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ロサンゼルス五輪で世界を魅了し硫黄島に散った軍人アスリート「バロン西」

  • 2024.8.26

2024年7月26~8月11日フランスのパリで行われたオリンピック。207国&地域の参加。32競技329種目の大イベントは、開会式に主だった競技。閉会式でも物議を醸しましたが、日本は金メダル20個。銀メダル12個。銅メダル13個の合計45個で、世界3位となりました。

開催早々、団体戦と個人戦で勝ち抜く馬術がベルサイユ宮殿の庭園で行われ、7月29日総合馬術で、日本選手団が銅メダルを獲得。8月11日は近代五種(乗馬を含むので敢えて入れます)で、初銀メダル獲得。

92年前にロサンゼルスで開かれた第10回オリンピック大会の馬術競技に出場し、大障害飛越競技で、西竹一とウラヌス号が獲得した金メダル以来のメダル獲得となりました。 かなり長い前置きですが、歴史的快挙があったことから予定変更。

1932年のロス五輪で一躍有名人となった西竹一に、スポットを当ててみました。映画「硫黄島への手紙」を見て、彼の名を記憶された方もいると思います。爵位持ちで裕福。長身でイケメンと、死角を探すのに難儀な人ですが、馬術競技で彼とウラヌス号が獲得した金メダルは、アジア諸国初という記録でもあったのです。それだけの偉業を成し遂げた人が持つ運勢、時代の運勢。早速見てみましょう。

西竹一パーソナルデーター

1902(明治35)年7月12日 12時設定 東京市麻布区麻布笄町生まれ

☀星座 ♋

☽星座 ♎14°08(00:00 ♎7°51/23:59 ♎ 20°20)

第1室 本人の部屋 ♋ ♆ ☀

第2室 金銭所有の部屋 ♌

第3室 幼年期の部屋 ♍

第4室 家庭の部屋 ♎

第5室 嗜好の部屋 ♏ ☊

第6室 健康勤務の部屋 ♐ ♅R

第7室 契約の部屋 ♑ ♄R

第8室 授受の部屋 ♒ ♃R

第9室 精神の部屋 ♓

第10室 社会の部屋 ♈

第11室 友人希望の部屋 ♉

第12室 障害溶解の部屋 ♊ ♀・♇・♂・☿

出生時間不明の為、12時設定。☽はお昼の☽。♎14°なので、終日♎。

第1室本人の部屋は、☀星座の♋から始まります。彼は四肢が長く、体格には恵まれていますが、♎のフォローがあるのかもしれません。出生時間がわかる場合は、第1室の星座が変わるケース。各部屋の広さが変わるケースがありますが、12室を30度ずつ、均一展開しています。

その第1室本人の部屋♋♆・☀と、隣接の第12室障害溶解の部屋は、♊♀・♇・♂・☿のステリウム。第4室家庭の部屋~第8室授受の部屋には、♎☽・♏☊・♐♅・♑♄・♒♃と、ざっくりと二か所に別れて星が分布。変形判のシーソー型ホロスコープ。

♋の人っ子の良さに、♊に週や月運を観る♀・♂・☿が揃い、時代や先祖を意味する♇もあります。元々第12室は、表層には出てきにくい、その人を縛るもの。秘密。解放を司っています。そこに♀・♂・☿があるので、コミュニケーション能力が高く、社交性もあって親切。好きなことにのめりこむととことん。半面カッと来やすく、口も立つが手も早いといった効果と、どこかぼっち感が伴います。

さらに♀を除いて、第1室の♆とも合になるため、器用な一面とユニークな話し方、センスもよいですが、ふわふわした感じや、惚れっぽさ、快楽好きな面が出てくると、難儀する可能性も大。自制を覚えないと、ちょっと困った性格になりそうです。

☽は第4室家庭の部屋。終日♎。第6室健康勤務の部屋♐♅を軸に、第8室授受の部屋♃と☽の二等辺三角形ができるのを見ると、経済的に困ることはないけど、変化のある家庭環境がうかがえます。実際に彼は、小説並みに大きな資産の相続を相続していますので、 Rがついているとはいえ、第8室の♃は、侮れないと思います。

第5室嗜好の部屋は、深堀の♏の☊。好き嫌いははっきりしていて、物おじしないため、相手かまわずスバっと言ってしまう所が、対人関係の明暗を分けるかもしれません。 第6室の♐♅。第7室契約の部屋♑♄。そして♒の♃。いずれも逆行。各惑星とも、通常よりパワーダウンしていますが、西竹一が、社会から受ける恩恵。彼が社会に与える影響の大きさ、深さを物語っていると思います。

西竹一 略歴(ウィキその他、ネット資料参考)

1902(明治35)年7月12日東京市麻布区(現港区西麻布)に住まう西徳二郎男爵の三男として誕生。

1912(明治45)年3月 徳二郎死去に伴い、10歳にして西家の当主と爵位を引き継ぐ。後見人は西伊佐治。

1915(大正4)年4月 外交官だった父の意志を受け継ぎ、府立一中に入学。(現日比谷高校)

1917(大正6)年9月 広島陸軍地方幼年学校へ入校。(府立一中在学中)

1920(大正9)年 陸軍中央幼年学校本科に進級。

1921(大正10)年4月 幼年学校の制度改定により、本科を半年で卒業。陸軍士官学校予科に36期生として入校。騎兵を選択。卒業後、士官候補生として世田谷騎兵第1連隊に配属。付帯勤務を経て陸軍士官学校(本科)に入校。

1924(大正13)年7月 36期生として陸軍士官学校(本科)卒業。世田谷騎兵第1連隊附の見習士官となる。10月 陸軍騎兵少尉に任官。

1927(昭和2)年9月 陸軍騎兵学校卒業。10月 陸軍騎兵中尉に進級する。

1930(昭和5)年 ロサンゼルスオリンピック出場のため、半年ほど休養を取りアメリカ・欧州に向かう。3月イタリアにて、最高の相場ウラヌスと出会い、購入。欧州で開催されている馬術競技に参加する。

1932(昭和7)年7月 陸軍騎兵中尉時代、騎兵監等を歴任した大島又彦陸軍中将を団長に、陸軍騎兵少佐らとロサンゼルスオリンピックへ出場。(開催期間1932年7月30日~同年8月14日)8月14日オリンピック最終日「障害飛び越え」で個人優勝。東南アジア圏初の金メダルを取る。

1933(昭和8)年陸軍騎兵大尉に進級。陸軍騎兵学校の教官となる。

1936(昭和11)年ベルリンオリンピック出場。(開催期間1936年8月1日~同年8月16日)元競走馬アスコットと総合馬術12位、ウラヌスと障害飛び越え20位、閉会後は、騎兵第1連隊の中隊長として大陸に渡る。

1937(昭和12)年 日中戦争開戦。

1939(昭和14)年3月陸軍騎兵少佐に昇進。

陸軍省軍馬補充部十勝支部員となる。

1942(昭和17)年11月 第26師団捜索隊長となる。

1943(昭和18)年7月 第1師団捜索隊長となる。8月 陸軍中佐に昇進。

1944(昭和19)年3月 戦車第26連隊の連隊長を拝命。満洲国北部防衛の任に着く。6月20日硫黄島への動員命令が下る。満洲から日本を経由して硫黄島へ向かうが、父島沖で米軍による攻撃で、28両の戦車と共に、輸送船は沈没。連隊内の死亡者は2名。着帯後は硫黄島守備隊として小笠原兵団直轄の戦車第26連隊の指揮を執る。7月戦車補充の為、東京に帰る。馬事公苑でウラヌスと再会。戦車の補充は12月に実施。

