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【黒柳徹子】ピアニストのフジコ・ヘミングさんは、オリジナルの生き方を貫いた、唯一無二の存在

  • 2024.7.9
黒柳徹子さん
©Kazuyoshi Shimomura

私が出会った美しい人

【第27回】ピアニスト フジコ・ヘミングさん

大好きなお友達が、またこの世を去ってしまいました。ピアニストのフジコ・ヘミングさん。「魂のピアニスト」と呼ばれるフジコさんは、抒情豊かな演奏はもちろんのこと、波乱に満ちた人生、いろんな時代や文化をミックスさせたようなおしゃれのセンス、画家としての腕前、世界のあちこちを旅しながら暮らすライフスタイルなど、誰にも邪魔することのできない、オリジナルの生き方を貫いた、唯一無二の存在でした。

最初に「徹子の部屋」でお目にかかって以来、すっかり意気投合してしまったのは、フジコさんと私に共通点が多かったこともあったと思います。どちらも、家族に芸術家がいて、ミッション系の学校で教育を受けて、戦争中は一日大豆15粒だけで過ごしたことがあること、レースやリボンのような、人間の手仕事が感じられる装飾品が好きなこと、動物が好きなこと……等々。「徹子の部屋」でも、グレーのレース編みの手袋がとてもエレガントだったので、「それは、指を冷やさないため?」と伺ったら、「ううん、私は指が太くて手がきれいじゃないから」と。でも、よく見るとフジコさんの手はとてもふっくらしていて、がっしりとしながらも長い指はとても柔らかそうで温かそうで、ずーっと見ていても飽きないぐらいいろんな表情がありました。フジコさんのいう「きれいじゃない」は「不恰好」という意味だったと思うけれど、私は、フジコさんの手をとてもきれいだと思いました。演奏のときに指に魂を宿らせる、本物のピアニストの手だなぁ、って。

フジコさんから「コンサートに来て」と誘われたのは、2004年の大阪城ホールです。そのとき集まったお客様はなんと1万2500人! 1万人以上の会場でのクラシックピアノの演奏会は、当時前代未聞のことでした。「コンサートの収益を、世界中の助けを必要としている子どもたちのために、ユニセフに寄付したいの。徹子さんに直接渡したいから」というのが私を大阪に誘ってくださった理由でした。私が、「生活費はとっておいてね」と言っても、「猫たちの餌代があればなんとかなるわ」なんて、欲がないんです。下北沢のご自宅には、よく遊びに行きました。3階のサロンには、グランドピアノが2台あって、フジコさんが旅先で見つけてきたちょっとした小物やお皿、自分で描いた絵、家族の写真とか、すべてが自分の好きなもので埋め尽くされていて、その部屋のいたるところで猫がくつろいでいます。そうそう、私と大きく違うところが一つありました! フジコさんは菜食主義者なのです。フジコさんのお部屋でおしゃべりしているとき、よく私たちは、フジコさんの好物のポテトサラダを食べたのですが、ポテトサラダに入っているハムを選り分けて食べるのは私の担当でした。

私が、フジコさんから伺ったエピソードで、野際陽子さんの泥棒に入られたエピソードと同じぐらい好きなのが、フジコさんがドイツで精神病院に連れて行かれたときのお話です。フジコさんがドイツに住んでいたとき、遠くの街までコンサートを聴きにいった帰り道、ザンザン降りの雨の中、飼い犬のアンバを乗せてオンボロの車を走らせていたフジコさんは、大型トラックに後ろから煽られて、道で立ち往生してしまったそうです。そうしたら、今度は別の車に乗っていた男たちがフジコさんを車から引きずり下ろして、アンバとは別々の車に乗せられてしまったのでした。男たちはポリスだったのです。フジコさんが連れて行かれたのは、精神病院でした。

病院では、女医さんにいろんな質問をされ、身分証明書を持っていなかったフジコさんは、ポケットにあった小さな新聞の切り抜きを見せます。そこには、その週に南ドイツの放送局で放送されるフジコさんの名前と曲目が書いてあって、女医さんは、ポリスがフジコさんに不当な扱いをしたことを理解したけれど、「夜も遅いし、今晩はここに泊まっていってもらいます」と言いました。フジコさんが泊まることになった部屋には軽症の患者さんたちがいて、その部屋の隅にはピアノがありました。フジコさんが夜通しシューベルトやショパンを弾くと、患者さんたちは黙って聴いていて、中には涙をこぼす人もいたそうです。

フジコさんは、『フジコ・ヘミング 魂のピアニスト』という本の中で、「心の清らかな人々が自分の演奏を受け入れてくれる」と書いています。今頃はきっと、心の清らかな人たちの前で魂を込めて、そして誰よりも自由な心で、ピアノを弾いていることでしょう。

フジコ・ヘミングさん

ピアニスト

フジコ・ヘミングさん

ピアニスト大月投網子とロシア系スウェーデン人の画家・建築家ジョスタ・ゲオルギー・ヘミングの間に、ベルリンで生まれる。5歳で日本に帰国。青山学院高等部在学中に、コンサートデビュー。東京藝術大学を卒業後、ドイツに留学。ウィーンでの演奏会の直前に、風邪を拗らせたことが原因で両耳の聴力を失う。1995年、母の死をきっかけに帰国。’99年、NHKのドキュメンタリー番組で注目され、デビューアルバム『奇蹟のカンパネラ』はクラシックとしては異例の200万枚を超える大ヒットとなった。’24年4月21日、膵臓癌のため死去。享年92。

─ 今月の審美言 ─

「フジコさんの手をとてもきれいだと思いました。演奏のときに指に魂を宿らせる、本物のピアニストの手だなぁ、って

取材・文/菊地陽子 写真提供/時事通信フォト

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