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映画『ルックバック』徹底レビュー!「悔しみノート」の梨うまいが、時を経てより多くの人に刺さる物語となった理由を熱く語る

  • 2024.6.29
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「チェンソーマン」で知られる藤本タツキの同名漫画を、『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』(09)、『風立ちぬ』(13)などに主要スタッフとして携わった押山清高が監督、脚本、キャラクターデザインを務め劇場アニメ化した『ルックバック』(公開中)。学年新聞で4コマ漫画を連載し、クラスでもてはやされている小学4年生の藤野(河合優実)は、学年新聞に掲載された不登校の同級生、京本(吉田美月喜)の4コマ漫画の画力の高さに衝撃を受ける。そこから画力を上げるためすべてを投げうって絵を描き続ける藤野だったが、京本との差は埋まることはなく、やがて漫画を描くことを諦めてしまう…。しかし卒業の日、卒業証書を届けに行った藤野は、そこで京本から「ずっとファンだった」と告げられる。

【写真を見る】人気エッセイの著者がネタバレありで映画『ルックバック』を熱くレビュー!

今回、TBSラジオ「ジェーン・スー 生活は踊る」のお悩み相談コーナーへの投稿をきっかけに、あらゆるエンタテインメントに対する羨望にも似た “悔しい気持ち”を赤裸々に綴り、話題を呼んだエッセイ本「悔しみノート」の著者、梨うまいがコラムを寄稿!漫画「ルックバック」を読んだ時に受けた衝撃やその後の修正騒動、時を経て劇場アニメとなった本作を観て感じた当時との受け取り方の変化などについて、独自の目線で綴ってもらった。

※本記事は、ストーリーの核心に触れる記述を含みます。未見の方はご注意ください。

「ルックバック」はそこだけで語っていい漫画じゃないはずだったんだ

「ルックバック」とその関連ワードがTwitterのトレンドを賑わせた2021年7月19日。「すげえ」「圧巻」「怪作」「とにかく読んでみて!」当時のインターネットの浮かれぶりは、今思えば藤野が描いた4コマ漫画をクラスメイトがもてはやすシーンに似ている。私も多分に漏れずネットの沸きように感化されて少年ジャンプ+のアプリを即インストールし、「ルックバック」を読み、「ねえアレ見た!?」と評論家気取りでこの作品がいかにすごいかを美容院のお姉さんにベラベラ喋りまくった。美容院のお姉さん、いつもすみません。

そのあと、一部のシーンが修正された。多くの人の目に触れたぶん、多くの議論を呼んだからだ。それが良かったとか、良くなかったとかって話がしたいんじゃなくて、修正箇所や修正に至った理由だけにスポットが当たりすぎたのがなんというか、無念だった。ワイドショーで取り上げられているのも観て、腹が立った。そこだけで語っていい作品じゃないはずだったんだ。

【写真を見る】人気エッセイの著者がネタバレありで映画『ルックバック』を熱くレビュー! [c] 藤本タツキ/集英社 [c] 2024「ルックバック」製作委員会
【写真を見る】人気エッセイの著者がネタバレありで映画『ルックバック』を熱くレビュー! [c] 藤本タツキ/集英社 [c] 2024「ルックバック」製作委員会

2024年6月28日、スクリーンで映画『ルックバック』が公開される。この文章を書いている今の私から見て、少し先の未来。これは再び議論を呼ぶだろうか?「ここは何々のオマージュで」「これはこういうミーニングで」なんていう話はあちこちでされるんだろう。だけど今、少なくとも私は、あのときよりも距離をもって冷静に、この物語そのものを受け取れた気がしている。それはきっと原作を極力そのままにアニメーションへと落とし込んだ制作の丁寧さによるものでもあり、私たちがあの日から今日まで、痛みを抱えながら過ごしてきた年月の長さがもたらすものでもある。こんなふうに受け取れるところまで、歩いてきたんだ。映画『ルックバック』の鑑賞体験は、たぶん誰にとっても自身の人生を振り返るものになる。