1945(昭和20)年2月16日アメリカ海兵隊が硫黄島へ上陸。硫黄島の激戦が始まる。3月22日戦死 享年45歳

西竹一惑星history ☽年齢域0~7 1902~1909 明治35~明治42年

1902(明治35)年7月12日。東京市麻布区(現港区西麻布)に住まう西徳二郎男爵の三男として、西竹一は誕生します。(本編では、竹一、バロン西と表記)

父の徳二郎は、鹿児島生まれの薩摩藩士。戊辰戦争の時は、黒田清隆の元で、長岡藩を攻略に従事します。明治時代になると、ロシアのサンクトペテルブルグに留学。ロシア語の他、フランス語等を学び、帰国後は、ロシア公使を10年。第二次松方内閣と第二次伊藤内閣では、外務大臣を務めました。

日清戦争後の1898(明治31)年。日本による朝鮮半島支配をロシアに認めさせる「西・ローゼン協定」を締結。1900(明治33)年の義和団事件では、1ヶ月半ほど北京城籠城を経験。公使館に日本人居留者をかくまい、敵の襲撃から守った功績を認められて、男爵位を授かったのです。

義和団事件の処理に際して、西太后から強い信頼を得た徳二郎は、中国茶の販売権を認められ、西家は巨万の富を得るに至ったのでした。しかし、長男佐一が夭折。その後、妻は二人目を身ごもりますが、流産の末に妻も亡くなってしまいます。二人目の妻も男の子を産みますが、14歳で他界。個人の努力だけではままならないことがあったのです。 爵位と巨万の富があっても、それを引き継ぐ嫡男に恵まれなかったでした。

そんな西家に変化が起きたのが、徳二郎56歳の時です。諸事情は不明ですが、西家につかえる女中が、徳二郎の子どもを出産しました。生まれたのは男の子。

「竹のようにすくすくと育ってほしい」

父親であるは、ありったけの願いをこめて竹一と命名。産後間もなく、女中は実家に帰され、竹一は西家の三男として、育てられたのでした。

不自由な生活はしませんが、徳二郎は父でも、その妻は実の母ではありません。ひどいいびりもないものの、継母との微妙な関係が、第4室家庭の部屋の☽が、家庭環境の不安定さを物語っています。☽年齢域の後半、竹一は学習院幼稚園から、学習院初等科へ進学しました。

西竹一惑星history ☿年齢域7~15 1909~1917 明治42~大正6年

学習院初等科に通う竹一少年。体格もよく近隣の小学校の子と喧嘩を繰り返すような、やんちゃ坊主でしたが、一人遊びに熱中するという面も持っていました。

1912(明治45)年3月13日。父の徳二郎が死去します。(享年64歳)。やってきたことを観れば当然ですが、明治の元勲たちをはじめ、日清日露で活躍した名だたる軍人たちや政治家も参列する大葬となりました。同時に、西家の嫡男であったことから、10歳を迎え直前、竹一を取り巻く環境が変わります。

後見人西伊佐治の下、麻布の屋敷(自宅)に、熱海などにある別荘。徳二郎が持っていた権利。多額の財産と男爵の爵位を、竹一は相続したのでした。

ここに名実ともに、「バロン・西」が誕生します。星回りを確認すると ♋の1°にあったN♆が、10年ほどでN☀を過ぎて、♋21°に進んでいます。10年進めば、♇も星座移動あり。♊にある♀・♇・♂・☿を、T♂とT♇が挟んでいるのと、対極の♐にはT♃がいて、T♂と一直線。これが♐N♅と、N♀・♇・♂を刺激。☀と☀は水の調和。♃同士もセクスタイル。N♄には、♒に入室したばかりの♅も、急激な変化をもたらしているとも取れます。個人にとって、大変革があったとみていいでしょう。

なにしろ戦場にまで大金持ち込んだ竹一。まだ個が確立していない時期に、遠慮なく叱ってくれる人がいないまま、巨額すぎる富を得たのも原因かもしれません。業突く張りではなく、根本的に金銭感覚が常人からズレていた一面をもっていたのは、否めないのです。

1915(大正4)年4月竹一は、外交官だった父の意志を受け継ぎ、府立一中(現日比谷高校)に入学しました。同級生には文芸評論家となる小林秀雄。後に鈴木貫太郎内閣で、内閣書記官長となり、終戦詔書(玉音放送)の草起に携わった迫水久常がいます。

大正デモクラシーに護憲運動。第一次世界大戦と、世の中が目まぐるしく動く時代に、多感な時期を過ごした西竹一。学業に困ることはなく、成績は優秀。社交性も抜群で、このころから社交的ですが、どこか孤高を保ち、カメラや射撃といった一人で没頭できる趣味を好みました。複雑な家庭環境も影響していたようですが、第12室に♇があることも要因かもしれません。

☿年齢域と♀年齢域が、重なり合う1917(大正6)年。ロシア革命が起きた年でもありますが、竹一15の時、父のような外交官とは違う「軍人」としての道を志すと言って、周囲を仰天させました。勉強にはさほど困らない竹一なので、成績不振ということもなく、周囲は当然、大反対します。

生活環境としては、異母姉が結婚。微妙な関係の義母も亡くなりました。 広い屋敷に一人住まうことになったのが、影響したのかは不明ですが、竹一が幼い頃 多大なる影響を受けたのが、学習院院長・乃木希典でした。

「華族の子弟は、なるべく軍人を志せ」という乃木院長の教えが、この進路選択の背景にあってのことでです。竹一は、周囲の反対をものともせず、「乃木閣下の教えに従い軍人になる」と、府立一中在籍中、広島陸軍地方幼年学校へ転籍しました。

西竹一惑星history ♀年齢域 15~24 1917~1926 大正6~大正15年

1917(大正6)年9月広島陸軍地方幼年学校へ入校した竹一。軍人になるための勉強を進めつつ、機械いじりは好きなのでしょうね。オートバイにカメラや射撃と、一人で楽しめる趣味に没頭します。幼年学校3年生の時、馬を撮影しているうちに、どうしも乗りたくなって、乗ってみたら落馬。学校から支給された軍刀を破損してしまい、その旨を正直に学校に届け出ると、「軍人が乗馬をするのはよいことだ」と、先生から褒められました。

むしろ馬術を進めてくれたおかげで、西竹一の乗馬人生が始まったのです。 元から物おじしない性格の竹一。馬に乗る楽しさを知ると、どんどん乗馬技術を向上させてゆきました。

当時の日本は、第一次世界大戦の特需景気が影を潜め、不況にシベリア出兵。殺伐としていた民衆は、日本初政党政治の原敬内閣に機体を寄せていました。

1920(大正9)年陸軍中央幼年学校本科に進級した竹一。翌1921(大正10)年4月には、陸軍士官学校予科に36期生として入校。勉学も励むが遊びも人一倍な竹一。夏は鎌倉の別荘ですごしますが、ここでとある女性を見かけます。

