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家康が60歳でも子作りに励んだから今も徳川家は続いている…17歳から65歳でつくった「11男5女」全一覧

  • 2024.8.23

徳川家康には、現在なら定年退職の年齢にあたる60歳で十男、61歳のときに十一男が誕生し、現在の徳川家当主に続く血脈を作ってから73歳で死去した。系図研究者の菊地浩之さんは「家康には少なくとも11男5女の子がいて、男児は二代将軍秀忠のほか、徳川御三家の祖となるなど、400年続く徳川家の礎を築いた」という――。

家康には17人以上の側室がいて、生涯で11男5女をもうけた

江戸幕府を開いた徳川家康(1542~1616)には2人の正室、少なくとも17人の側室がおり、11男5女をもうけた。

【図表1】徳川家康の子女たち

家康は今川家の人質時代に築山殿つきやまどのと結婚。築山殿は、大河ドラマ『どうする家康』でも描かれたように、今川家重臣の娘で、今川義元よしもとの姪といわれていたが、実際は違うらしい。

弘治3(1557)年頃、つまり家康が15歳頃に結婚、永禄2(1559)年3月に17歳で長男・岡崎信康、翌永禄3年6月に18歳で長女・亀姫が生まれた(年齢は当該年の満年齢)。

ちょうど亀姫が生まれる2週間前の永禄3年5月、桶狭間の合戦が起こり、家康は岡崎に復帰。今川家から離反して、三河統一を推し進めた。これ以降、築山殿に子がないことから、築山殿は悪女で、夫婦仲が悪かったといわれている。

正妻の築山殿とは夫婦仲が悪く、側室をもうけるが……

家康は永禄5(1562)年2月に今川勢の拠点・西郡上之郷にしごおりかみのごう城を攻め落とし、城将・鵜殿長照を敗死させた。

その3年後の永禄8(1565)年、家康は23歳で次女・督姫をもうけたが、その母・西郡局にしごおりのつぼねは長照の姪である。鵜殿氏は皆殺しにされたわけではなく、残った一族が家康に仕えたので、人質として預けられていたのをお手つきしちゃったのだろう。

永禄11(1568)年、家康は隣国・遠江に侵攻。元亀元(1570)年に岡崎城を信康11歳に譲って、自らは浜松城に移った。天正2(1574)年2月、久しぶりに32歳で次男・結城秀康が生まれる。

母はお万の方27歳。「三河池鯉附ちりゅうの住人永井(氷見の誤りか)志摩守吉英よしひでの女であるといい、或いは尾州熱田社の禰宜 ねぎ(神職のひとつ)、村田意竹いちくの女むすめであるともいい、その生い立ちは明らかでないが、微賤の出と思われる」(『家康の族葉』)。

この前後に家康の子女を生んだ側室はいずれも三河の国衆(国人領主)の娘(もしくは孫)で、お万の方はかなり身分が低い。次男・秀康、六男・忠輝(後述)は家康に疎まれていたが、ともに母の身分が低いためだと考えられる。お万の方は、正室の築山殿に側室として認知されていなかったので、浜松城内で出産することができず、城下の家臣宅で秀康を生んだといわれる。

二代将軍・秀忠を産んだのは今川氏家臣の姪である西郷局

天正4(1576)年3月、信康に長女が生まれ、家康は34歳でおじいちゃんになる。

天正7(1579)年4月、家康37歳で三男・徳川秀忠が生まれた。母は西郷局17歳。家康の20歳年下で、三河の有力な国衆・西郷家の出身。この年の8月、家康は築山殿を家臣に殺害させ、さらに翌9月には信康を自害に追い込んだ。

天正8(1580)年9月に四男・松平忠吉ただよしが生まれる。母は西郷局。翌天正9年に東条松平家の養子となる。

同天正8年10月に三女・振姫が生まれる。母はお竹の方。年齢不明。甲斐武田家臣・市川昌永まさながの娘、または市川昌忠まさただの妹といわれる。そもそも武田家滅亡が天正10年なのに、それ以前に武田家臣の側室がいるのが不可思議なのだが、長篠の合戦で討ち死にした部将の遺族が身を寄せてきたのかも知れない。

徳川家康肖像画
徳川家康肖像画〈伝 狩野探幽筆〉(画像=大阪城天守閣蔵/PD-Japan/Wikimedia Commons)
秀吉の異父妹と再婚、その結婚期間は子作りを避けた?

