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「刮目相待(かつもくそうたい)」とはどんな意味?その由来には三国志の英雄が!!

  • 2024.7.24

あまり聞き慣れない四字熟語の1つ、それが「刮目相待(かつもくそうたい)」です。 これは人や物事の成長・進歩を待ち望むことを意味する四字熟語です。

ちなみに、その由来には三国志が関係しているのだとか。 今回はそんな「刮目相待」について解説します。

「刮目相待」とは

まずは「刮目相待」の意味について解説します。

刮目相待の意味

「刮目相待」は人や物事の成長や進歩を待ち望むことを表す四字熟語です。

今までと違った目で相手を見るという意味でも使用されます。

なお「刮目」は目を見開いてよく見ることを意味する熟語です。 また「相待」は相手を待ちかまえることを意味する熟語とされます。

それらの言葉を組み合わせたのが「刮目相待」です。

人や物事の成長や進歩を待ち望むことを意味する言葉として使用されるようになったとされています。

刮目相待の用い方・例文

「刮目相待」は【刮目して相待つ(あいまつ)】とも読み、 人や物事の成長・進歩に対して使用するのが一般的です。

・例文1:彼の努力と成長には目を見張るものがあり、今や皆が刮目相待する存在となった。 ・例文2:新しいプロジェクトのリーダーに任命された彼は、その才能を発揮し、チーム全員に刮目相待されている。 ・例文3:彼女のプレゼンテーションスキルは以前よりも格段に向上しており、同僚たちは彼女を刮目相待するようになった。

このように物事というより人物に対して使用することが多いです。 イメージとしては、未熟だった者が時間の経過や特定の出来事を経て成長・進歩した様子を指して使用されることが多いです。

「刮目相待」の由来

では「刮目相待」はどこから来た表現なのでしょうか。 ここからは「刮目相待」の由来について解説します。

武将・呂蒙の成長から生まれた

「刮目相待」は三国志「呉書-呂蒙伝」に見える「江表伝」の話に由来します。

二世紀の終盤、後漢王朝末期の中国に呂蒙という武将がいました。 彼は教養があまりなく、周囲からも決して一目置かれるような存在ではありませんでした。

しかし、彼は主君に諭されて学問に励み、見違えるほどの教養を身につけたとされています。

そんな彼を見て昔馴染みの魯粛が驚くと呂蒙は「立派な男というものは別れて三日経ったら当に刮目して相待つべし(目をこすってきちんと見直さないといけないものだ)」と答えたそうです。

そこから人や物事の成長や進歩を待ち望むことを「刮目相待」と表現するようになったとされています。

呂蒙とはこんな人物

呂蒙は中国後漢末期の武将とされています。 主に呉の孫策・孫権に仕えた武将として知られています。

呂蒙の名が歴史の表舞台に現れたのは呉軍が劉表の配下である江夏太守の黄祖と戦った時のことです。

かつて、黄祖の部下だった呂公が呂蒙の主君である孫堅を弓で射殺していることから、黄祖は孫権にとっての仇敵とされていました。 この戦いで呂蒙は黄祖の配下である陳就を打ち取る戦功を上げ、孫権に賞賛されて立身出世へ躍進しました。

以降も数々の戦で活躍し、最終的には太守にまで抜擢されます。 しかし、その後まもなくして呂蒙は病床に伏してしまいます。

その後も孫権は手を尽くして呂蒙の回復に努めましたが、最終的には42歳で生涯の幕を閉じたとされています。

同じ逸話から生まれた言葉

ここからは呂蒙の同じ逸話から生まれた言葉をまとめます。

男子三日会わざれば刮目して見よ

「刮目相待」と同じ逸話から「男子三日会わざれば刮目して見よ」という言葉も生まれています。

これは「人は別れて三日もすれば大いに成長・進歩しているため、次に会った際には刮目して見ないといけない」ことを意味します。

その意味は「刮目相待」とほとんど同じと言えるでしょう。

呉下阿蒙

「刮目相待」と同じ逸話から「呉下阿蒙」という四字熟語も生まれています。

これはいつまで経ってもまったく成長・進歩のないつまらない人を意味する言葉です。

呂蒙の話から無学な人を表す言葉として使用されます。

まとめ

「刮目相待」は人や物事の成長・進歩を表す表現の1つです。 しばしばその成長・進歩を待ち望むことを意味する四字熟語としても使用されます。

この四字熟語は中国の武将、呂蒙の逸話が由来となっています。 他にも呂蒙の逸話から生まれた言葉はいくつか存在するので、併せて覚えておきましょう。

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