相手は川村鉄太郎伯爵の令嬢武子さん(三姉妹の一人)。いいな~と思ったものの、彼女の父は自分より爵位が上。その辺の女の子に声をかける如くにはいきません。

進展のない恋愛よりも、気分転換とばかりに、アメリカ製の自動車「リバティー」を購入して遊びまわったそうです。不景気な世の中で、超目立つ外車を乗り回す若者。警察が目を光らさないわけはなく、追いまわされる羽目になった竹一。考えた末、なんと麻生警察に宿舎を寄贈。これでうるさい警察も黙り、ご機嫌でドライブを楽しんだとか。

1922(大正11)年予科を卒業する際、希望兵科の選択がありました。かつては重視された騎兵は、第一次世界大戦以降、飛行機・自動車・オートバイ等の開発によって、需要が下がっていたのです。

そのため日本陸軍には、「歩・工・砲・騎」という暗黙の序列ができていました。既に馬術に魅せられていた竹一は、騎兵を選択。迷いはありませんでした。

日露戦争で陸軍騎兵少尉として戦功を挙げ、「馬の神様」と呼ばれた馬術家・遊佐幸平から、より本格的な馬術を学んでいきます。しかもこの頃には、川村伯爵のご令嬢三姉妹を、愛車リバティーに乗せてドライブを楽しんだとか、結構のびのび青春していたのです。

1923(大正12)年9月1日、死者・行方不明者は推定10万5000人といわれる関東大震災が発生。神奈川や茨城県、千葉県を含む広範囲が被災。東京は壊滅しました。この時、政治的空白期間でもありましたが、組閣を即された第二次山本内閣が、東京の立て直しを始めます。

1924(大正13)年7月。22歳の夏に陸軍士官学校(本科)卒業した竹一は、ついに川村武子さんと婚約。10月には陸軍騎兵少尉に任官すると、結婚準備に入ります。 竹一22歳。武子19歳の時でした。

やがて一男二女に恵まれる家庭となりますが、結婚するまで、家庭のかの字を知らないまま生きてきた竹一。結婚初日に一人で外食に行くし、自宅に新橋の芸者たちを連れ込み、妻も交えて大パーティー等、遊びに花を咲かせた明治の元勲たちとは、また違う逸話を残しています。

武子婦人は、夫の金遣いの荒さに閉口。夫のモテ自慢には苦笑するものの、深刻に悩むことはなったというから驚き。竹一の性格がさっぱりしていて、裏表がなかったことから、ありのままを受け入れたのかもしれません。いずれにしても、武子婦人。とてもできた女性です。

乗馬技術もさらに磨いてゆく竹一に、「春海」と「福東」という二頭の馬が支給されました。代々木の練兵場で、よく石垣を飛び越えていたそうです。

エピソードの一つでもある、「福東」に愛車クライスラーの上を飛び越えさせた「車越え」は、この頃チャレンジした模様。「車越え」の写真は、検索をかけると出てきますが、馬は見慣れないモノを観ると、怖がる性質があります。一歩間違えば、騎手も馬も車も、無事では済まない危険度の高い挑戦でした。

さらにフランス産の名馬アイリッシュ・ボーイにも騎乗。2m10㎝の飛越記録も残しています。恵まれた体格と脚力。センスの良さ、薩摩藩の血筋。馬に対する情愛の深さも人一倍あったから、難易度の高い記録が残せたのでしょう。陸軍騎兵学校の馬術大会では、いきなり二位入省も果たしています。

荒業を行うけれど、馬がけがをしていれば、絶対に無理はさせず、回復を待つ竹一。彼の情愛は、兵士たちも注がれました。騎兵隊では西竹一を慕う者がいましたが、陸軍の中では「格下」と目される騎兵ながら、とにかく目立つため妬み嫉みも買ったようです。

貧しい農村や漁村から、食い扶持を求めて入隊してくる次男三男をはじめ、軍隊は様々な階層の人が入ってくる場でもありました。関東大震災によって、家族を失ったり、生活に困る人たちも少なくありません。

特注のエルメスのブーツと馬具。爵位持ち故なので、当然ではありますが、軍服も支給品ではないオーダーメイド。遊びも派手な西竹一を、やっかむ者もいたのでした。 ♀年齢域と、☀年齢期が交差する1926年。12月25日は、大正天皇の崩御。昭和天皇即位という時代の節目を迎ます。

西竹一惑星history ☀年齢域 24~34 1926~1936 昭和元年~昭和11年

西竹一の☀年齢域は、昭和恐慌に始まり、世界恐慌と同時進行の昭和農業恐慌。二・二六事件までの激動期と重なります。

1926(大正15)年9月。陸軍騎兵学校を卒業した竹一は、10月に陸軍騎兵中尉に進級。 翌1927(昭和2)年。主は経緯は不明ですが、実母と再会します。西家の女中として働き、主西徳次郎の子を産んだ後、実家に帰った女性が、彼の生みの母でした。

自分が産んだ子どもが気になる。母親として、当たり前の情で、生みの母は長年に渡って竹一宛の手紙を送っていた模様。再会は万感の思いを抱いて感涙しますが、当の竹一は、感動も涙もなく、あっけらかんと終わりました。

家庭感薄く、ヒネているわけでもない。家庭への憧れとか、愛されたいという思いが強ければともかく、希薄なら事実確認か、「あ、あそうなの」的な感覚で、終わるのも無理からぬところかもしれません。以降、二人が会うことは永遠になかったそうです。

25歳だと♄回帰には早い気がしますが、竹一のN♄は♑。T♄は♐に入室したばかり。しかも、竹一のN☀がある♋には、♇も進行中。気持ちとは別に、運勢的な過去の振り返りや清算という事が、あったのかもしれませんね。

1928(昭和3)年竹一の乗馬の師遊佐幸平(この時の階級は騎兵中)はアムステルダムオリンピックの馬術競技に出場。馬場馬術個人で28位という成績を残します。そして、次のロサンゼルスオリンピックの準備が始まりました。

1930(昭和5)年は、♇が発見された年でもありますが、ニューヨークで株式大暴落、世界恐慌が発生します。大体の国が半年から1年半ほど、この問題で苦しみました。金本位制に舵を切ったばかりの日本も例外ではありません。しかも当時の日本は、戦後と震災による経済不況。さらに昭和恐慌も続き、経済は弱体化していたのです。

生糸の対米輸出が激滅。生糸価格の暴落を火種に、他の農産物も価格が暴落したことを受けて、濱口雄幸内閣の大蔵大臣を勤める井上準之助は、「苦しいときは、より節約が望ましい」と考え、引き締め型のデフレ政策を行いました。この選択によって、農家の収入源であった繭と米に値が付かない状況。豊作による米価暴落を起こしてしまいます。

翌1931(昭和6)年は、冷害が東北・北海道を襲いました。欠食による子どもの衰弱、娘の身売り等の問題が多発する大飢饉が発生。折からの不況で、農村だけでなく、都市部でも失業者の急増。小学校の教員をはじめ、公務員の給料未払いも起きました。