藤本タツキ作品といえば、一大ヒットとなり現在も連載中の「チェンソーマン」や完結済みである「ファイアパンチ」にも共通して見られる、ダークな世界観と容赦ないスプラッタ描写、一周まわって洒脱なお下劣ユーモアが中毒的魅力だ。様々な映画作品のオマージュが散見されるところも映画ファンにはたまらない。簡単に言えば、めっちゃタランティーノっぽい。その点、「ルックバック」は異なる。自分の才能に絶対の自信を持つ田舎のイキリ小学生藤野と、不登校で引きこもりの京本が出会い、漫画制作に打ち込んでいくリアルベースのストーリーで、頭からチェンソーは生えないし、生首ひとつ転がらない。しかし、現実的な話だからこそ残酷さが際立つ。悲しみが深々と刺さってなかなか抜けない。悲劇には、生まれたての赤子だろうと神様レベルの聖人だろうと意味もなく巻き込まれる。意味がないから答えもない、煮え切らないから余計に苦しい。この世の残酷さはデフォなので、文句をいう相手もいない。“この世の運営サイド”に文句言えたらいいのに。詫び石寄越せ!

現実感を一層強化している“京本の訛り”と“haruka nakamuraの楽曲”

この“現実感”はアニメーションになることで一層強化されている。元々映像作品のようなコマ運びとリアルなタッチではあったが、それを繋ぎ、無理なく動かすというのは地道で繊細な作業だったことだろう。原作のコマで切り取られた表情と表情の間、身体の動き、呼吸、ひろがった画角に入る背景全てがきちんと『ルックバック』の世界の中におさまっている。ひとつひとつ挙げたらキリが無いほど緻密に加えられた数秒ずつが“漫画”を“映画”にしていた。見事な職人技だ。

また漫画原作の映像化にあたり、最も不安視されるのが”声優”だろう。特に映像芝居をメインとしている俳優が務める場合は悪目立ちしがちだが、今作で主演を務めた河合優実と吉田美月喜の芝居はかなり良い意味でなんとも思わなかった。ここで「演技が素晴らしかった!」なんて思わせちゃあならんのだ。声優の存在さえ忘れさせてなんぼ。もっと褒めてほしいところかもしれないけどこれが最高の褒め言葉だ。なんとも思わなかった!原作にある台詞の書体、字の大きさ、フキダシの位置を汲み取って芝居をしている証拠だ。

声優の存在さえ忘れさせる圧巻の演技にも注目 [c] 藤本タツキ/集英社 [c] 2024「ルックバック」製作委員会
声優の存在さえ忘れさせる圧巻の演技にも注目 [c] 藤本タツキ/集英社 [c] 2024「ルックバック」製作委員会

そういった陰に徹するいぶし銀演出の一つが、京本の訛り。これは原作からは読み取れなかった演出である。この地味さと思い切りと的確さには舌を巻いた。今これ書きながら実際にベロをくるんとしてみましたが、顎下の筋肉を攣りました。痛いです。卒業証書を渡しに来た人物が、学年新聞で四コマを連載していたあの憧れの“藤野先生”だと分かり、部屋を飛び出して裸足で(原作ではつっかけを履いていたが、映画では裸足。これもなりふり構わず飛びだした京本の心情をさりげなく補強している)追いかけてきた京本が、たどたどしくも藤野への想いを語るシーン。ばりばりに訛っている。恐らく無自覚に訛っている。東京モンには分からんかもしれんが、田舎の引きこもりはああなるのだ。藤野をはじめ、学校のシーンでのクラスメイト達も、教師も誰ひとり訛っていない。そもそも若い世代ほど訛りは薄くなってきているし、公的な場では基本的に標準語で話すことが多い。しかし家族と話すとき、特におじいちゃんおばあちゃんと話すときには私もしっかりめに訛る。「もう暑いでエアコンつけやーよ!(もう暑いからエアコンつけなよ)」といった具合だ。また敢えて親しみを出したいとき、感情的になったときも訛る。この使い分けは社会性を身につけていくうちに無意識にしていくものだが、学校へ行かず家族くらいとしか会話をしていないのであろう京本は、初対面の憧れの人に対してもばりばりに訛ってしまうのだ。