天正11(1583)年9月に41歳で五男・武田信吉のぶよしが生まれる。母は下山殿。甲斐武田家臣・秋山虎康とらやすの娘だと考えられるが、穴山あなやま梅雪ばいせつの養女だったとも、武田信玄の娘だったとの説もある。『徳川妻妾記』では「梅雪の末弟である穴山彦八郎信邦の妻であった」が、離別させられ、家康への人身御供ひとみごくうにされたという。そこら辺が正しいのかもしれない。家康は信玄を深く崇拝していたので、武田家にゆかりの深い女性を側室に置き、その子どもに武田姓を名乗らせたかったのだろう。

翌天正12年に家康は小牧・長久手の合戦で羽柴秀吉と戦い、講和の後、次男・秀康は秀吉の猶子(財産相続を伴わない養子)となり、天正14(1586)年5月に家康は秀吉の異父妹・あさひと再婚。家康は44歳、あさひは43歳だった。天正16(1588)年6月に家康が上洛する際にあさひをともない、以後、秀吉の築いた聚楽第じゅらくていで逗留。あさひは天正18(1590)年1月に死去した。

50歳で六男と七男が生まれるが、母の身分が低すぎて養子に

天正20(1592)年1月、50歳で六男・松平忠輝が生まれる。七男・松平松千代は文禄3(1594)年生まれ説もあるが、実際には忠輝と双子だったらしい。母・お茶阿ちゃあの方(年齢不明)は庶民の娘で鋳物師の妻。代官が夫を殺して自分のものにしようとしたが、お茶阿は鷹狩り中の家康に直訴。そのまま側室になった。

【図表2】家康の子どもたちと徳川家の系譜

中村孝也氏はその著書『家康の族葉』で、家康が天正11年に「五男信吉を儲けてのち、まる十年間子供ができなかったのに」天正20年になって急に、六男・忠輝をもうけたのは奇異だと感想を述べている。おそらく、あさひを継室に迎えたので、彼女が死去するまで、子どもをもうけなかったのであろう。さすがは家康、「律儀な内府だいふ(=内大臣)」である。換言するなら、その間、家康は子どもが生まれないようにしていた可能性が高い。

お茶阿の方は、家康の側室の中でももっとも身分が低い。家康からすると、身分の低い女とは子どもをもうける気などなかったのに、お茶阿の方が勝手に子どもを生んでしまった――と思ったのではないか。

七男・松千代を生後間もなく長沢松平家の養子に出し、六男・忠輝も生まれた翌年に皆川みながわ広照ひろてるの養子とされた。松千代が慶長4(1599)年に死去すると、忠輝が代わりに長沢松平家の養子とされた。二人の子がさっさと他家の養子に片付けられてしまったのは、望まざる出産だったからだろう。

秀吉が嫡男・秀頼を得たころには、既に孫や曾孫もいた家康

文禄3(1594)年12月、家康は52歳で曾孫(信康の長女に長男・小笠原忠脩ただなが)が生まれ、曾祖父(ひいおじいちゃん)になる。その前年の8月、豊臣秀吉にやっと嗣子・秀頼が生まれて大騒ぎだった。そんな頃に曾孫ができていたなんて……。

文禄4(1595)年3月に53歳で八男・平岩仙千代せんちよが生まれる。母・お亀の方19歳は石清水八幡宮の社家・志水しみず宗清むねきよの娘で、はじめ、美濃齋藤家の旧臣・竹腰たけのこし正時まさときに嫁ぎ、竹腰正信(1591~1645)を産んで死別した。ついで、豊臣家臣・石川光元みつもとの側室となり、石川光忠みつただ(1594~1628)を生んだが離縁され、文禄3(1594)年に家康に見初められたという。

