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究極のエコ・トラベル。伊能忠敬の足跡を辿って歩く旅「伊能ウォーク」入門

  • 2024.7.14
伊能忠敬のイラスト

教えてくれた人:八木牧夫

約4万km、地球1周分を踏破

伊能忠敬が天文学や測量技術を身につけたのは、50歳を越えて家業を息子に譲った後のこと。若い頃から天文学に興味があった忠敬は隠居後、江戸の深川に移り住み、幕府の天文方の高橋至時(よしとき)に師事したのである。

今で言えば第二の人生、老後の楽しみと言ってもいいのかもしれない。しかし生来の生真面目さゆえか師匠も驚くほど腕を上げた忠敬は、5年後には幕府の蝦夷地測量に推挙され初の測量の旅に出ることになる。それがまさか地球1周分、4万kmの長い長い旅路になろうとは、当の忠敬さえ知るよしもなかっただろう。

忠敬が歩いた測量旅の最大の特徴は、海岸線を忠実にトレースしている点だ。実測による日本地図を作ることが旅の目的だから当然と言えば当然なのだが、海岸線に道があるとは限らない。旅程は困難を極めたに違いないのだ。

そして測量旅の途中どうしても測量できない難所があると、忠敬はそれをごまかすことなく地図に記載したどころか、再測量さえ願い出たといわれている。「二歩で一間、四千万歩」、1歩が90㎝というのは伝説ゆえの脚色だろうが、忠敬の仕事には一切の妥協も脚色もなかったのである。

55歳から17年間、全10回の測量旅

蝦夷地の地図を評価した幕府の役人はさらなる測量を忠敬に命じた。当時、外国籍の船が近海に姿を現すことに危機感を覚えた幕府は、正確な日本地図の必要に迫られていたに違いない。忠敬もこの頃から日本全土の地図を作る大望を抱いたのではないだろうか。

第4次までで東日本を踏破した測量隊だが、それまでは忠敬の身分は担保されず、資金の大部分も忠敬の私財によるものだった。しかし献納した東日本沿海地図が時の将軍、徳川家斉の目に留まり、第5次からの西日本測量は幕府の正式な事業に格上げされ、スタッフも増員、忠敬は幕臣に取り立てられた。

ただしさすがの忠敬も高齢になり旅の途中で病に倒れるなど、すべてがいい方に回ったわけではないようだ。結果、全4回の西日本測量旅には約9年を費やすことになる。

その後、第9次で伊豆七島を、第10次で江戸市中を測量して17年に及ぶ測量の旅は終わるのだが、忠敬は最後の2回にはほぼ参加していない。「大日本沿海輿地全図(だいにほんえんかいよちぜんず)」未完のまま、忠敬は73歳でこの世を去った。しかし地図作成は弟子たちに受け継がれ、忠敬の死後3年を経て無事完成を見たのである。

伊能忠敬の測量年表
第2次測量の1801年7月17日〜7月28日は江戸滞在。

忠敬のもう一つの偉業

蝦夷地測量を幕府に具申した当初、忠敬と師匠の高橋至時にはもう一つの狙いがあった。それは実測による子午線(緯度)1度の長さの特定である。子午線1度の長さがわかれば、地球のサイズがわかる。当時、子午線問題は天文学者の緊急の課題だったのである。

緯度を実測するためには南北に長い距離を天文観測して歩く必要があった。幕府から蝦夷地まで船で行くよう指示されたが、奥州街道を行く旅に固執したのはそのためだったといわれている。つまり忠敬は、昼間は測量しながら1日平均約40㎞の徒歩の旅を続け、日が暮れると今度は天文観測に勤しんだことになる。

そして東日本の測量をすべて終えたとき、忠敬は子午線1度の長さを28里2分と算出した。その数値の正確さは現代の緯度1度の長さとほぼ同じであることが証明している。

中象限儀
中象限儀(ちゅうしょうげんぎ)/主に子午線1度の長さを測定するのに使われた天体観測用の器材。上の図のように特定の星が最も高くなったときにその角度を観測し、その角度の違いから子午線1度の長さを測定した。写真提供:伊能忠敬記念館
彎窠羅鍼
彎窠羅鍼(わんからしん)/忠敬の考案。杖の先に方位磁石を付けた測量器材。磁石面の支点が可動式で、地面が傾いていても常に水平を保てる仕組み。忠敬はほかにも多くの測量器材を考案したが、中でも一番活用した器材だ。写真提供:伊能忠敬記念館

いざ、「伊能ウォーク」へ

「伊能ウォーク」の起源は、忠敬の測量開始200年を記念したミレニアムウォークイベント。1999年1月25日に深川を旅立ち2001年1月1日に日比谷公園にゴールした、日本1周のウォーク旅だ。574日間で11,030㎞を踏破、参加人数は延べ17万人。コツコツ歩いてミレニアムを迎えようという人が17万人もいたという事実に、忠敬の昔から変わらないサステイナブルな精神を感じずにはいられない。

以来、伊能ウォークはスタンダードになった。日本1周じゃなくていい。測量隊が歩いた道を辿って忠敬ゆかりの地を訪ねるウォーク旅。いざ、伊能ウォークへ。

点線は船や車での移動。

【ゆかりの地】ディスカバリー・伊能ジャパン ①〜⑤

17年もかけて日本中を測量して歩いたということは、日本中に忠敬ゆかりの地があるということ。週末に近場のゆかりの地を訪ねるだけでも、けっこうなワンデイ伊能ウォークを楽しめるはずだ。

