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時代を駆け抜けた女流作家「田澤稲舟」

  • 2024.6.22
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文明だけでなく、学問や文学も開化な明治時代。1890(明治20)年は、平安時代の再来ともいえる女流作家ブームが到来します。樋口一葉全盛期ともいえるこの頃、もう一人、異才の花を咲かせた人物がいました。鶴岡出身の田澤稲舟です。

少女時代、文学が好きだった彼女は、山田美妙の世界観に惹かれ、上京後は、美妙の弟子として文壇入りを果たし、妻になった女性でした。ただしその人生はとても短かかったのです。今回の星読みhistoryは、明治時代を駆け抜けた、夭折の作家田澤稲舟の星回りと人生を、取り上げました。

田澤稲舟パーソナルデータ

1874年12月28日(明治7年) 山形県鶴岡市 出生時間不明

☀星座 ♑ 6°16

☽星座 ♍ 8°24 (24hふり幅 ♍2°02~♍14°34)

第1室 本人の部屋 ♑ ☀

第2室 金銭所有の部屋 ♒ ♄

第3室 幼年期の部屋 ♓

第4室 家庭の部屋 ♈ ☊♆

第5室 嗜好の部屋 ♉ ♇R

第6室 健康勤務の部屋 ♊

第7室 契約の部屋 ♋

第8室 授受の部屋 ♌ ♅

第9室 精神の部屋 ♍ ☽

第10室 社会の部屋 ♎

第11室 友人希望の部屋 ♏ ♃♂

第12室 障害溶解の部屋 ♐ ♀☿

本人の核である♑の☀と、一つ手前の第12室障害溶解の部屋♐☿。さらに♀も♐の9°。

知性も成功意欲も高く、独特な世界観を持ち、努力の方向が決まったら、ひたすら進タイプ。理知的でありたい思いつつも、直観力の方が優先される傾向が強く、言い出すと聞かない一面あり。文筆は得意ですが、集中できる場を整えた方が、アウトプットはさえるでしょう。

第2室金銭所有の部屋は、♒♄が占めています。人並み以上の努力があれば、安定収入が得られるというのが、スタンダードな読み。田澤の実家は地域でも裕福な家で、子ども時代の彼女は、経済面で大きな苦労はしていません。対極の第8室授受の部屋が、♌♅。♄と♅のスクエアと、♄は♐♀とセキスタイル。どんなに条件の良い相手でも、自分が納得のいく相手でないと、認めないでしょう。

情熱的な恋愛から結婚しますが、故に配偶者の経済力や、家の問題で苦労する可能性は高め。恋愛には、かなり癖が出る組み合わせです。

第4室家庭の部屋は、♈で☊♆。父が外科医。母は銭湯や米相場を扱う商売をやっていたので、地域でも人脈金脈のある家と推測できます。経済的には不自由ない生活環境だが、子どもから見たら、親は常に忙しくて、どこか遠い存在だったかもしれません。

この☊♆は、対極の友人希望の部屋にある♏の♂。社会の部屋♎♃と、オポジション。

田澤稲舟の美意識や、活動力。社会性と儚さとも繋がっています。時代背景で見れば、親が受けてきた教育背景(江戸時代)と、新時代の教育をふんだんに受けて育つ現代っ子とのカルチャーギャップのあり。

第5室は、その人の嗜好性を見る部屋で、ここは♉♇。しかも授受の部屋の♌♅と、不動宮のアスペクトなので、拘りは人一倍強いでしょう。特異な才を開花させる可能性も、読み取れます。

第9室精神の部屋は、♍と☽。人への配慮と気配りもできますが、神経質な面が強く出ると、本人も周りも難儀します。

田澤稲舟 略年表(ウィキ、その他ネット資料参考)

1874(明治7)年12月28日山形県鶴岡市鶴岡五日町に住む外科医田澤清の長女として誕生。

1891(明治24)年 朝陽小学校高等科卒業。上京。共立女子職業校(現共立女子大学)に入学。

1892(明治25)年 雑誌「以良都女」への登校がきっかけで山田美妙との縁ができる。美妙編の新体詩集「青年唱歌集」第2巻に「小春日和」が掲載される。この頃からペンネーム田澤稲舟を名乗った模様。

1893(明治26)年 師であった山田との恋愛が、父親に知れて、故郷に連れ戻される。以降、実家で執筆活動。山田の紹介で「文芸俱楽部」6月号に処女作「医学修行」を掲載。樋口一葉に続く女流作家として注目を浴びる。「閨秀小説」12月号「しろばら」を掲載。

1895 (明治28)年 再度上京。この年、樋口一葉と会ったと思われる。(樋口の記録あり)12月稲舟の両親から許しを得て、山田美妙と結婚。

1896(明治29)年 山田との合作「峯の残月」を発表。この頃から病を患う。同居している義祖母と折り合いが悪く別居後、離婚して故郷へ帰省。病の床で山田の再婚を知る。6月新体詩「月にうたふ懺悔の一節」を発表。9月10日新作「五大堂」の発表を待たずして死去。享年21歳。

