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「苦しくても、その親しかいない」医師のおおたわ史絵さん、薬物依存症の母との闘い40年

  • 2024.6.22

医師でコメンテーターとしても活躍するおおたわ史絵さん。4月に文庫版が発売された『母を捨てるということ』では、薬物依存症の母との40年にわたる闘いの日々を綴り、大きな反響を呼びました。母親と自身との関係がどのように人生に影響したのか、お話を伺いました。

母の気分に振り回される毎日

――幼い頃から、お母様の顔色をうかがって過ごすことが多かったそうですね。

おおたわ史絵さん(以下、おおたわ): 私の母は、もともと気分の浮き沈みが激しい人でした。やたらと機嫌が良い日もあれば、ずっと寝ている日、理不尽に叱られる日も……。

何をすると母の機嫌を損ねるのか、法則性がわかれば対策が立てられるけれど、それがまったくわからない。単純に母の「気分」なんです。だから「学校で使う運動靴を買いたい」程度の頼み事をするだけでも、どのタイミングで言うべきか、慎重に空気を読まなければいけませんでした。母の気分に振り回されていることに、毎日すごく疲れていましたね。

朝日新聞telling,(テリング)

――今でも「なぜお母さんは、あれを嫌がったのだろう」とうまく消化できない思い出はありますか?

おおたわ: 本には書かなかったのですが、ときどき思い出すのは何気ないできごとです。

幼稚園生の頃、私はピアノを習っていて、年に一回の発表会に出ることになりました。その発表会では、女の子はかわいいリボンやお花のついたお洋服や、きれいなドレスを着て出席することが多かった。でも私の母は、なぜか発表会にはそぐわない、シンプルなパンツスーツを買ってきて「それを着なさい」と言った。有無を言わせぬ雰囲気だったので、私は従いました。

発表会当日、ピアノの先生に「どうしてそんな服を? もっとかわいいドレスにすれば良かったのに」と言われて、ようやく「私も他の子と同じように、かわいい服を着たかった」と気づいた。それでも母には言えませんでした。

――なぜお母様は、他の子とは異なる服を着るようにと言ったのでしょう?

おおたわ: なぜでしょうね。わからないんです。当時、私は太っていてブスだったから「他の子と似た服を着せると、かわいくないのが目立ってしまう」と、母なりに心配したのかな。あるいは自分の娘が“女”になっていくのが嫌だったのかもしれません。

普段から、一度怒りに火がつくと、母は制御できなくなりました。反抗することもできず、する気も起きず、母の言いなりになるしかなかった。当時の私に、爪を噛んだり髪を抜いたりする癖があったのは、自覚はなくても苦しい気持ちの現れだったのでしょうね。

朝日新聞telling,(テリング)

「娘がどうしたいか」は考えない母

――お母様に対して「おかしい」「他の家の母親とは違う」とは思わなかったのですか。

おおたわ: 思わなかったです。「世のお母さんは、こんなものなのだろうな」と思っていました。実際、幼少期は母のことが大好きだったし、母の後ろ姿をいつも追いかけていた。“普通の母と娘”だった……というよりも「普通の家庭とはどんなものか」を知らなかったから、一般的な親子はこういうものだと思い込んでいた、と言うべきでしょうか。

今、私は矯正医官として、少年院や刑務所内で診療を行なっています。少年院には、はたから見れば異常な環境で育っている若者もいますが、渦中にいる本人はおかしいとは気づいていないんです。他の家がどうなっているか、親子とは本来どういうものか、案外みんな知らないんですよ。

――医師の道に進まれたのは、ご両親の影響もあったのですか?

おおたわ: 父が開業医だったので、私が医師になれば喜ぶだろうなとは思っていました。それ以上に、母から「誰の目から見ても成功者とわかるような人間にならなければ、許さない」というほどの強い期待を感じていた。母に認めてもらうには、医師以外の選択肢がなかった、というのが正直なところです。

――「本当はこうしたい」という思いを我慢していたのでしょうか。

おおたわ: いいえ、自分はどうしたいか、ということ自体を考えないようにしていたんです。ピアノの発表会のことを思い出しても、そうです。「本当はピンクのかわいいお洋服が着たい」なんて考えても、どうせ通らないのだから、意味がない。どうしたいか、を考えてもムダだから、考えないようにする。すると次第に、自分の意思がわからなくなっていくんですよね。

朝日新聞telling,(テリング)

苦しくても「その親しかいない」

腹膜炎の後遺症の痛みを和らげるために、麻薬性の鎮痛剤を注射したことがきっかけで、おおたわさんのお母様は薬物依存へと陥っていきます。おおたわさんが中高生の頃には注射なしではいられなくなり、どんどん症状がエスカレートしていきました。

――お母様が依存症であることに気づいたのはいつですか?