訛りの変化から読み取れる京本の成長とは? [c] 藤本タツキ/集英社 [c] 2024「ルックバック」製作委員会
訛りの変化から読み取れる京本の成長とは? [c] 藤本タツキ/集英社 [c] 2024「ルックバック」製作委員会

京本の訛りから背景が読み取れるのはこのシーンだけに留まらない。現実のシーンでこそないが、カラテキックで京本の命を救った藤野と会話を交わす場面では、京本の訛りがちょっと和らいで“よそ行き”になっているのだ。そうはいっても完全な標準語ではないし、興奮するとまた強めに訛ってしまう。このコミュニケーションの不器用さがいじらしく、京本なりに頑張って美大に進学して苦手な対人関係にも向き合ってきたということが分かる。どういうことだ、この解像度の高さは!!訛りの度合いまで調節してみせるなんて、手間のかかることを…。エンドロールで方言指導の欄を探して拍手を送るぐらいには敬服した。訛りも含めて芝居まで正確にあててみせた吉田美月喜、やっぱりもうちょっとちゃんと賞賛しておくべきかもしれん。あんた凄いよ。

映像で観られて特に嬉しかったのは、なんといってもあの田んぼ道。漫画を描くことを諦めた藤野が、その画力でプライドを打ち砕いた当の本人である京本に「藤野先生は漫画の天才です!」と才能を誰よりも絶賛され、喜びを抑えきれずに雨の田んぼ道を踊りながら走り抜けるあのシーンだ。鈍曇りの空と土砂降りの雨、どろどろにぬかるんだ田んぼ道――藤野の心情とは一見真逆な景色が、その激しさで共鳴する。さらにそこへ重なるharuka nakamuraの楽曲。生命のきらめく瞬間を閉じ込めたようなその音律が、暗い空も、泥も、全てを美しくみせる。あんまり美しいから涙が出た。歓喜に湧き、生命を謳歌するずぶ濡れの君よ、どうかこの日を忘れないで。疑わないで。そして出来るなら君に、幸多からんことを。そう祈らずにはいられなかった。

祈ってしまうのは、どれほど大事に抱きかかえていても、フッと胸の中から消えてしまうのを知っているからだ。

誰かが信じてくれたから、自分自身を信じることができる

自分を信じられなくなったとき、人は本当の意味で挫折する。

田んぼ道を駆け抜けたあの日、藤野は一度諦めかけた自分自身を、京本の言葉によって再び信じることができた。漫画描くの卒業したら?と勧めてきた友達も、空手教室に誘ったお姉ちゃんも、誰ひとり面と向かってはっきりとは口にしてこなかった、“漫画なんて描いても何も役に立たない”という考えを、京本の存在であっさりと無視して筆をすすめることができた。だから京本の唐突な死によって、他でもない藤野の口からぽろんとこの言葉が出てきてしまうのだ。「なんで描いたんだろ…描いても何も役にたたないのに……」

京本の言葉によって再び自分を信じることができた藤野 [c] 藤本タツキ/集英社 [c] 2024「ルックバック」製作委員会
京本の言葉によって再び自分を信じることができた藤野 [c] 藤本タツキ/集英社 [c] 2024「ルックバック」製作委員会

