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本当に“水季のせい”なのか?月9ドラマ『海のはじまり』が提示する本質的なメッセージ

  • 2024.9.19

月9『海のはじまり』主人公・月岡夏(目黒蓮)に同情の声が絶えない。大学時代の恋人・南雲水季(古川琴音)が娘・海(泉谷星奈)を産んでいたことを知った夏が、父になるべく試行錯誤する物語だが、最終回直前の第11話を観た視聴者からは「さすがに夏が可哀想すぎる」「最終回どうなるの?」といった声が挙がっている。

主人公・夏が「さすがに可哀想すぎる」?

娘・海との二人暮らしをスタートさせた夏。仕事をしながら、限られた時間で海と向き合おうとする姿に、早くも胸が詰まる。転校したばかりの学校で、新しい教師や友人と馴染もうとする海だが、下校後、夏と暮らす部屋に帰る彼女はどうしようもなく一人だ。

義父母である朱音(大竹しのぶ)や翔平(利重剛)から“奪う”形で、海と二人で暮らしていくことを選んだ夏。何事も「二人で」解決しようとする姿勢は、彼なりの“責任”の取り方なのか、それとも。予期せず降ってきたような状況に、夏は精一杯、尽くしているように思える。しかし、周囲からの風当たりは思った以上に強い。

とりわけ厳しく響いたのは、水季の元同僚・津野晴明(池松壮亮)の言葉だ。下校した海が、おそらく寂しさに耐えかね、一人で津野のいる図書館へ向かった。そのとき、津野から夏へ投げかけられた言葉。「南雲さんがいたときもいなくなったときも、お前いなかったもんな」は、一際、夏の心を突き刺したように見える。

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(C)SANKEI

夏の視点からこの物語を見ていると、あまりにも彼の立場がない。別れたと思っていた恋人が、子どもを産んでいた。妊娠したことと向き合い、手術をする日もギリギリまで付き添った。水季の思いとは相反し、夏は彼女と結婚して親になり、家族となる道を当たり前のように想定していただろう。すべては、水季の意思と選択によって閉ざされた道のように思える。

海がいるとわかったあとも、夏は突然あらわれた7歳の娘と向き合い、義父母と話をし、どれだけ理不尽な言葉をかけられようと、“父”としての責任を果たすべく恋人とも別れ、シングルファザーとなる道に舵を切った。彼に味方がいないわけではない。別れた恋人・百瀬弥生(有村架純)も、月岡家の人々も、夏と海の生活を支えてくれるだろう。夏が、彼らのことを上手く頼れたら、の話だが。

被害者・加害者をつくらない視点

SNS上では、このドラマ『海のはじまり』、とりわけ主人公・夏に対して情けをかける言及が多く見られる。有り体に言ってしまえば、水季がした決断と行動によって、夏は割を食っているとも捉えられるからだ。

この物語の解釈として、忘れてはならないのは“被害者”や“加害者”をつくらない、という視点だ。

ドラマや映画、小説などの創作物に触れるとき、鑑賞者はどうしても「主人公」に感情移入するものだろう。場合によっては例外もあるが、多くは主人公の立場に自分を重ね、主人公の目や耳で物を見聞きする。『海のはじまり』になぞらえれば、鑑賞者は主人公・夏の視点で物事を捉える。

病気で亡くなってしまった元恋人。突然あらわれた7歳の娘。父親となる責任。すべてを背負って必死に向き合っているはずなのに、いま起こっていることはすべて自分のせいだと、責められているような感覚。

思わず、夏は悪くない、と思ってしまうが、彼は決して被害者ではない。そして、水季も加害者ではない。結果には原因がある、と人は考えてしまいがちで、こうなった現状は水季に所以がある、と思いたくなる鑑賞者の心理を、きっとドラマの作り手側は心得ている。

そのうえで、被害者や加害者をつくり非難する姿勢ではなく、目の前にあることに対しフラットに向き合う視点が、大切な人の心に寄り添うことに繋がる、というメッセージが根源にある気がしてならない。

鑑賞者がこぞって夏をかばい、朱音や津野の言動を非難すればするほど、置いてきぼりにされてしまうものがある。水季と夏の子どもである、海の心だ。夏と二人暮らしになったことで、より母の喪失を実感している彼女の心こそ尊重され得るもの。そして、あらためて海の視点からこの物語を眺めてみることで、このドラマが提示したい本質的なメッセージを受け取ることができるだろう。



フジテレビ系 月9ドラマ『海のはじまり』毎週月曜よる9時

ライター:北村有(Kitamura Yuu)
主にドラマや映画のレビュー、役者や監督インタビュー、書評コラムなどを担当するライター。可処分時間はドラマや映画鑑賞、読書に割いている。X(旧Twitter):@yuu_uu_