おおたわ: 医学部に進学し、病院実習に参加したときです。厳重管理しなければいけない薬物の中に、母が毎日注射しているのと同じ薬物があったのです。それで初めて「これはおかしい。ママはいけない薬を使っている」と気づき、我が家の闘いが始まりました。

父と私で方々に相談しに行き、10年近くをかけてようやく依存症の専門医に巡り会えた。良かった、これで何とかなる……と思ったけど、それでも解決には至らない。それだけ薬物依存症は根深い病なのですよね。

辛かったのは、共に闘っていた戦友のような父を、2003年に病気で亡くしたこと。依存していた父を失い、母はいっそう私に執着するようになりました。私を振り向かせるために、ありとあらゆる手を尽くすようになった。

――たとえばどんなことを?

おおたわ: 日に十何回も頻繁に電話をかけてきて、私が電話に出ないと、救急車を呼んで騒ぎを起こしたり、親戚や知人に私にまつわる事実無根の悪口を言いふらしたり……。取引先の銀行にまで、あることないこと話し始めたのです。これ以上関わっていると、まずい。ひょっとしたら母を殴ってしまうかもしれない、と私も追い詰められていきました。

どこまでいっても母への愛情があること、そして、自分にも母と同じ血が流れていることが苦しかった。母と似ていて、私にも依存的な面や、思い込みが激しいところがありました。このままでは母と同じように、制御不能になるまで感情を爆発させてしまうかもしれないと怖かったのです。「家族だから苦しいんだ。もし、これが赤の他人で、愛情がなければ、無視できるはず――」。だから私は母を、“家族ではない赤の他人”と考えることにして、ほぼ絶縁状態になりました。

そして母は一人で亡くなりました。今でも、もっと他に良い方法があったのではと考えます。産んでくれた母を突き放した私のやり方は、正解か間違っているかでいうと、間違っているのでしょうね。でも、あのときはそうするしかなかった。それしかできなかったのです。

――過酷な体験がありながら、おおたわさんは、お母様のことを「毒親」のようには呼びませんね。

おおたわ: 母の一面がひどいのは事実だけど、それは病によって引き出された部分でもあります。優しくて温かいお母さん、という顔があったことも、私は知っているので。それに、子どもにとって、どんな親であっても「その親しかいない」んです。だから私は、どこかで彼女のことを庇いたいのでしょうね。

朝日新聞telling,(テリング)

それでも幸せを感じられる日がくる

――2020年に単行本『母を捨てるということ』を発売し、大きな反響があったそうですね。

おおたわ: 驚きました。薬物依存というテーマは多くの人にとって遠い世界の話のはずなのに、本を発売してから「あたかも母と私を見ているような思いで読みました」といった声をたくさんいただいたのです。

状況は違っても、親子関係に複雑な思いを抱えて生きている人がこれほど多いのだと、切実に感じました。よその家庭は、どこも幸せそうに見えるもの。でも実は、さまざまな葛藤が隠れているのでしょうね。

――今「母と娘」の関係で苦しんでいる人たちにメッセージをいただけますか?

おおたわ: どうすれば良かったのか、何が正解だったのか、私は今でもわからないのです。だから「こうすれば解決できますよ」といったアドバイスはできません。

今でも、母の夢を見ることがありますよ。多分、何かが解決したり、乗り越えたりしたわけではないんですよね。それでも母とのことが落ち着いてからは、「ああ、今、そこそこ幸せだな」と思える瞬間が、私にはあります。「ご飯がおいしいな」「花が咲いて、綺麗だな」「犬と散歩できて、幸せだな」。そんな幸せを、最近しみじみと感じるのです。

だから、今は苦しみの中にいても、たとえ問題がすっきり解決しなくても、何でもない幸せを感じられる日は必ず来る。そのことを、どうか信じてほしいですね。

■塚田智恵美のプロフィール
ライター・編集者。1988年、神奈川県横須賀市生まれ。早稲田大学社会科学部卒業後ベネッセコーポレーションに入社し、編集者として勤務。2016年フリーランスに。雑誌やWEB、書籍で取材・執筆を手がける他に、子ども向けの教育コンテンツ企画・編集も行う。文京区在住。お酒と料理が好き。

■北原千恵美のプロフィール
長野県生まれ。東京都在住。ポートレート、ライフスタイルを中心にフリーランスで活動中。 ライフワークで森や自然の中へ赴き作品を制作している。

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