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浪人の実態!江戸時代のフリーランス生活を解説

  • 2024.6.30
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宇田川国芳の「忠臣蔵十一段夜討之図」、家を取り潰された場合家臣たちは浪人になるので時として赤穂事件のようなことも起こりうる
宇田川国芳の「忠臣蔵十一段夜討之図」、家を取り潰された場合家臣たちは浪人になるので時として赤穂事件のようなことも起こりうる / credit:Wikipedia

江戸時代は武士の世であり、中にはどこの大名にも使えていない浪人という存在もいました。

この浪人は時代劇などで取り上げられることもしばしばありましたが、実態は私たちが想像しているものとかなり異なっていたようです。

果たして浪人は実際はどのようなものだったのでしょうか? また浪人はどのように扱われていたのでしょうか?

本記事では浪人の実態について取り上げていきます。

なおこの研究は、駒沢史学79に詳細が書かれています。

目次

  • 現在のフリーランスに近かった浪人
  • 意外とあった武士の転職

現在のフリーランスに近かった浪人

宮本武蔵、長年浪人を続けていた彼だが56歳の時に熊本藩に客分として招かれた
宮本武蔵、長年浪人を続けていた彼だが56歳の時に熊本藩に客分として招かれた / credit:Wikipedia

一般的に浪人は「主君に仕えていない武士」を指すイメージがあり、時代劇などでは「お尋ね者」や「さすらいの旅をしている武士」といった役割で登場することが多くあります。

江戸時代の浪人は武士としての公的な身分こそ失っていたものの、名字帯刀が許されているなど、世間一般からは武士として扱われていました

その日常生活は後述するような例外を除けば一般の町人と同じであり、手工業や日雇い労働で日銭を稼いでいたのです。

そんな浪人ですが、他の武士から浪人であるという理由だけで軽視されていたわけではありません。

例えば弘前藩(現在の青森県西部)では、家来が「武芸の修業がしたい」と届け出をした書物が残っており、そのときに家来が修業をつけてもらう予定の師匠についても書かれています。

その多くは他の藩に仕えている武士のもとで修業をすると申告しましたが、中には浪人中の人物の元で修業をする予定であると申告したものもおり、それに対して特段変わったことであると捉えられていた訳ではありません。

このように浪人が武芸の師匠として身を立てていることは決して珍しいことではなく、中には宮本武蔵のように多くの弟子を抱えた道場主になったものもいます。

こうした一流の武芸の師匠の中には、「制約の多い藩に仕えるよりも、あえて浪人のままでいた方が活躍の幅が広がる」といって藩からのスカウトを断り続けてフリーランスで活動を続けているものさえいたのです。

また、「主君に仕えていない武士」ではない概念で「浪人」という言葉が使われていたこともしばしばみられました。

例えば「浪人医師」「浪人儒者」が藩邸を訪れたという記述もあり、当時の武士は「仕え先のいない専門職」くらいのカジュアルな感覚で浪人という言葉を使っていたことが窺えます。

江戸時代の医師や儒者は大名に仕えている場合は武士の身分が与えられたため、「主君に仕えていない武士」と捉えられなくもないですが、それでも後世の私たちが想像する「一匹狼の用心棒」みたいな浪人像とは大きく異なっていたようです。

意外とあった武士の転職

宇田川国芳の「忠臣蔵十一段夜討之図」、家を取り潰された場合家臣たちは浪人になるので時として赤穂事件のようなことも起こりうる
宇田川国芳の「忠臣蔵十一段夜討之図」、家を取り潰された場合家臣たちは浪人になるので時として赤穂事件のようなことも起こりうる / credit:Wikipedia

このように江戸時代の浪人は多種多様な種類がありますが、もちろん私たちが普段イメージしている「主君に仕えていない武士」という浪人も多くいました。

武士が浪人になってしまった経緯は様々なものがありますが、主なものは「仕えていた大名が取り潰されてしまった」「藩内でトラブルがあった」の2つです。

特に江戸幕府の初期は幕府が幕令違反や後継者断絶を理由に大名を積極的に取り潰す政策を取っていたこともあり、浪人は断続的に増えていきました。

「たとえ大名を潰したとしても、その土地を次に治める人物が人手不足を理由にまとまった数を雇ってくれるのではないか」と考える人もいるかもしれませんが、当時は戦国の世が明けてすぐであったこともあり武士の数に対して仕事の数が圧倒的に足りていなかったため、一部の優秀な武士や例外を除いて、再就職をすることは容易ではありませんでした。

それでも一度浪人になってしまったら特別なスキルがない限り這い上がるのが不可能だったわけではなく、親族や知人を通して他の藩に仕えることはありました。

弘前藩の記述にも、家臣の親族が浪人である場合、その面倒を見ることが社会的に認められていたことが記されています。

さらに浪人との間で養子縁組や婚姻が行われることも、しばしばありました。これにより浪人が家を継ぐことを通して、他の藩に仕えるということもあったのです。

このように浪人という存在は、単に主君を持たない武士というだけでなく、社会的に多様な役割を果たしていました。

また浪人が他家に仕えるというのも容易ではないものの不可能ではなく、浪人となったからといって武士の社会から完全に追放されたわけではないことが窺えます。

参考文献

駒澤大学 学術機関リポジトリ (komazawa-u.ac.jp)
http://repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/33188/

ライター

華盛頓: 華盛頓(はなもりとみ)です。大学では経済史や経済地理学、政治経済学などについて学んできました。本サイトでは歴史系を中心に執筆していきます。趣味は旅行全般で、神社仏閣から景勝地、博物館などを中心に観光するのが好きです。

編集者

海沼 賢: ナゾロジーのディレクションを担当。大学では電気電子工学、大学院では知識科学を専攻。科学進歩と共に分断されがちな分野間交流の場、一般の人々が科学知識とふれあう場の創出を目指しています。

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