庶民生活は厳しく、スポーツどころではない状況で、ロサンゼルスオリンピック大会(ロス五輪)の選考が進み、馬術競技選手候補に、西竹一は最年少で選抜されます。

1900年のパリ五輪から、馬術はオリンピック競技入り。1912年のストックホルム大会で、現在の馬場馬術・障害飛越・総合馬術の3種目に分かれました。花形は、竹一の参戦する障害飛越。この種目は五輪最終日。閉会式のためにスタジアム入りした大観衆を前に行われます。技術を磨くのは当然、質の良い馬とタッグを組まないと勝てないのでした。

半年ほど休養を取り、竹一はまずアメリカに向かいました。求めよさらば与えられんではないですが、イタリア留学中の騎兵学校教官今村安少佐から、絶妙なタイミングで、 「イタリア人でも難儀するほど馬体が立派で、売れ残っている障害競技用の馬がいる」 アングロノルマン馬(フランス北部ノルマンディー地方原産の馬に、サラブレッド種やほかの種を掛け合わせた馬)気難しくて、誰も乗りこなせない。名前はウラヌス(天王星)。

この話を聞いて、竹一は欧州に向かうべく、フランス航路の客船に乗ったのでした。 この当時は、まだ船旅が主流。一等客船で知り合ったのが、剣劇王スターダグラス・フェアバンクスと、その妻でありアメリカの恋人と呼ばれていた女優メアリー・ビックフォード夫妻。語学堪能で会話も流暢。身長175㎝で四肢も長く、西洋人と並んでも見劣りしない西竹一は、意気投合。彼らと親交を深めました。

イタリアに着いた竹一。天王星という名にふさわしく、額に星を持つ大きな栃栗毛の牡馬を見て一目ぼれ。ウラヌスはイタリア陸軍が所有していましたが、気難しい荒馬なため、売却を決めたという事で、価格に関しては、約500ドル。当時の日本円に換算すると2000円ほど。(現在のおおむね800万円程) 体高は181。ばんえい競馬に出る馬並み?サラブレッドの体高が160㎝~170㎝なので、確かに大きい馬です。この馬に乗るなら、人も体格がものを言いますが、大柄な西竹一に問題はありませんでした。ポンと自費購入を決め、試し乗りを兼ねてウラヌスと共に、欧州各地で行われる格式高い馬術競技に参戦します。

気難しいと言われていたウラヌスですが、竹一とのコンビは完璧で、イタリア・フランス・スイス・ドイツと、強豪ぞろいの大会で好成績を上げてゆきました。あまりの高戦績で、元の持ち主が買い戻したいと言ったとか。

武者修行も兼ねた半年間は、あっという間に過ぎ、愛馬ウラヌスと共に日本に帰国。さすがに麻布の自宅に馬を置くのは無理なので、ウラヌスの飼育を、習志野の騎兵学校に頼みます。が、ここで一波乱起きました。 「書類だけで頼みごとをせず、本人が出向いて来い」と、校長から釘をさされたのです。

日頃から軍務よりも馬術鍛錬優先が許される。オリンピック代表が決まったとはいえ、半年ほど長期休暇が取れて、海外で馬を買って乗り回してくる。

戻ってきたら、その馬の面倒を頼める西竹一。確かに物の頼み方もありますが、昭和農業恐慌の後で、食べる術のない里の親へ、給料を送金している若い兵士もたくさんいました。爵位があるとはいえ、竹一は、あり得ない好待遇な立場だったのです。

ロス五輪に出場する以上、結果を出せないで終わることはならないプレッシャー。 実家が太いと言えば、それまでですが、周囲との間に生じてしまった軋轢。この二つの現実を前に、西竹一は、麻布の自宅から、ウラヌスを預けた習志野の騎兵学校まで、毎日約40㎞の距離を往復を決め、調教と訓練を重ねます。

ウラヌスは気性の荒さの外に、悪癖を持っていました。ほとんどの馬は、障碍物を飛び越える際、前肢を軽く折って飛び越えます。しかし、ウラヌスは前肢を伸ばしたまま飛ぶため、障碍棒をひっかけやすかったのでした。前足に引っ掛けて落としやすいと、人馬転倒の危険も高く、これは悪癖なためリザーブでもう一頭、アイルランド号を調教します。 ところが、五輪直前アイルランド号は怪我をしたため、ウラヌスと行くことを決意したのでした。

1931(昭和6)年9月18日満州事変。翌日1932(昭和7)年1月28日第一次上海事変の後、同年3月1日に満洲国が建国されました。アメリカの対日世論は悪化の一途。世界の日本へのイメージも。悪くなる一方だったのです。アメリカに暮らす日系人は、反日感情が強くなる中、気が休まることのない生活を送っていました。

同年5月15日官邸で休日を過ごしていた犬養毅総理が、陸・海軍の若い将校たちに銃殺される五・一五事件が起きます。(五・一五事件については、犬養毅の回をご参照ください)

世相が荒れる中、1932(昭和7)7月30日~8月14日。第10回オリンピック大会(ロサンゼルス五輪=ロス五輪)は開幕したのでした。ロス五輪の参加国は37ヶ国。参加人数1,328人。結果を先にいえば、金メダル7個。銀メダル7個。銅メダル4個の合計18個で、日本は国別5位にランクインしてきたので、大健闘でした。そしてこの時の日本の総理は、第30代斎藤実(さいとうまこと)総理です。

大島又彦陸軍中将を団長として、帝国陸軍の選手たち7名。出場馬を運ぶ貨物船には、馬の世話をするたくさんの兵卒も乗り込み、他の競技と合わせて、日本も参加しました。 一目で軍人とわかる丸刈り帝国陸軍の選手たちの中で、一際目を引くヴァレンチノ風な髪形が西竹一。現地に着くと、流暢な英語でハリウッドスターたちと、パーティーに出かけます。

自分だけが楽しむばかりではなく、リンピック馬術団全員のために、自前でタキシードを注文。皆を引き連れてパーティーを楽しむ西竹一。もちろん、遊びは自費。さらに車好きな竹一。ラジオ付きのスポーツカー「パッカード・コンパーチブル」を購入。これで馬場やパーティー会場へと乗りつけました。常にセンスの良いファッションに身を包み、武子夫人が苦笑するほどモテまくり、チャーリー・チャップリンとも交友を深める竹一。

建国が新しく、貴族制度がないアメリカには、男爵の爵位を持つのに偉ぶらない、せこくない、親しみやすく英語堪能な西竹一。生真面目で型通りの日本人とは違う派手さが、新鮮に映ったのかもしれません。日本人への排斥ムードが強いアメリカで、ロス中の話題を搔っ攫い「バロン・ニシ」は、人気者となったのでした。

しかし、遊びだけが派手では意味がありません。目的はロス五輪で結果を出すことです。 いよいよ本番を迎えた8月14日は、天候にも恵まれ快晴でした。

竹一が出場した「The PRIXDES NATIONS」は、馬術競技の中でも格調高く、華やかでオリンピックの最後を飾る競技に相応しいとされ、閉会式直前のメインスタジアムで行われていました。10万人もの大観衆が見守る中、競技の勝者は、=真の勝者として敬意が払われたのです。

