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性器を「セクス」と表現する、大江健三郎。初期作品『飼育』に描かれる笑いとは?/斉藤紳士のガチ文学レビュー

  • 2024.7.1
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日本を代表する作家の一人、ノーベル文学賞受賞作家の大江健三郎の代表作を紹介します。 今回紹介する『飼育』は大江健三郎の初期の作品になります。 大江健三郎はデビュー当時からその独特の洗練された文章で戦中や戦後の日本人の精神性にスポットを当てた作品を書いてきました。 この『飼育』では、戦時中のとある山村を舞台に日本社会特有の「暗部」を描いています。 まずは、どんなお話か、あらすじを紹介します。

《町》の人々から嫌われている山村に、父と弟と住んでいる僕が森で遊んでいる時、米軍の飛行機が飛来するのを目撃する。 夜明け近く、激しい地鳴りと凄まじい衝撃音で目が覚める。敵兵の飛行機が山に墜落したのだった。 そうして、黒人兵が捕虜として連れて来られ、僕の家に軟禁されることになる。 食事を与えたり、微かな交流などを通じて僕は黒人兵との距離が縮まるのを感じていく。 そんなある日、大人たちの会議が開かれ黒人兵を県に引き渡すことになる。 黒人兵を引き渡したらその後村に何が残るだろう、と僕は思い、兵が軟禁されている部屋に向かう。 すると黒人兵は僕を強い力で押さえつけ、僕を人質にとるのだった。 僕はあらゆるものに敵意を感じながら、充実した無感覚へ落ちこもうとしていた。 すると、大人たちの塊りの中から父が鉈をさげて歩み出る。僕は鉈が振りかぶられるのを見て眼をつむった。 結局、黒人兵は殺され、僕は解放されることになる。 その後、書記と呼ばれる《町》と村のパイプ役のような人間の義肢を抱えて草原の傾斜を駆け下りる。義肢を外したまま橇に乗った書記はそのまま亡くなってしまう。

あらすじはざっとこんな感じなのだが、この小説を読んでいくつかの疑問を抱く人もいると思う。

まずは小説の舞台はどこなのか? ということ。 そして、主人公の少年の母親はどこにいるのか? という疑問だろう。

まず「小説の舞台はどこなのか」についてだが、おそらく特定の地域に設定してしまうと、作品の主題にややズレが生じてしまうのではないか、と思い、あえて隠したのだろう。 安部公房も、小説の舞台は匿名性を持たした方が物語としての強度が上がる、と何かで言っていたが、まさにその効果が出ているのだと思う。 そして、母親の不在についてだが、これはこの作品のテーマと深く関係していると僕は考える。 この物語は「隔絶」についての物語だ。 物語の序盤で「僕」は戦争についてこう表現している。

戦争は、僕らにとって、村の若者たちの不在、時どき郵便配達夫が届けて来る戦死の通知ということにすぎなかった。戦争は硬い表皮と厚い果肉に浸透しなかった。最近になって村の上空を通過し始めた《敵》の飛行機も僕らには珍らしい鳥の一種にすぎないのだった。ダ・ヴィンチWeb

「僕」にとっての戦争は実際の戦争の姿とは大きな隔たりがあった。 また、この小説では《敵》というような《》つきの記述は明確な隔たりのあるものに対して使われている。 《町》もそのひとつで、村との隔たりを浮き彫りにするし、《獲物》と呼ばれていた捕虜が日を追うごとに黒人兵と呼ばれるようになる。 ある対象物との距離感もこのような表記の変化で感じとることができる。

ここで話を母親の不在に戻すと、この小説の核である「飼育」という行為と「母性」というものの相性があまりに良くないのではないか、ということ。 「飼育」という飼育される者と飼育する者との距離感と、母親と子供との距離感は全く異なるものである。 地名を匿名にする手法と同じく、物語の普遍性だけを浮き彫りにするための母親の不在なのではないか、と推測することができるのだ。

ここまできて、大江健三郎のユーモアについては何も言及していませんが、実はこのあたりのいわば変態的な、小説やエクリチュールに対するこだわりこそが大江健三郎の面白い部分なのではないか、と思っています。 何かを過剰にすることによって起こる笑いがありますが、大江健三郎からはその種類の面白さを感じてしまいます。 中後期からは『同時代ゲーム』のような荒唐無稽なぶっ飛んだ作品もありますが、初期の頃はあまりそういった作品は書いていません。 初期の作品では「異様ともとれる性に対する執着」というのがひとつの笑えるポイントだと思います。 例えば、いわゆる性器を「セクス」と表現するのですが、初期の作品ではこの「セクス」を口癖のように頻発しています。 一見、性的な描写とは無縁と思われる本作でも「セクス」は登場します。

泉では、最も広くてなめらかな台石の上に寝そべった裸の兎唇が、女の子供たちに、彼の薔薇色のセクスを小さな人形のように可愛がらせていた。ダ・ヴィンチWeb

「薔薇色のセクス」てどんなんやねん、と言いたくなりますが、一見ユーモアと無縁のように思われる大江健三郎の唯一のツッコミどころがこの性への執着と文章への変態的なこだわりのような気がします。

この「飼育」、《町》とのパイプ役であった書記の突然の死で話は終わるのですが、主人公は「僕はもう子供ではない」と悟ります。 そのことに関しては色々な解釈がなされていますが、僕はそれはある種の諦観なのだと思っています。 隔絶していたものが隔たりを解消し、近づけばより良い状況になるのか? と言えばそんなことはありません。 距離が近いからこそ、戦争が起こり差別が生まれます。 遠くにあった戦争が黒人兵に捕まった瞬間、一気に目の前に現れた。 その実感こそが信用できるものだと少年は理解できたからこそ「もう子供ではない」と悟れたのだと思います。

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