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137:春を噛む

  • 2016.3.11

ヴェネツィアに引っ越した。

雨の少なかった冬の穴埋めをするかのように、悪天候が続く。数日前には、風も吹き荒れた。本島の南側と対するジュデッカ島とのあいだに流れる海峡は、深くて広い。強風に煽られ波が立ち上がり、岸壁を乗り越え、岸壁沿いに並ぶ建物の裾にザブリと打ち当たる。幾筋もの路地が、島を横に切り割るように通っている。海峡を渡る風は分かれてそこへ流れ込み、疾風に変わる。その路地奥に住んでいる。

両側から建物が迫り、小さな渡り廊下が頭上にまたがる。薄暗い洞窟の中を行くようだ。ずっと先の路地の入り口は、立てかけた絵のように見える。

頭を下げ、コートの胸元を押さえ一歩踏み出した目の先に、スミレが咲いていた。長雨と冠水を吸い込み黒く色を変えた煉瓦塀の隙間で風雨を凌ぎ、一晩で花をつけたのだ。

オハヨウ。

昨夏に生まれた子に会いに、陸側に住む友人を訪ねる。大時化の海原のような海峡を渡ってしまうと、たちまち風は鎮まった。

幼子は、やっと熱が引いたばかりである。

「冬じゅう暖かい日が続いて雨も降らず乾燥しているから、すぐに風邪を引いてしまって」

毎朝、若い母親は海峡を渡り、本島で働いている。自分で作って売る商売なので、休むと干上がる。夫も職工である。容易く仕事は休めない。公立の託児所は家から遠い上に、順番待ちがある。私立に入れるには、二人の収入を合わせても足りるかどうか。仕事場の近くの託児所に入れたいが、干潟の住民でないので使えない。

母親に抱かれた幼子の笑う口元には、小さな歯が光っている。

授乳のあいだは子供が元気なら親子三人で海峡を渡り、具合が悪ければ母親が陸側に残った。

「歯が生え始めた頃は熱も出やすかったけれど、ずいぶん楽になりました」

夫婦は毎朝早起きして、自分たちと赤子の分の弁当を用意する。ここからが肝心、と二人は地産の野菜を選んで幼子の離乳食弁当を作っている。強い潮風を受け中海の地下水を吸い上げて育った野菜には、力強い味わいがある。

自分の歯で咀嚼して。

私にも、とねだって、幼児用の小さな小さな星型のパスタをミネストローネに入れてもらう。数本の歯を見せてはしゃぐ子と並んで食べる昼食は、春の干潟の味がした。

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