ロス五輪ではフランス・アメリカ・オランダ・日本・スェーデンの5か国が出場。12組の人馬(全員軍人)が、全長1,050m。水濠も含む大小19の柵(最高1.6m)の障碍競技に挑みました。あまりに難易度が高かったためか、3番目までは落馬が続きます。これで下馬評では、有力視されていた今村少佐が失点。

4番目のスェーデンの選手が、ようやくコースを完走。することができたものの、障害を4個落として減点16点。6番目はアメリカの選手で減点24。7番目にエントリーしていた日本の吉田少佐は、練習中に負傷して、地元の病院に入院のために棄権。8番目には、優勝候補と言われるスェーデンの選手が登場しますが、失権。9番目の選手も失権。

10番目にして、アメリカのチェンバレン選手は、葦毛の愛馬ショーガールと減点12で、首位に立ちます。そして11番目、西竹一とウラヌスは登場しました。 スタジアムに入ったウラヌス。その見事な馬体を見た観衆から、どよめきが起こりますが、気にせずに竹一とウラヌスは、競技をスタート。実に正確な手綱さばきで、リズミカルに、障碍を飛び越えました。多くの馬が拒否した難易度の高い障碍も、ウラヌスはスマートにクリアしてフィニッシュ。

減点8点で 1位を獲得したのです。バロン西とウラヌス号の人馬一体の演技を、観衆はスタンディングオベーションで讃えました。

「First lieutenant,Baron Takeichi Nishi」中尉・男爵 西竹一。スタジアムにその名がコールされると、再びウラヌスにまたがった竹一は、2位のチェンバレン少佐。3位のローゼン中尉を従えて、表彰台に向かいました。観客が起立する中、生演奏による「君が代」が流れ、スタジアムのメインポールに、大日章旗が高らかに上がります。

優勝直後のインタビューに、竹一は「We Won.」とコメント。「我々(自分とウラヌス)は勝った」という、シンプルだけど、凝縮した言葉でした。それを「大日本帝国である我々が勝利した」と訳してしまったのが、日本の新聞社。他国では「竹一とウラヌスが勝利した」と報じたそうです。異文化の壁、ここにありですね。

競い合ったメキシコもスェーデンも、「よくアメリカを負かしてくれた」と大絶賛。下馬評では、今村少佐の方が有力視されていて、人気こそあれ、竹一の評価は低くかったのです。が、実走したら、日本が乗馬で初めての金メダルをゲット。これはアジア地域初の乗馬金メダルでもあったのです。故に偉業達成であり、西竹一の名は、世界に知れ渡たりました。さらに、総合馬術競技耐久種目にエントリーしていた城戸俊三中佐は、愛馬久軍号の疲労が著しく、完走直前でやむなく中途棄権したのですが、これが「競技よりも馬を優先した」と受け取られ、勝者に劣らない賞賛を受けています。

この日から2024年のパリ五輪までの92年間。乗馬でのメダル獲得はなかった日本。故に今回のパリ五輪は、大きな節目になったのでした。

ロス五輪最終日の星回りですが、競技開始時間は14:30。竹一は11番目に出走なので、60分後の15:30設定でホロスコープを観ると、ASC♉15°47・MC♑29°33・ ☀♌21°14・☽♑25°48・☿♌27°19R・♀♋8°19・♂♋6°14・♃♍0°38・ ♄♑29°56R・♅♈23°17R・♆♍7°05R・♇♋22°29・☊♓17°15R。

竹一の♋N☀は18度。♇Tとはコンジャンクション。T♀♂が、N☿と♆に、添加剤を加えている形。見事なのが、♑のN♄に、TMCとT♄R。T☽がコンジャンクション。

満月前ともいえるT☽は、一本の矢の如く竹一の♋のN☀とオポジション。さらに♓T☊とトライン。さらに♋を進むT♀♂は、竹一のN☿♂♇とコンジャンクション。これだけでもかなりパワフルですが、♎N☽を見てみると、♈を進むT♅とオポジション。個人的な運気の強さは、もちろんありますが、社会運。世界が推した運勢とみてもよいと思います。

♐のN♅は♌のT☀と調和。実に♅同士もトラインで、これも成功率の高さを裏付けているとみていいでしょう。どんなに個人がよくても、何らかの阻む要素に足を取られ、5位以内に留まったかもしれません。

少し遡りますが、開会式が行われた7月30日。T☽はT♀と共に竹一の第12室♊を進んでいました。これが♊N☿♂♇を刺激。しかも夜には♋入り。N♆にも触れるんだから、湯水のごとくお金使って楽しむ。社交界でもてまくるのも、まぁわからなくない気がします。 因みにT♄は逆行していて、開会式の日は♒にいましたが、閉会式の時は、♑に戻って竹一のN♄とコンジャンクション。これも星が語る妙なのでしょう。

史上に刻む成果を出したことで、"バロン・ニシ”は、世界、とりわけアメリカにとって、政治家や外交官よりも知名度が高い日本人となります。ロス市長は、彼に名誉市民の称号を与え、ロス郊外に建設する競馬場の竣工式にも招待。最上段の席に誘われました。

競馬会長から、終身名誉会員の推薦状と、感謝状がギフト。ロサンゼルスの市を挙げての大祝賀となり、パッカード社からは、記念の高級車が贈呈されたのです。

それを素直に感謝して受け取るバロン・ニシ。スターダグラス・フェアバンクスとメアリー・ビックフォード夫妻からも祝福があり、スペンサー・トレイシーに、ロバート・モンゴメリーといった俳優たちとも仲良くなりました。ロスだけでなく、帰国後もパーティーに明け暮れていたとか。いささかオーバー気味な感もありますが、燦然と輝く太陽年齢域らしいともいえるし、反日感情が強い時代に、この熱烈歓迎ぶりは、日系人たちにも希望を与え、やがて迎える13年後、一筋のエピソードを作る下地となったのでした。

日本に帰国した竹一は「We Won.」と、二人称でコメントした時の気持ちを改めて語り、さらに「次の機会には、是非日本産馬でやってみたいね」と付け加えています。

1933(昭和8)年8月陸軍騎馬大尉に進級した竹一。陸軍騎兵学校の教官となりました。 訓練は厳しいけれど、プライベートはおおらかなで、偉ぶらない竹一は、教官としての人気もありました。騎兵に来る人は、どこか派手好きな傾向はありますが、相変わらず髪は伸ばしたまま。家庭があるのに、パーティー大好きでよく遊び歩く。歯に衣着せぬ発言も多い竹一は、群を抜いて目立っていたのです。

この頃、日本政府と陸軍は、1940(昭和15)年東京に五輪を誘致したい意向があり、世界的知名度が高く、世間受けがいい西竹一を、五輪誘致のイメージ戦略に使いたいと考えていました。爵位持ちだからというだけでなく、下心もあって大目に見ていましたが、自分が納得できない事には従わない西竹一の頑固さが、陸軍側にはイラつく存在に映っていたのです。微妙な軋轢などお構いなしに、当の竹一は「次は国産馬で勝つ」を実現化するため、訓練に励みました。

ベルリン五輪を3年後に控えて、ウラヌスを連れて行くことを前提にしていますが、開催時には、17歳。人間でいえば50代に入るため、ウラヌスを競技参加させることに無理が生じることも考え、竹一はもう一頭、アスコットという馬の訓練を開始します。

