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「意識高いですね!」と言われてモヤる──これって褒め言葉? 意識が高い/低いってなんだろう【TAIRAのノンバイナリーな世界 vol.1】

  • 2024.7.1

Tairaの臨床モデル学 / Taira's Gender Studiesで、モデルの視点から社会を多角的に考察してきたTairaによる新連載「TAIRAノンバイナリーな世界」では、日頃から何気なく成り立っている身の回りの「組み分け」にスポットライトを当てる。

曖昧なことやラベルを持たないことに苦手や不安を抱き、なにかと白黒つけたがる世の中。だけど、こんなにも多彩な個性や価値観が共生する世界を、ゼロか100かで測れるのか。普段の生活でなんとなく活用される「組み分け」だけれど、それらを仕分ける定規を改めて観察してみると、そこには新しい世界や価値観が広がっているはず。

モデルでライターのTairaが物事の二項対立的(バイナリー)な見方を取り払い、さまざまなトピックを「ノンバイナリー」に捉え直していく。

vol.1 意識高い / 意識低い

Q1. “意識高い”って何だろう?

個人的に耳にすると、なんだかスッキリしない気持ちにさせられる言葉のひとつかも。必ずしも“悪口”として捉えられてはいないと思うけれど、自分がもし「意識高いですね!」と言われたら、正直快くは感じないかな。“意識が高い”状態って本来よいことであるはずなのに、今日巷で使われるコンテクストには、若干トゲトゲしさや毒々しさが漂っているように感じるのは自分だけかな?

一般的に、「意識が高い」という言葉は、美容や健康に気を遣っていたり、社会・環境問題への関心が高かったり、自身の将来や社会福祉の向上を目指した活動に打ち込んでいる個人に対して使われる場面が多いと思う。そんな姿勢はポジティブなものとして後押しされてもいいはずなのに、周りから「意識が高いね」とわざわざ伝えられることによって、言われた本人は逆に意欲を削がれてしまうというか、発言者から壁を作られてしまっているように受け取ってしまうケースも少なくないのでは。きっと褒め言葉として用いている人もいるかもしれないけれど、自分にとっては若干のdisり言葉に聞こえてしまうかなあ......。

Q2. “意識低い”って何だろう?

逐語的な対義語ではあるけれど、会話の中で「意識が低いね」という言葉が使われるコンテクストって、「意識が高い」が用いられる文脈とはまた少し性質が異なるように思う。“意識高い系”との比較で自虐的に使用されたり、主に自嘲の文脈で用いられるケースは思いつくけれど、他者にジョーク以外で「意識が低いですね」と声をかけるのは、上司から部下への指導目的といった場面以外にあまり思いつかない。

また、表面上は“褒め言葉”としても使われ得る「意識が高い」とは違って、「意識が低い」ことがポジティブな意味合いで指摘される局面は考え難い。だから他者から「意識が低い」と言われてムッとするのは筋が通るけれど、その対義語であるはずの「意識が高い」ことを“褒められた”ときにさえ、何となくうれしく受け取ることが難しいのはどうしてだろう?

Q3. “意識高い”と“意識低い”はどうやって仕分けられてるの?

意識が「高い」も「低い」も、どちらも基準となる何らかの尺度があってはじめて成り立つ概念だと思うけど、総じて社会的にどこまでが最低限“維持されるべき”努力と認識されていて、どこからが「意識が高い」(行き過ぎた)行為として線引きされているのだろう? きっとそこにははっきりとした境界線はなくて、日本の社会に根付く集団主義的な同調圧力の延長として、お互いの行動やライフスタイルを“監視”し合うために用いられている線引きな気もする。

また、「意識が高い/低い」には、ただ単にその個人の意識レベルを判断するだけでなく、彼/彼女の人間性や能力の高さをも暗にジャッジする要素が仄めかされていると思う。そんな部分が「意識高い」という言葉から何となく感じられるトゲトゲしさに繋がっているのかも。

さらにその線引きには、“意識高い判定”を受ける個人の活動それ自体だけでなく、そのアクティビティに周囲の人々が持つイメージも深く関わっているのでは。例えば、健康維持のために定期的に運動をしているとして、ジムに通うのとピラティスに通うのとでは、相手に与える印象も変わると思うし、そのイメージによって連鎖される“意識の高さレベル”も異なってくる気がする。さらにそうしたイメージの連鎖には、その個人のインターセクショナリティ(人種やジェンダー、性的指向、階級や国籍、障がいなどの属性が交差したときに起こる、差別や不利益を理解する枠組み)も大きく影響すると思う。結果として、場合によっては、その行動をとることに“ふさわしい”と判断される個人には意識が高いとレッテルが貼られず、逆にそうでなければ、「意識高いですね」の言葉に「あなたがそこで頑張っても......」というニュアンスが見え隠れするなんてこともあるのかも?

Q4. そんな組み分けは必要?

必要か必要ないかで言えば必要ないと思うし、たとえその個人の意識が高かろうと低かろうと、そもそもわざわざ周りが指摘することではないと思う。でも、多種多様な個人が交差して暮らす今日の社会ではさまざまな摩擦が起こってしまうのが世の性だし、絶え間なくあふれてくる情報の中で、周りと自分を比べてしまうこともあると思う。自分より上手くいっている(ように見える)個人や、能力や人間性が優れている(ように感じる)人に出会うと、感銘を受けると同時に、自分自身の現状とのコントラストで若干劣等感を感じたり、やるせなさを覚えることもあるかもしれない。

そんな苦々しい気持ちから沸き立つ自己批判の気持ちに対する自己防衛から、多少の毒々しさなどが上乗せされた結果として、「意識高いね」とわざわざ言葉にして発せられるケースもある気がする。悪口として使われてはいないものの、若干の嫌味の色が感じられることがあるのは、そんな側面があるからかも。

Q5. もしその組み分けがなかったら?

組み分けがなければ、意識が高い/低いにもグラデーションがあることに気がつけるかも。そして「意識が高い」と同じように、表面上は悪口ではないものの、何となく嫌味の気持ちを込めて使われている言葉ってほかにも色々とある気がする。今回の考察を通して感じたけれど、表面上は誠実なように聞こえて、実は間接的に若干のトゲトゲしさが込められている言葉や態度って、すごく日本社会に根付いた感覚というか......それはもしかすると、集団主義を尊ぶ日本の社会に蔓延った、“平均”よりも行きすぎているものには同調圧力が働きがちな性質とも深く関わっているのかもしれないなと感じた。

何はともあれ、もし周りに(トゲトゲしさが見え隠れする形で)「意識が高い」と言われることがあっても、そんなライフスタイルや価値観が自分にとってプラスになっているのであれば、もう褒め言葉として受け止めちゃえばいっか。

Photo: Courtesy of Taira Text: Taira Editor: Nanami Kobayashi

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