自分一人で、自分の力を信じることって無理だと思う。いや、出来る人もいるのかもしれないけど、そいつは確実に嫌われてるね。しかもそんな高慢ちきのつくった作品なんて、クソみたいにつまらないに決まっている。でも自分のことを信じられなかったら、なんにもつくれない。だって全部ゴミに見えるから。私はかつて、自分のつくりたいものをひとりで実現しようと躍起になっていた。つくってもつくっても理想から程遠い。バッキリ折れそうになる心を自給自足の「頑張れ!」で補強して、誤魔化して。当然の結果として、あっという間に自分のことをゴミ生産機としか思えなくなり、挫折。特大の自己嫌悪つき。今でこそ笑い話だが、笑っていいのは私だけだ。そんな全治無期限の重傷から今日までなんとか生き延びているのは、挫折の痛みに苦しみ悶え、悔しい、悔しいと書き殴った私の文章を、面白いと言ってくれる人がいたからだ。ただ言ってくれただけじゃない。その殴り書きのルーズリーフを「本にして出版しよう、沢山の人に読まれるような本にしよう」と、とにかく形になるまで付き合ってくれた人がいた。その言葉と行動は噓じゃないと思えたから、大袈裟でなく、生きる糧になった。自分で自分を信じられなくなる時も、振り返った日々には私を信じてくれた人がいるという事実が刻まれている。そう思ったら、まだ傷は痛むけど生きていける。どこまでも歩いて行ける。人生100年時代?足りないくらいだね。

藤野と京本が共に漫画を描くシーンはどれも美しい [c] 藤本タツキ/集英社 [c] 2024「ルックバック」製作委員会
藤野と京本が共に漫画を描くシーンはどれも美しい [c] 藤本タツキ/集英社 [c] 2024「ルックバック」製作委員会

藤野のことを、藤野自身よりも信じていたのが京本だ。書きかけの読者アンケート、壁に貼られた藤野の著作である「シャークキック」のポスター、複数冊ずつ買いそろえられたその単行本、京本の部屋に遺されたあらゆるものがそれを物語っている。京本がその輝く瞳で、妥協のない筆致で藤野の生む作品とその才能を信じていた事実が鮮明に蘇り、藤野は再び立ち上がって机に向かった。その背中には、特大のツルハシが深々と突き刺さったままだ。

京本の死に理由はなく、意味もなく、乗り越えようもない。ケリなんて永遠につかないし、つくわけないが、京本が憧れた“藤野先生”であり続けるために、藤野はただ堪えて進むことにしたのだ。悲しみが肉を抉り、血の滴っているダサい背中だ。しかし気高く、美しい。2024年、この藤野の背中に、私は以前よりも自分自身を重ねて見ることが出来ている。ここ数年、振り返れば私たちは答えが出ない事態に耐え続けて生きてきた。世界が変わり果て、二度と日常が戻らないのではないかという恐怖とじっと共存しながら、とにかく生き延びて今日という日までたどり着いた。ただ耐えるというのは、打つ手もなく八方ふさがりのお手上げ状態のように感じるが、実はそうじゃない。未来を信じていられるからこそ取れる、とても強い選択だ。今日を生きている私たちはひとり残らず、藤野の背中を自分ごととして捉えられるんじゃないか。この年月が、「ルックバック」をクリエイターだけのものじゃなく、より多くの人に届く物語に変えてくれたように思う。痛みを抱えて机に食らいつく私たちの背中は、痺れるほどにかっこいい。

藤野の背中に自分自身を重ねて… [c] 藤本タツキ/集英社 [c] 2024「ルックバック」製作委員会
藤野の背中に自分自身を重ねて… [c] 藤本タツキ/集英社 [c] 2024「ルックバック」製作委員会

耐えて、生き延びよう。この世に理不尽な悲劇はそこらじゅうに転がっていて、避けて通れはしないから、一緒に傷つこう。痛くて苦しくてどうにも耐えられないなら、面白い映画を観るといい。死んだ人を生き返らせる力はないが、今日を生きながらえさせるぐらいの力はある。私も面白い映画を観たら伝えられるように、生き延びていく。

文/梨うまい

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