サラブレッド種で、血統も競馬の戦績も良いアスコットは、種牡馬入りする話があった名馬。それをあえて馬術に転向させたのです。これはレアケースだそうですが、アスコットを管理していた尾形藤吉調教師の「オリンピック出場は馬の名誉であり、私の名誉でもある」と、言った言葉が、意気込みというか、オリンピックへの特別感を感じさせます。 とても素直でおとなしく、言ったことをよく理解するアスコットを見て、この馬なら大丈夫だろうと、竹一も語っていたので、すごく良い馬なのでしょう。

太陽年齢域と♂年齢域が交差する1936(昭和11年)。事の順番でいえば、昭和11年二・二六事件がまず出てきますが、これについては、鈴木貫太郎の回・高橋是清の回をご参照ください。ドイツで起きたラインラント進駐も、この年です。

西竹一惑星history ♂年齢域 34~45 1936~1947 昭和11~昭和25年

いわくつきともいわれるベルリン五輪は、8月1日~8月16日まで開催。乗馬競技は12日~最終日の16日に行われました。日本国内では、竹一のメダル獲得に期待が集まり、かなり注目度も上がります。ところが、前回のロス五輪と、状況は大きく様変わり。

総合馬術がロス14名。ベルリンは50名。障害飛越はロス12名。ベルリン59名。出場選手の数も違えば、参加国も21ヶ国と激増していたのでした。 竹一はアスコットで総合馬術。障害飛越はウラヌスでエントリー。

前回のメダリストと名馬のコンビは、注目を集めましたが総合馬術は34位。悪くも20位以内と見積もっていた竹一自身が、衝撃を受けました。2日目の耐久審査は全長36㎞の難コース。最大の難所は、深さ1m40㎝の池を伴った障害でしたが、アスコットは、それをすべてクリア。タフに駆け抜け、既定の3分より早くゴール。

12位まで順位を上げたのです。尾形調教師は、アスコットがオリンピックの大舞台で、難関コースをクリアして好成績を出した報告を、とても喜んだそうです。 日本から出場した松井中尉と岩橋中尉も耐久審査に挑みますが、失権。その他、17頭の脱落馬を出した難関なので、竹一とアスコットの12位は、かなり頑張ったのでした。

大会終了の16日。竹一はウラヌスと、花形の障害飛越に挑みますが、勝利の女神がほほ笑むことはなく、落馬もあったことから、20位で競技を終了。日本チームとしては6位入賞を果たしますが、「日本馬で優勝する」という目標を達成することなく、竹一のベルリン五輪は終わりました。

この日のホロスコープですが、☀♌23°11・☽♌12°59(新月に向かっていますね) ☿♍13°49・♀♍6°23・♂♌3°47・♃♐14°37・♄♓21°03R・♅♉9°35R・ ♆♍15°30・♇♋27°41・☊♑2°29R

竹一の N☿♆の対局に☊。これは身近だった人、物事から距離ができる暗示だし、トラインですが♆は♄と、勝負には向きません。♐のN♅にT♃があるし、極端に悪くはないのですが、前回のような勢いが、星回り的にもないのです。

日本にとってベルリン五輪のスターは、「前畑頑張れ」の競泳女子200m平泳ぎ。前畑秀子選手だったと思います。

前回があまりにもすごすぎたのですが、前できたのだから、次もできて当たり前。なんでできないの?という感覚が日本国民側にも強かったのか、帰国の際に歓迎ムードはありませんでした。それどころか、「ドイツの選手を勝たせるために、西竹一は手を抜いたのではないか」といううわさが流れる始末。落馬があったので、余計にうわさが広まったのかもしれません。おぼれた犬を棒で叩くように、敗者や失敗した者を叩く傾向は、この頃から実はあったのでしょうか。

実際は不明で、以降は、類推でしかありませんが、ドイツに手柄を譲ることで、西竹一が利する何かがあるならわかります。それなら落馬より、安全な棄権を選ぶでしょう。落馬は下手すれば重症、下手すると馬に蹴られて死亡することもあるので、危険度が高いのです。なれないコースで意図的には、そうそうできません。お金に困っている人ではないから、札びら意味もないでしょうし、西竹一の性格上、あまり細かいことをする人でもないので、現実味は薄いとみています。

帰国後竹一は、馬術選手慰労会の席で「思うような成績を上げられず誠に残念でした。欧州各国とも、とても優秀な馬を有していたが、難コースでは、世界の名騎手さえも失権する者多く、よほどの名馬でない限り、完全走破することはむずかしい。しかし東京大会まで訓練を重ねれば、優勝の自信はある」そう東京五輪への意気込みを語りました。

さらにアスコットの実績を褒め,感謝を述べています。 元々は平場を走っていた競馬馬が、障害の大レースに挑んだのです。12位は褒めるべき結果であり、次につながる一歩でした。

ベルリン五輪後、竹一は軍務に復帰すると、転属命令が下ります。 国民側の塩対応を見て、国民が歓迎しない過去のメダリストに利用価値はないと、軍部が判断したのか、大陸でも奥地であるチチハル(現中華人民共和国黒竜江省)の騎兵第一連隊に左遷されたのです。あからさまな人事でした。

泥酔して物に当たり散らす姿を武子夫人は見ています。 −40度にもなる極寒地への左遷でしたが、無念さを押し殺して服務。現地では周囲に中華料理や酒をふるまうかと思えば、部下の結婚に対して援助を惜しまない。古参兵氏のリンチに耐えられない兵士を見逃すなどの寛大さが好かれました。

この人事は軍部と竹一の間に潜在していたギクシャク感が、生み出したことですが、1936年12月は、T♃が♐から♑へ移行する月でした。竹一は♑にN♄があるため、運勢的には、ブレーキとアクセルを同時に踏んだ状況となりやすく、晩秋辺りから、効いてきてもおかしくはありません。

1937(昭和12)年6月4日。近衛文麿内閣誕生。公爵家で容姿端麗。ハイスペックな近衛は人気もあって、これで日本は良くなる。多くの国民がそう思い、近衛内閣の誕生を祝いました。その約一月後の7月7日。盧溝橋事件に端を発した日中戦争が始まったのです。

近衛内閣とメディアは戦争を焚き付け、国民側もその波にのりました。(近衛文麿については、彼の回をご参照ください。)

騎兵を取り巻く環境も様変わり。トラックや装甲車といった輸送手段や兵器も開発された時代に入り、騎兵は完全に時代遅れの存在となり、陸軍はこの年から騎兵兵士の募集を停止しています。

1938(昭和13)年7月15日には、開催が決まっていた東京五輪と札幌五輪の返上が、閣議決定となりました。国内の物資の悪化。国際情勢の悪化だけでなく、いつの時代もそうですが、国内からの「無駄だからやめよう」の大会返上の呼びかけもあり、これに答えての閣議決定です。

1939(昭和14)年3月。陸軍騎兵少佐に昇進した竹一は、軍馬の育成などを担当する陸軍省軍馬補充部の十勝支部へ転属。これも左遷でした。派手に外車を乗り回し、ブランド品に身をかため、アメリカでは社交界で大モテだった人に、この転属も急落すぎですが、当時の陸軍の価値観から見て、自業自得と見る軍人もいたのでしょう。

