する道

出家して僧侶になると言えば、世捨て人の暮らしをするかのように思われるかもしれない。だが、実態はまったく逆なのだ。

中世の時代においては、宗教が政治の中心にあり、神仏への祈禱きとうや祈願を行う僧侶は、政治上極めて重要な立場にあった。

法親王は、仏教界の中心にあった比叡山延暦寺のトップである天台座主ざすに就任することもあれば、皇室に深いゆかりがあり、その点で格の高い門跡寺院の門主ともなり、国家安寧のために営まれる法要を司った。そうした祈禱や祈願は、社会にとって不可欠な行為であり、絶大な効力を発揮すると信じられていたのである。

つまり、親王として生まれた場合、天皇に即位して俗界を支配する道もあれば、出家して法親王となり、仏教界を支配する道もあったことになる。法親王は、決して世を捨てたわけではない。むしろ、国家を支える極めて重要な役割を果たすことになったのである。

重みが生まれない皇嗣の発言

幕末には、皇室は仏教とかかわるべきではないという声が高まり、法親王は還俗することになった。明治になると、皇族は出家できなくなった。それによって、皇位継承の可能性のない親王は、法親王という選択肢を失ってしまったのだ。

世間も、天皇の発言であれば、それを真摯に受け止めざるを得ない。ところが、天皇に即位する可能性が薄い皇嗣であれば、その発言に重みが生まれようがない。

実際、秋篠宮の発言が重要視されたことはないし、かえってバッシングの対象になってきた。

国民も、秋篠宮に対して何を期待したらいいのか。それがよく分からない。期待するべきものがはっきりしないため、秋篠宮がどういった発言をしても、どういった行動をしても、国民は満足もしないし、納得もしないのだ。

ただ、将来において、現在の天皇が亡くなったり、譲位したりすれば、秋篠宮が天皇に即位する可能性は残されている。兄弟の年齢差は5年だ。かなり微妙な年齢差であり、秋篠宮が天皇に即位する際には、間違いなく光仁天皇の62歳という最高齢の記録を超えるであろう。現在でも58歳だ。

第49代天皇 光仁天皇
第49代天皇 光仁天皇(写真=Unknown author/CC-BY-SA-4.0/Wikimedia Commons)
秋篠宮の犠牲の上の天皇制

農家や商家なら、その家を出るという選択肢がある。現代の親王でも、そうした道を選ぶことがまったく不可能というわけではない。

現在の皇室典範では、親王についても、「やむを得ない特別の事由があるときは、皇室会議の議により、皇族の身分を離れる」ことができると定められているからである。

実際、そうした例もある。日本でのことではないが、イギリスのヘンリー王子は、チャールズ国王の次男で、王室を離れた。そうした出来事がもっと前に起こっていたとしたら、秋篠宮もその道があったのかと、皇族の身分を離れることを考えたかもしれない。

しかし、秋篠宮が「特別の事由」を見いだすことは相当に難しい。そんなことを言い出せば、さらにバッシングを受けることにもなりかねない。

現在の天皇制は、秋篠宮の犠牲の上に成り立っている。私たちは、秋篠宮の悲哀に思いをはせる必要があるのではないだろうか。

島田 裕巳(しまだ・ひろみ)
宗教学者、作家
放送教育開発センター助教授、日本女子大学教授、東京大学先端科学技術研究センター特任研究員、同客員研究員を歴任。『葬式は、要らない』(幻冬舎新書)、『教養としての世界宗教史』(宝島社)、『宗教別おもてなしマニュアル』(中公新書ラクレ)、『新宗教 戦後政争史』(朝日新書)など著書多数。

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