お亀の方はその翌年に仙千代を生むが、慶長4(1599)年に家臣・平岩親吉ちかよしの養子に出され、翌慶長5年に早世する。あくまで推測の域を出ないが、家康は仙千代が先夫の子じゃないのかと疑い、自分に似ていないと確信して、親吉に預けたのだろう。「この後、面倒なことになる前に始末してくれ」と。

将軍を引退し「大御所」となってからも子作りに励んだ

同文禄4年(翌慶長元年10月説あり)に四女・松姫が生まれた。母・お久の方は、小田原合戦で伊豆山中城を守った北条家臣・間宮康俊やすとしの娘。

慶長5(1600)年9月、家康は関ヶ原の合戦で勝利を収め、事実上、天下人となった。その翌々月の11月、58歳で九男・尾張徳川義直が生まれる。母はお亀の方。今度は間違いなく自分の子なので、義直は大切に育てられ、尾張徳川家の祖となる。

慶長7(1602)年3月に60歳で十男・紀伊徳川頼宣よりのぶが生まれる。母・蔭山殿かげやまどの22歳は上総勝浦城主・正木まさき頼忠よりただの娘で、母親が再縁した蔭山氏広うじひろの養女。

慶長8(1603)年2月に家康は征夷大将軍に任ぜられ、同年8月に61歳で十一男・水戸徳川頼房が生まれる。母は蔭山殿。翌慶長9年7月、秀忠に次男・徳川家光が生まれる。

家康の十一男で水戸徳川家の祖である徳川頼房の肖像『原色再現江戸大名家藩祖の肖像画』
家康の十一男で水戸徳川家の祖である徳川頼房の肖像『原色再現江戸大名家藩祖の肖像画』(画像=治済/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

慶長10(1605)年4月に家康は将軍職を秀忠に譲り、駿府(静岡市)に移って大御所となるのだが……。慶長12(1607)年1月に65歳で五女・市姫が生まれる。母・英勝院えいしょういん27歳は北条家臣・太田康資やすすけの娘、江戸城を築いた太田道灌どうかんの子孫と称す。

現在の徳川家当主は松平容保の子孫で、祖は家康の末っ子

長男・信康に男子がなく、三男・徳川秀忠の血筋は七代家継で絶えた。四男、五男、七男、八男には男子がなく、六男・松平忠輝には子孫が残っていない(はず)と言われる。

九男・尾張徳川義直の血筋は18世紀末に八代宗睦むねちかで絶えた。次男・秀康の子孫は今に伝えられているが、徳川姓を名乗った者はいない。

現在の徳川家第十九代当主・徳川家広(作家・翻訳家)は、最後の会津藩主・松平容保の六男の長男の次男の長男にあたる。さかのぼれば、そのルーツは家康の末っ子、十一男の頼房だ。

徳川宗家19代目当主として家督を継いだ徳川家広氏。
徳川宗家十九代目当主として家督を継いだ徳川家広氏。2023年1月29日、東京都港区の増上寺で開かれた「継宗の儀」で。

江戸幕府が終焉した幕末以降、徳川を名乗っているのは、家康が60歳以降になってから生まれた、十男・紀伊家家祖の徳川頼宣、十一男・水戸家家祖徳川頼房の子孫だけなのである。あの時、がんばっていたから、今がある。そんな感じといえよう。

菊地 浩之(きくち・ひろゆき)
経営史学者・系図研究者
1963年北海道生まれ。國學院大學経済学部を卒業後、ソフトウェア会社に入社。勤務の傍ら、論文・著作を発表。専門は企業集団、企業系列の研究。2005~06年、明治学院大学経済学部非常勤講師を兼務。06年、國學院大學博士(経済学)号を取得。著書に『企業集団の形成と解体』(日本経済評論社)、『日本の地方財閥30家』(平凡社新書)、『最新版 日本の15大財閥』『織田家臣団の系図』『豊臣家臣団の系図』『徳川家臣団の系図』(角川新書)、『三菱グループの研究』(洋泉社歴史新書)など多数。

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