ところが、悪いことばかりではなかったようです。これまで、ずっとパーティーに出ずっぱりで、夜な夜な飲み歩きだった竹一。十勝での生活で、息子と相撲をとったり、花輪を作ったりして、はじめて我が子たちと、ゆったり遊びました。根はやさしい人なので、子どもたちにとっては、嬉しかったでしょうね。

武子夫人も、肩の力が抜けたかもしれません。そんな折、彼を惜しむアメリカの友人から、渡米の誘いも来ました。手紙を観ながら、思わず「軍人止めようかな」と、夫人にこぼすほど、悩んだ模様。「そうなったら、私はおでん屋でもはじめましょうか」と、武子夫人は応じていたそうです。

この年、年運の星♃は、♓を進み、♄は♈を進んでいました。♓の対極♍には♆があり、国内外、個人の悩みや癒しに影響を与えたかもしれません。さらに同年9月には、第二次世界大戦が勃発します。

1941(昭和16)年3月10日後楽園スタジアムで、第4回遊佐馬術競技が行われました。

競技タイトルの「遊佐」は、竹一の師であり、馬術の神様と呼ばれた遊佐幸平から取っていると思われます。西竹一&ウラヌスのコンビは、障害飛越を披露。これが竹一とウラヌスが障害を飛ぶ、最後となりました。

戦後も遊佐は馬術と関わり、五輪にも協力しますが、世界の一流からかけ離れ界、オリンピックには、参加することに意義がある状況な日本の馬術界に、心を痛めたそうです。 この頃、日本はアメリカとの戦争が避けられない状況になりました。これには、国内の不況を何とかしたいルーズベルト大統領と、アメリカさえ参戦してくれれば、形勢逆転できると思うイギリス首相チャーチルの野望。さらにその背後で、国同士を対立させ、弱ったところを狙いたいソ連の目論見といった、二重三重の要素が取り巻いていたのです。

内閣の中枢にはソ連のスパイであった尾崎秀実らがいて、共産主義こそ理想と思っていた近衛文麿を焚き付け、日中戦争の和平交渉を先延ばしにした上、12月8日。真珠湾攻撃に至る道筋をつけました。尚、戦争回避を模索した末に、「竹一をアメリカに派遣して、戦争を回避できないか」という意見も上がっていたそうです。

都合のいい話は実現することなく消えて、大戦が避けられない状況を前に、近衛内閣は、東條英機に責任を負わせて逃げたのでした。(詳しい経緯は、近衛文麿の回、東條英機の回をご参照ください)

真珠湾攻撃を行い、ついに大国アメリカを相手に戦争を始めた日本。竹一は武子に「えらい相手と戦争を始めたもんだ」と、もらします。

彼が国際情勢に関心を持っていたかは微妙ですが、頭のいい人だし、肌感覚でアメリカを知っている者の一人として、「この戦争はあかん」を感じたのでしょう。この頃、竹一のものとに、かつて日本に留学していたイギリスの軍人から手紙が届きました。

「この先敵となっても、お互い死ぬまで友情は変わらない」という彼の思いに応えるべく、届くかはわからないけど、竹一は返信を送りました。欧米人の友達がいる竹一は、多くの日本人のような、「鬼畜米」には、ならなかったのです。

既に募集は停止な上、数も削減された騎兵は、戦車兵と統合。戦車連隊に置き換わっていました。多くの騎兵が戦車部隊の要員となったのです。

1942(昭和17)年ミッドウェー海戦後の11月。西竹一も第26師団捜索隊長となりました。1943(昭和18)年7月には、第1師団捜索隊長を拝命。同年8月陸軍中佐に昇進。

1944(昭和19)年3月。戦車兵として戦車第26連隊の連隊長として、北京の近く大同に赴任します。ここには家族と共に赴任しましたが、長くいることはありませんでした。

当初「サイパンの戦い」に参戦予定だったのです。ところが、6月11日アメリカ軍は、マリアナ諸島にある日本の飛行基地に攻撃を開始。この攻撃で、現地の日本航空部隊は壊滅。日本は絶対国防圏(領空)を失いました。本土各地を焼いた空襲が本格的になったのは、サイパン陥落で守備隊が玉砕してからです。

その守備隊が再編成されたことを受け、同年6月20日。西竹一が率いる戦車第26連隊は、硫黄島への動員が下されたのでした。

☀♊28°23・☽♊18°01(新月直前です)・☿♊14°51・♀♊26°22・♂♌16°33・ ♃♌23°14・♄♊29°56・♅♊10°06・♆♎1°28・♇♌7°11・☊♋27°51R

☊以外、Rなし。♊祭りです。竹一のN♊には、♀♇♂☿♆があり、かなりコンジャンクションの強いホロスコープになることは、想像にたやすく、N♃とT♃は対極。

♒にある竹一の♃が、配偶者の実家を含む、社会からのめぐり合わせによる財と人脈の拡張なら、♌の♃は、彼個人の力で巡らせる財運や人脈の拡張。重さがグッと加わる♃効果となります。

同年7月。久しぶりに自宅へ帰った竹一。子どもたちにはいつもの明るく、優しい父として振る舞いますが、武子夫人と二人きりになった時、「硫黄島が落ちたら、お前達ももうだめだぞ」と、弱気な言葉を口にしました。もうこの時は、硫黄島へ行くことを覚悟しているので、今生の別れの思いで帰宅したのでしょう。

硫黄島は東京23区から南方に1,200㌔。東経141°17・北緯24°25海域としては、フィリピン海に位置しますが、小笠原村に属しているので東京都です。

東西8㌔南北4㌔。決して大きな島ではありません。島の至る所に噴気がある活火山の島で、噴出する火山性ガス(二酸化硫黄等)の特有のにおいが立ち込めるため、硫黄島と呼ばれています。現在は海上自衛隊と航空自衛隊の基地があり、慰霊の為の上陸は許可されていますが、基本的に一般人の立ち入りはできません。

1944(昭和19)年7月15日。西竹一は、硫黄島守備隊として、戦車第26連隊の指揮をとるため、第3714船団で館山港を出港。ところが、父島沖でアメリカ海軍ガトー級潜水艦「コピア」の雷撃で船は沈没。96名の命と、28両あった戦車に高射砲を含めた重火器を失ったのです。からくも救助された竹一は、同年8月。米軍の攻撃で失った戦車を補充するため、東京へ戻りました。

親友で東京川崎財閥の御曹司川崎次郎から、車を借りて都内をドライブ。空襲で傷んだ東京の街を駆け抜け、馬事公苑で余生を送っている愛馬ウラヌスを訪ねます。

西の足音を覚えていたウラヌスは大喜び。竹一に首を摺り寄せて、馬の最上級な愛情表現である愛咬してきたとか。障害を越えることはしないものの、馬場へ出てゆっくりと一周。これがウラヌスとの今生の別れとなりました。

幸か不幸か、船が撃沈されたことで、愛馬ウラヌスの顔を見て、友人、家族の顔も見れたわけですが、戦車の補充は12月に行われる事が決まると、1945年(昭和20)年。竹一は初めて小笠原団(第109師団)直轄部隊の第26連隊の指揮官として、硫黄島に上陸します。愛用の鞭とエルメス製の乗馬用ブーツというスタイルで、硫黄島を歩き、釣った魚を兵士に振るまったり、宴会も開いたそうです。

