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sumika片岡健太のエッセイ連載「あくびの合唱」/ 第5回「推しきり祈願」

  • 2024.8.31

こんにちは。片岡健太と申します。神奈川県川崎市出身。sumikaというバンドでボーカル&ギターと作詞作曲を担当しています。2022年6月に『凡者の合奏』という自身の半生を振り返る内容の本を出版して以来、約2年ぶりにエッセイを書かせて頂くことになりました。

あなたに“推し”はいるだろうか? 僕は今、人生で2回目の推し活に勤しんでいるところだ。

1回目の推しができたのは、県内屈指の体育会系学校に在籍していた中学1年のころ。 小学6年のときに負った右足首の複雑骨折で、走ることはおろか、歩くことも困難だった僕は体育劣等生まっしぐら。校内で孤立を極めていた。

そんなとき、「チェキッ娘」というアイドルグループに出会った。 麗しき乙女たちが、夕方のテレビ番組で鼻フックを掛けられていたり、うんこがデカそうなメンバーを名指しで言い合ったりしている光景にいたく共鳴。 きっとこの人たちも、僕と同じ気持ちでいるはずだ。「絶対にこんなはずじゃなかった」と。 この世に違和感を持っている者同士。最強の仲間に出会ったような気持ちになって、すがるように僕は彼女たちのとりこになった。 それからは、出演しているテレビ番組はすべて録画。関東圏で行われるライブには、お年玉貯金をおろして参戦していた。

あるとき、そんな推し活に突然終止符が打たれた。 僕が推し始めて1年が経ったころ、グループの解散が発表されたのである。 しかし、寝ても覚めても「チェキッ娘」のことばかり考えていた自分も驚くくらいに、僕はあっさりと解散を受け入れていた。 彼女たちが発信していたものにはほとんど目を通している自負はあったし、解散ライブに行ったときに「最後まで推しきって終われる推し人生。幸せしかないだろう」という異様な達成感があったからだ。 14歳で初の推し活を最終ステージまでクリアした僕は、それ以降“推し”には一切興味を持たずに生きてきた。おみくじで大吉を引いた後に、一生大吉のままでいたいから、おみくじを引かない心境に似ているのかもしれない。

それから20年以上経った、2020年。 世界は未知の疫病に侵され、人と会えない時代が到来した。 何の気なしに動画サイトを眺めていると、緑の芝生の上で、何人もの選手を抜き去ってゴールを決めるサッカー選手に釘付けになった。

三笘薫選手であった。 (以下、愛を込めて三笘と表記します)

僕の地元、神奈川県川崎市に拠点を置く川崎フロンターレで活躍していたプロサッカー選手で、現在はイングランドのプレミアリーグ、ブライトン・アンド・ホーヴ・アルビオンFCに在籍。切り裂くようなドリブルが持ち味で、シュートを決めた後のセレブレーションでは、真っ先に仲間の元へ走っていき笑顔で抱きつく。まさに「みんなのおかげでゴールできたんや」というスタンス。したり顔でこれをやろうものなら、あらかたの人間は「この人、なんだか嘘くさい」となるはずなのだが、三笘には好感度稼ぎ感が全くないのだ。心の底から、仲間のおかげでゴールに辿り着けたのだという感情が非言語で伝わってくる。 そして、相手のファールに対して審判に過度な抗議をすることはせず、理不尽なプレイに対してもスッと矛を収める。これも自分に置き換えたとき、なかなかできる事ではないなと思う。僕は心が狭いので、意地悪なことをされたら、鬼の首を取ったように「この人、理不尽です」という猛アピールをしてしまうだろう。

世間ではコロナに対して、あることないことをSNSで言い合って、毎日誰かが誰かに怒っていた。そんな辟易する世界を、三笘は清々しく切り裂いてくれた。 ルールブックのない、新時代のマナーのようなものを学んでいる気持ちにすらなった。同時期に“誰も傷つけないお笑い”が台頭してきたのも、何かしらの相関関係があるのかもしれない。誰かを傷つけてもいい免罪符を国民全員が手にしたなかで、それをポジティブな力に変換する能力。新たなカリスマを見習って、僕も歩んでみようと思った。

風潮に流されてうっかりネガティブな投稿をしそうになる自分の手も、三笘のことを思い出せば、その手はギターに向かった。 予定していたツアーがどんどんと延期になり先が見えなくなったときには、無観客の競技場で三笘が試合をしている動画を観て気持ちを整えた。 次第に彼の一挙手一投足を見逃したくない感情が芽生え、それは立派な“推し”へと昇華した。 推しに幻滅されるような行動はしたくない。推しも認めてくれるような人でありたい。 僕は特定の神様を信仰する人間ではないのだが、“推し”というのは心の中に出現した一種の神様なのではないだろうか。 20数年ぶりにできた推しに助けてもらいながら、僕はコロナ禍を乗り越えていった。

三笘選手はその後、ベルギーのロイヤル・ユニオン・サン=ジロワーズへの期限付き移籍を経て、ブライトンに復帰。すぐさま活躍してレギュラーを勝ち取るも、2023年冬に左足首を負傷。腰の負傷も重なり、長期離脱という報道が出た。

何の因果関係か分からないが、僕も2023年10月に喉を壊して、約2か月間ライブ活動を休養した。自分も推しも同じタイミングで倒れている。「絶対にこんなはずじゃなかった」と、心のどこかで通じ合っている気がした。 しかし、このような困難に推しが負けるはずがない。何度も辛い状況から僕を救ってくれたのだから。推しが負けていないのに、僕が先に負けるわけにはいかない。 三笘が復活に向けて励んでいる様子を想像して、僕もリハビリに励んだ。 三笘がまたゴールを決めて仲間の元に駆け寄る姿を、僕はバンドメンバーに置き換えて想像した。 声が上手く出なくなっても、三笘のユニフォームを着たら、作曲だって作詞だってやり切れた。 もうここまできたら著作権の数%を奉納すべきなのではないかと思うほどに、推しのパワーに救われたのだ。

――2024年夏。 数万人のお客さんの前でライブをやり終えた帰り道で、僕はブライトンのプレミアリーグ開幕戦を観ている。

「ゴール!今シーズンのオープニングゴールは三笘薫だ!」

声を裏返らせながら、アナウンサーが絶叫する。呼応するように、僕も大声を出していた。 僕の推しはやっぱり負けない。だから僕も負けない。 人生2回目の推し活を最後まで推しきりたい。 そして、それはなるべく遠い未来であって欲しいと、願ってやまない夏の夜。

ダ・ヴィンチWeb
撮影=片岡健太

編集=伊藤甲介(KADOKAWA)

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