ウォーク旅に慣れたら、ミレニアムイベントで歩き残された忠敬の足跡を辿ってみるのも悪くない。例えば第1次の蝦夷地測量で忠敬が歩いた北海道の南岸や、第2次測量の三陸海岸は、ほぼまるまる残されているのだから。

最東端測量の地(別海町)
最東端測量の地(別海(べっかい)町)忠敬が訪れた最東端。以北の測量は間宮林蔵が引き継いだ。写真提供:別海町教育委員会
北海道測量開始地(福島町)
北海道測量開始地(福島町)測量隊が蝦夷地で初めて測量した場所は現在、記念公園に。写真提供:福島町観光協会
星座石(唐丹町)
星座石(唐丹(とうに)町)天文学者・葛西昌丕により江戸時代に唯一、建立(こんりゅう)された碑。写真提供:釜石市教育委員会
伊能忠敬旧宅(香取市)
伊能忠敬旧宅(香取市)忠敬記念館の向かいにある旧宅も一般公開されている。写真提供:伊能忠敬記念館
銚子測量記念碑(銚子市)
銚子測量記念碑(銚子市)測量の基準にした富士山。銚子は富士山可視東端の地だ。写真提供:銚子市役所

【名勝地】忠敬お気に入りの風景 ⑥〜⑩

忠敬が遺した『測量日誌』には、たまに「けだし絶景なり」というフレーズが出てくる。遠隔地の情報が少ない江戸時代のこと、測量を忘れて足を止めてしまう風景もあったはずだ。

忠敬はそんな風景を「大日本沿海輿地全図」とは別に「名勝図」として遺した。例えば琵琶湖や厳島は今も観光地として馴染み深いが、忠敬の驚きを想像しながら眺めると、一味違った感慨を味わえるはず。そんな伊能ウォークも捨てがたい。

九十九島(象潟町)
九十九(くじゅうく)島(象潟町)忠敬が訪れた時代には、潟湖に浮かぶ小島群が絶景だった。写真提供:伊能忠敬記念館
四十八枚田(千曲市)
四十八枚田(千曲市)第8次の九州測量旅の帰途で立ち寄った姨捨(おばすて)の名勝。写真提供:信州千曲観光局
琵琶湖(滋賀県/名勝図)
琵琶湖(滋賀県/名勝図)第5次測量旅の往復路で2度にわたり測量したのが琵琶湖。写真提供:伊能忠敬記念館
厳島(宮島町/名勝図)
厳島(宮島町/名勝図)幕府御用になった第5次では瀬戸内の島々も丁寧に測量。写真提供:伊能忠敬記念館
番所鼻(南九州市)
番所鼻(ばんどころばな)(南九州市)忠敬が「天下の絶景」と語ったという開聞岳を望む風景。写真提供:南九州市商工観光課

達人に聞く ウォーク旅のススメ

生兵法はけがのもとだし、ウォークをなめてかかると痛い目に遭うことも。五街道を何度も往復した経験を持つ「ウォークの達人」八木牧夫さんに、ウォーク旅の心得を聞いた。

忠敬という人は、当時の最先端の装備で旅をしたと推測できます。なぜなら重い測量器材を運ぶわけですから、自分の装備は徹底的に軽量化したでしょうし、わらじなどにも歩きやすい工夫を施したはず。忠敬は間違いなく江戸時代の「旅の達人」です。

翻って我々現代のウォーカーも旅装はゴアテックスなど最先端のものを選びますし、最適なシューズには徹底的にこだわります。忠敬の時代からウォーク旅の基本は変わっていないのです。

もし私が伊能ウォークにトライするなら、第1次測量の蝦夷地を歩きたい。当時ほぼ未踏の地ともいえた蝦夷地に向かう忠敬の心理を想像すると、何ともいえないロマンを感じます。富岡八幡宮に参拝するところから、きっちり忠敬の足跡をトレースしたいですね。

ただ江戸時代の人に比べて圧倒的に普段の歩行距離が短い現代人に、いきなり1日40㎞のウォーク旅はオススメできません。ヒザなどにダメージを受けます。旅のセットアップは10㎞程度の1デイウォークから始めましょう。

近場の忠敬ゆかりの地を訪ねるような小さな伊能ウォークを何回か続けるうちに1日に歩ける距離が延びて、翌日に残る疲れや痛みが小さくなっている自分に気づくはずです。

五街道を歩く私の場合は、街道をフィールドだと思って時速6㎞ほどの速歩でビュンと歩きます。これは私なりのウォーク旅との向き合い方。皆さんも自分に合った旅のスタイルを見つけてください。(談)

Information

伊能忠敬記念館

伊能忠敬のことをもっと知りたい。

伊能忠敬記念館
忠敬が17歳から50歳まで暮らした千葉県香取市佐原にある記念館。第4次測量までをまとめた東日本の沿海地大図や測量旅で使用したさまざまな器材をはじめ、所蔵されている伊能忠敬関係資料2,345点はすべて国宝に指定されている。

住所:千葉県香取市佐原イ1722−1
HP:https://www.city.katori.lg.jp/sightseeing/museum/

profile

八木牧夫

やぎ・まきお/五街道ウォーク事務局代表。20年ほど前、スポーツとしてのウォーキングに出会いその楽しさに開眼、気づけば街道ウォークのスペシャリストに。著書に『五街道ウォークのすすめ』などがある。

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