硫黄島守備指揮官の栗林忠道中将(栗林陸軍中将は、小笠原師団長兼長)は、1891(明治24)年7月7日松代藩郷士の家に生まれ。そう、竹一同様、☀星座は♋なのです。二人は同じ騎兵畑出身ということもあり、映画などでは意気投合な場面もあったようです。

親しかったという証言。確執があったという話。両方ありますが、戦車隊26連隊の精強さに、自信と信頼を持っている竹一は、硫黄島でも戦車本来の起動線を望みますが、戦車を防御兵器として使うため、埋めるよう命じる栗林中将。

当初これに反発はするものの、地形を見て最終的に、命令は度受け入れた話を観ると、やり方は違えど方向性は同じだったのでしょう。両者とも硫黄島守備将兵には、慕われていて人気も高かったのです。

硫黄島の戦いは、1945年2月19日~3月26日の間ですが、直前の同年2月4日~2月11日。ソビエト連邦のクリミア自治ソビエト社会主義共和国ヤルタにあるリヴァディア宮殿において、イギリス・ソビエト連邦・アメリカ合衆国による連合首脳会談「ヤルタ会談」が行われました。表向きはポーランド問題とドイツ問題を話し合い、といわれていますが、アメリカのルーズベルト大統領・ソ連のスターリン書記長で、2月8日に秘密会談が行われたのは、ご存じでしょうか。

日本を参戦させて、敗戦と降伏へと持ち込みたいルーズベルト大統領。日本を敗戦に追い込むには、ソ連の協力が不可欠と考えます。ソ連はソ連で、既に日本との間で、日ソ中立条約を結んでいましたが、満洲の権益や樺太等が欲しかったのです。

利害は一致とみたルーズベルト大統領は、1945年2月8日満洲・樺太・千島の権利を主張するソ連の要求を呑む形で、日ソ中立条約の一方的破棄、対日参戦をスターリンに即したのでした。会談後はイギリスのチャーチル首相も加わり、交わされた秘密協定が「極東密約」でした。今回、密約の詳しい内容は省きますが、「極東密約」で検索をかけると、その内容を読むことはできますので、多くの日本人に、読んでいただきたいです。

一方の日本では、アメリカの動きを懸念した昭和天皇は、1月6日の段階で重臣の意見を求めていました。しかし早期に開かれることはなく、重臣会議が始まったのは2月に入ってから。しかも陛下と個々に拝謁もするため、重臣会議の終了は2月26日。既に硫黄島は激戦化したのでした。

硫黄島の戦いですが、日本の戦力は陸軍13,586。海軍7347=20,933名。補給も何もできない状況。 アメリカ上陸部隊111,308。海軍支援部隊を含め合計250,000と言われています。

期間内に、航空母艦16隻と戦闘機1200機の他、戦艦に巡洋艦を含めた、かなりの物量による総当たり戦を、アメリカは展開しました。 小さな島で、自国から補給も受けられない日本軍。アメリカは当初「5日もあれば終わる」と思っていたのです。ところが、実際米兵が上陸を開始してから、約一月ほどの間、日本兵は栗林中将の元、地の利を利用したゲリラ戦を展開し、米軍は勝ちますが地獄を見たのでした。

1945年3月17日アメリカ軍が硫黄島を制圧したことを受け、日本の大本営は、硫黄島が玉砕したと発表しますが、現地では300人の残存兵の遊撃が続き戦闘を繰り広げ、3月26日を迎えたのです。

守備兵力20,933名のうち、19,900名が戦死、および戦闘中に行方位不明となりました。 一方のアメリカ兵ですが、戦死6,821名。戦傷21,856名。太平洋戦争後期の上陸戦で、アメリカ軍攻略部隊の損害の実数は、日本軍を上回った戦いとなったのです。

西竹一もこの地で戦死しました。 彼の部隊は、上陸したアメリカの戦車を鹵獲し、改良、修理して使ったそうです。

戦闘末期の頃になると、はぐれた兵士を洞窟内に入れることに拒絶反応を示す指揮官もいる中、竹一は「一緒に戦おう」と受け入れたそうです。

自分たちの医薬品も乏しいのに、負傷したアメリカ兵を尋問した後、できるだけの手当をしたとか。その兵士が持っていた母からの手紙を見て、「どこの国も、人情には変わりねぇな」と呟いたとか。 彼らしいとはいえるけど、本当かはわからない逸話が残っています。

竹一の最後につても同様で、場所も時間日時も明確ではありません。すべてがハッキリとしていないため、幾つか節があります。さらに、竹一が率いた戦車第26連隊が玉砕する際、アメリカ軍からの投降勧告。城山三郎氏の小説「硫黄島の戦い」の一場面といわれていますが、これがあったかなかったか、何故、西竹一が硫黄島で指揮官をしていることを米軍兵が知ったか、疑問も尽きませんが、ここも議論されています。

「Baron Nishi 出てきなさい。あなたはロサンゼルスで、限りなき名誉を受けた。降伏は恥ではない 我々は勇戦したあなたを、尊敬を持って迎える。世界は君を失うにはあまりにも惜しい」

ここまで臨場感があったかはわかりませんが、相手は西竹一でなくとも、米軍は基本的に投降を促します。

>「出てこい西」と言って、盛んに助けようとしたのは事実のようでございます。しかし、日本の軍人として捕虜になるなど許されない事でしたし、指揮官としては、なおさらで、それに応じなかったということでございます<

という、武子夫人のコメントのも気になるところです。

享年42歳。恐らく戦死は3月26日。 確かなエピソードは、竹一が亡くなって一週間後、陸軍獣医学校にいたウラヌスが、まるで後を追うように虹の橋を渡ったことでした。

竹一が死ぬまで離すことのなかったウラヌスのたてがみは、1990年にアメリカで発見され、軍馬鎮魂碑のある北海道中川郡本別町の歴史民俗資料館に所蔵されています。

ロス五輪の金メダルはウラヌスの蹄鉄と共に、「優勝額」の形で、秩父宮記念スポーツ博物館が所蔵。

硫黄島戦の時期に、グアム第315爆撃航空団に赴任していたアメリカ軍サイ・パーレット陸軍大佐は、武子夫人を訪ねて1965年に来日。靖国神社において、西竹一の慰霊祭を挙行したとあります。

硫黄島の銀明水の近くに建立された「西竹一戦死の碑」の碑文には

「硫黄島 散りてちらさぬ もののふの 心の櫻 咲きにほう島」

と書かれていますが、やはり日本人は桜なんですね。

個人の人生ではあらがえない、国運。国際的な野望を背景に起きた戦争ですが、エピソードが所説あるのは、本人が魅力的な人だったからであり、一つの室に☀と♆がある効果かもしれません。 いずれにしても、彼のようなアスリートが、技を磨き、競い合う世界を別の力が壊してしまうのは、悲しいことです。

2028年には3回目のロス五輪が行われます。平和の元、多くの選手がのびやかに核協議を競い合う姿が見たいし、日本の乗馬、頑張ってほしいですね。それが先駆者であり金メダリストだった西竹一とウラヌス号へのたむけとなると思います。

お話/緑川連理先生

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