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元彼が忘れられない。思い出の場所で感傷的になった37歳女は思わず勢いで…

  • 2024.7.3
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東京に点在する、いくつものバー。

そこはお酒を楽しむ場にとどまらず、都会で目まぐるしい日々をすごす人々にとっての、止まり木のような場所だ。

どんなバーにも共通しているのは、そこには人々のドラマがあるということ。

カクテルの数ほどある喜怒哀楽のドラマを、グラスに満たしてお届けします──。

▶前回:損保勤務の28歳独身男がNY駐在に。現地でハーフの彼女ができて、夢中になった結果…

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Vol.6 <シャーリーテンプル> リサ・ミヤタ(37)の場合


搭乗後の機体の点検による遅延で、リサの乗るJFK−HND便が到着したのは日本時間の21時を回っていた。

「Aww、my back hurts…」

長時間のフライトで疲弊した体。着陸した飛行機の窓にへばりつく水滴。

2年ぶりに訪れる東京が梅雨のシーズンであることに、リサはわずかに心を沈ませた。

けれど、弱音は吐いていられない。

今回の来日は、日本とアメリカのハーフであるリサにとっての親戚参りではなく、自身の代表出演作であるミュージカルの日本公演のためなのだ。

舞台女優らしく背筋を伸ばしながら飛行機を降りたリサは、またしても長い待ち時間に耐えながらスーツケースを受け取る。

タクシーに乗り、品川のハイクラスホテルのベッドに倒れ込んだ時には、時刻はすでに23時。

明後日から始まる稽古のことを考えれば、早くシャワーを浴びて眠りにつくべきなのはわかっているが、あまりの疲れのためにリサはベッドに身を横たえたまましばらく動くことができなかった。

― ああ、疲れたぁ。

疲れ切った体をすぐにも休ませたかったが、どうにも目が冴えて眠れない。リサは何気なく、目についたベッドサイドのインフォメーションブックをパラパラとめくった。

するとふと、思いがけない情報が目に飛び込んでくる。

― あれ?こんな時間でも、まだバーはオープンしてるんだ。

周囲に公言したことはないが、リサはバーが苦手だ。

もともとあまりお酒が得意ではない、というのも理由の一つではある。

けれどそれだけではなく、舞台女優として駆け出しの頃に起きた、ある辛い経験を思い出してしまうからなのだった。

と、自覚しているものの、体と心がいつも同じ方向を向いているとは限らない。

― でも、なんか少しお腹に入れたいな…。

口に合わなかった機内食をスキップしてしまったせいで、とっぷりと夜も更けた今、リサの胃袋は声高に空腹を訴えていた。

日本に着いたら久しぶりに本物のラーメンを食べるのを楽しみにしてはいたが、流石にこの時間のラーメンは、体が資本の女優としては気が引ける。

― 仕方ない。このまま我慢してても、寝られそうにもないもんね。

そう割り切ったリサは、スマホで一通だけメッセージを送ると、思い切ってベッドから起き上がる。

そして、ソワソワと浮き足立ちながらも、ホテル最上階のバーに向かって歩き出すのだった。

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「わあ、綺麗…」

リサが通されたカウンター席からは、ガラス壁いっぱいに広がる東京の夜景が見渡せた。

まるで、バケツいっぱいのダイヤモンドを、あたり一面に撒き散らしたような煌めき。

でも、その煌めきを見てリサの心に湧き起こるのは、美しさに対する感動ではなかった。

― この中に、ヒデがいるのかな。

ヒデ。「恋人」と呼んでいいのかもわからない曖昧な関係だったけれど、本当に大好きだった人。

そして…心から愛していたのに、ひどい裏切りで失ってしまった人。

東京の夜景を目にして感動の代わりにリサを襲うのは、ヒデに対する、胸を締め付けるような悲しみと罪悪感だ。

「ご注文は?」

沈鬱な表情を浮かべるリサに、若いバーテンダーがオーダーを尋ねる。

ハッと我に返ったリサは、軽食のナッツとスモークサーモンを頼んだあと、少し言い淀みながら口を開いた。

「シャーリーテンプル…」

「はい、シャーリーテンプルですね」

けれど、次の瞬間。リサは、自分の中の闇から目を逸らしきることができずに、その注文を取り消す。

「ごめんなさい、やっぱりシャーリーテンプルじゃなくて…」

「はい、ではなくて?」

「ダーティーシャーリーって、できますか…?」

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「かしこまりました」という快い返事のあと、時間を置かずにバーテンダーが差し出したのは、キュートなピンク色をした、ジュースのように可愛らしいロングカクテルだ。

