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「希代の悪女」と呼ばれた張禧嬪が国王の生母になる過程に何があったのか

  • 2024.7.27

1688年、19代王・粛宗(スクチョン)の側室だった張禧嬪(チャン・ヒビン)が妊娠した。もちろん、父親は粛宗だ。この時点で彼には息子がいなかった。

それだけに、王子誕生の期待感があった。通常、王妃や側室が妊娠すると、すぐに胎教が始まった。胎教で大事なのは、妊婦の身と心を清くすることである。妊婦は、清潔な生活を心掛け、不浄なものは見ないようにした。

必然的に、食べ物には特に気を使った。妊娠してからの食生活では、旬の食材を食べることを心掛けた。

その末に、張禧嬪は1688年10月27日に男子を出産した。このとき生まれた子供には、梅花・桃・スモモの木の根・胡桃などを入れて沸かした後に猪の胆嚢を入れた水でからだを洗った。

それから、長寿だった官僚が着た服の布で作った産着を着せた。これは長寿の人の「気」をもらい、子供が無病で成長することを祈ったのである。

張嬉嬪(チャン・ヒビン)
ドラマ『トンイ』ではイ・ソヨンが張禧嬪を演じた
悪女として有名な女性

生まれた子供のへその緒と、張禧嬪が出産のときに使った敷物も、とても大事にされて、しっかりと保管された。そして、立派な王子を得た国王は、息子の無病を願う祈祷を大々的に行った。

翌年の1月には、粛宗の息子が「元子(ウォンジャ)」に指名された。事実上の後継ぎである。養育と保護のために保養庁が設置された。元子は次世代の国王になる可能性が高いので、保養庁の責任官になるのは光栄なことであり、同時に政治的にも重要な地位を占めるようになった。

責任官が元子に会う日には、5人の同じ年ごろの子をつれてきた。元子を寂しくさせないためである。そして、元子が成長して字を学べる頃になると保養庁は講学庁に昇格していった。そして、元子は朝講、昼講、夕講と1日3回の学習を受けた。

このように成長した元子は、王位の正統継承者である「世子(セジャ)」に任命された。それが、1720年に即位した20代王・景宗(キョンジョン)だ。こうして張禧嬪は後に国王の生母となったのだ。しかし、本人は1701年に死罪になっているのだが……。

文=康 熙奉(カン・ヒボン)

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