ダーティーシャーリー。見た目は全く、シャーリーテンプルと変わらない。

けれど、グレナデンシロップとジンジャーエールをステアしたノンアルコールカクテルであるシャーリーテンプルとは違い、ダーティーシャーリーにはウォッカが入っている。

しばらくその可憐なピンク色の美しさを眺めたあと、リサはグラスを小さく傾ける。

口に広がるジンジャーエールのフレッシュな爽やかと、グレナデンシロップの甘さ。

そして───その眩いばかりの無垢さを、ウォッカの苦味が鋭く刺し貫く。

― やっぱり今の私には、シャーリーテンプルじゃなくてこれがお似合いだわ。

一口、また一口と飲み進めるごとに、思い記憶の扉が徐々に開いていく。

気がつけばグラスは半分になり…。

12年前のあの苦い体験を今、リサはハッキリと思い出してしまっていた。



いつものようにヒデと会う約束をしていた、12年前のあの日。

リサがいつものバーに到着したのは、いつもよりもずっと遅い時間だった。おそらくヒデは、1時間は待たされていたことになると思う。

「ヒデ、おまたせ…」

「リサ!遅かったな」

到着した途端、ヒデはパッと顔を輝かせる。

嬉しそうにリサを見つめるその表情は、深い愛情だけではなく尊敬までもが滲んでいて、まるで尻尾を振り回す大型犬のようだ。

ヒデは、自分を愛している。キラキラした瞳で夢をみる自分を、尊敬している。

その気持ちが痛いほど感じられたリサは、ヒデの想いをまっすぐ受け止めることができずに視線を落とした。

すでに空になりかけてチェリーしか入っていない、マンハッタンのグラスに。

「今日もダンスの練習だったんだろ?いつもより随分遅くまで頑張ってたんだな、お疲れさま」

「あ…」

ヒデの労いの言葉が、刃物のようにリサの心を引き裂く。

それもそのはずだ。この日リサが向かったのはダンスのレッスンではなく、全く別の場所だったのだから。

アメリカの、しかもニューヨークで、「女優になりたい」と考える女の子は、一体何人いるのだろう?

何千、いや。何万人かもしれない。だけど、夢を叶えられるのはわずかひと握り。ブロードウェイで女優として成功を収めるというのは、多くの女優志望者たちにとって文字通り“夢のまた夢”だ。

そんななかで…。

有力な舞台プロデューサーからの求愛を断れる女優の卵なんて、果たして存在するだろうか?

ましてやリサは、半分日本人なのだ。どれだけ努力をしても、どれだけ強がってみせても、エキゾチックなルックスとアジアにルーツを持つリサが成功するのは奇跡と言っていい。

― 私、次の舞台こそ、どんなことをしてでも絶対受かってみせるって決めてるんだから…。

ついこの前のヒデとのデートで、そう宣言した自分自身の声が、何度も頭の中に響き渡った。

だからリサは、黒い誘惑の形をした求愛を受け止め───。

たった今、プロデューサーと結ばれてきたのだった。

― やめて、ヒデ。そんな目で見ないで。私はもう、すっかり汚れてしまった。

見た目には全く同じに見えても、もう自分はヒデの知っているリサではない。

そう思うと、とてもこれまで通りにシャーリーテンプルを注文する気にはなれなかった。

ノンアルコールのカクテルで練習に励む自分自身すらも、手ひどく裏切ったのだから。

ヒデの「一緒に日本に帰ろう」というプロポーズに応える言葉を持たなかったリサは、結局、無言のまま大粒の涙を流して、いつものバーを後にした。

それ以来、シャーリーテンプルはもちろん、バーからは足が遠のき気味だ。

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たった一杯のダーティーシャーリーで、思いのほか酔いが回ったらしい。

― あ〜。私ってほんと、汚い女…。

12年前の傷はまるで昨日のことのように痛みを伴い、リサの目からはまた、あの時と同じ大きな涙がこぼれそうになる。

けれど、その時。

ばん!と大きな衝撃を肩に感じてリサは飛び上がった。

「oh my…!」

「やーっと見つけた、リサ。飲めないくせになにこんなところ来てんの」

バクバクと飛び跳ねる心臓を抑えながら振り返ると、そこに立っていたのはテオだ。

少し長い栗色の髪に、がっしりとした長身。リサと同じくスペインと日本のハーフで、アメリカで芽を出しはじめている俳優だ。

端役ではあるものの、この度の舞台の共演者であり…何よりもリサにとっては、10歳も年下の恋人でもあった。

「ちょっと、びっくりさせないでよテオ」

「こっちのセリフだよ。メッセージで送られてきた部屋に行ってもいないし。

え?てか何、リサ酒飲んでんの?初めて見たけど」

「たまには飲むよ。だって…私ってサイテーなんだもん」

若干呂律の回らない状態でそうぼやくと、テオは何かを察したようにしばらく天を見上げ、呆れたように首元に手を当てる。

そして、心底つまらなそうにボソリと言うのだった。

「あ〜、わかった。まーだあのこと引きずってんの?ほんっとリサってくだらねー…」

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「あのさぁ、すげー昔にプロデューサーと寝たこと?俺、ずっと言ってんじゃん。そういう貪欲なところ、むしろすげーカッコイイって」

「でも…」

「てか、そのプロデューサーの舞台はすぐに降りて、結局は自分で小さいシアターからのしあがったじゃん。今成功してるのは、リサの実力だろ」

「だけど…」

じっと黙り込むリサの隣に、テオはドスンと腰を下ろす。かと思うと、鬱陶しそうにくしゃくしゃと髪をかき乱しながら吐き捨てた。

「あーもう、いいんだよ!全部知ってるうえで、そういうリサが俺は好きなんだから。

とにかく、飲めない酒なんて飲むなよダサいな…。リサにはさ、これがお似合いだわ」

そう言ってテオが手早くバーテンダーに注文したのは…なんと、シャーリーテンプルだった。

ウォッカの入っていない、ノンアルコールのシャーリーテンプル。

リサにとっての、無垢と努力の象徴。

「…これ、シャーリーテンプル?ノンアルコールの?」

「そうだよ」

「これが、私に似合う?」

「そうだよ。飲めないんだから」

「こんなに可愛くて綺麗なカクテルが?」

「なにが?リサは綺麗だろ。だし、ほら。今日のパンツもピンクだし」

若干のイラつきさえ滲ませながら、テオは怪訝な顔でリサを見つめる。

その途端にリサの胸からは不思議と、12年前の痛みが跡形もなくスッと消えていくのだった。

「服がピンクだからって、そんな単純な…。テオ、You are sooo funny」

10歳も年下の恋人というのは、こうまでも感覚が違うものなのだろうか。

バカバカしいほどの若者ぶりに清々しさすら感じたリサは、フライト用に着ていたピンク色のスウェットをさすりながらしばらく笑い転げる。

― ああ、私…。テオの前でなら、汚れたことなんてないみたいに笑っていられる。

笑いすぎて乱れた呼吸を整えたリサは、もうヒデのことなど考えなかった。

過去に犯した過ちのことも考えず、テオの言葉のように頭を空っぽにして、差し出されたシャーリーテンプルにただ口をつける。

そして、1滴の苦味もない甘さに浸りながら、ハッキリと言葉で伝えた。

「テオ、I love you。I love you, more than anything!」


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