☽年齢域 0~7歳 1874(明治7)~1881(明治14)年

1874(明治7)年。自由民権運動が産声を上げた年の瀬12月28日。豪雪地帯として知られている山形県の鶴岡市に、田澤錦という女の子が生まれました。後に樋口一葉と評された田澤稲舟です。(たざわきん。本編はペンネームの田澤稲舟を採用します)

父は鶴岡五日町の外科医田澤清。母は銭湯経営の外、コメ相場を営む実業家。地域でも裕福な家庭で、稲舟は三つ下の妹と共に、育ってゆきました。因みに田澤家は戦国武将前田利益に遡る事ができる家柄です。

☿年齢域 7~15歳 1881(明治14)~1889(明治22)年

1885(明治18)年。稲舟11歳当時、尾崎紅葉と山田美妙等が「硯友社」を設立。「我楽多文庫」を発刊して、文学に親しむ児童生徒たちの心を鷲掴みにしてゆきます。今の時代では当たり前な言文一致体。「です。ます」文章は、この当時とても新鮮でした。

その先駆者として、注目されたのが青年作家山田美妙です。

※言文一致体とは、話し言葉のような文章のこと。明治の前半までは、文語と話し言葉は分けられていましたが、新たな文章の在り方として、話し言葉が文章に取り入れられたのです。その先駆者が二葉亭四迷「浮浪雲」と、山田美妙の「武蔵野」です。 小説「蜘蛛」の挿絵に、女性のヌードが描かれたことも、一大論争を巻き起こしました。

絵画も描き、浄瑠璃もたしなむ才女稲舟も、文学にドハマりし、その中でも山田のファンとなります。年齢が進むにつれ、読者投稿などもトライ。さながら今のオタク女子の魁だったのかもしれません。

この当時、一般的な庶民の子は、尋常小学校を4年で卒業すると、そのまま社会に出て、工場や農村で働きました。労働基準法も福利厚生もない時代。夜遅くまで、子供が長時間労働を行っていたのです。

高等小学校に進学したのは、日本の未来を背負うために、最新教育を受ける必要のあるエリート層の家や、稲舟のように実家が太い家の子たちでした。尋常小学校でも、江戸時代まで培った先祖を敬い、親や藩に仕える教育とは全く違う、個人主義や社会主義といった、西洋諸国を席巻した学問の影響が入りますが、高等小学校に進むと、その度合いはさらに増したのです。

なので、親世代と子供世代の間には、完全なカルチャーギャップが存在したのですが、名家や豪商の娘は15で嫁に行く、婿を取って子どもを産むのが当たり前でした。それが娘の幸せであり、家の繁栄に繋がると、多くの親は疑いもなく信じていたのです。

稲舟の家も例外ではなく、尋常高等小学校を卒業するまでの間に、家を継ぐため、親から婿をあてがわれました。詳細は不明ですが、彼女はこれに猛反発し、離婚しますが、さらに婿をあてがわれたそうです。

親に悪意はないものの、西欧思想を中心とした新時代の教育を受けた稲舟は、価値観がかわっていますし、危機感の中自由を渇望すると燃える♑気質。

この経験から、稲舟は習作「鏡花録」に、「どうしても一生夫を持たず、独立しようとかたく心に誓った」「何か一つ、一生食べていける技を身につけなくては」と、思いを綴っています。

♀年齢域 15~24歳 1889(明治22)~1896(明治29)年

学友だった町医者の娘新藤孝(しんどうたか)が、女医になるために、尋常高等小学校を卒業後、東京の学校へ進学しました。父親が外科医だから可能だったのか、稲舟は「私も医者を目指す!」と言い出し、両親を説得。どうにか上京を果たします。

ですが、勉強は好きだけど、芯から女医になる意志はなかった稲舟。女医を目指す人のハードルが高すぎて挫折。故郷へ連れ戻されました。ここで二度目の離婚を実行。すると「画家になる。美術学校に再入学したい」と、両親に食い下がりました。

二度も離婚した娘を、近隣や世間がどう見るか。と、両親が世間体を考えたかは、定かではありませんが、おとなしく結婚をしないのなら、外暮らしをさせるのも手と思ったのかもしれません。

1891(明治24)年稲舟は共立女子職業学校(現共立女子)の図画科に入学するため、再度上京しました。「婦人雑誌創刊記念懸賞」に当選するなど、絵を描く活動も行います。

1892(明治25)年には「似良都女」に文章投稿をしたことから、憧れだった山田美妙と縁を持つことができました。

この当時「東洋のシェイクスピア」と呼ばれていた山田美妙。物静かで、争いごとなど好まない人ですが、実に女好きでした。稲船と知り合った頃には、複数の異性との恋の駆け引きを、新聞で報じられ、「小説家は実験を名として不義を行う権利あるや?」と、反省の色のない返しをして、他の文壇から不況を買う状況でもあったのです。

稲舟の文章に価値と魅力を見出した山田美妙。彼の描く世界観に惹かれていた稲舟。 二人が意気投合するのは容易く、新体詩「青年唱歌集」第2巻に、稲舟の「小春日和」が掲載されました。

頑なで純粋な乙女の心が、物腰柔らかく、都会的な山田美妙に接し、憧れから恋愛に変化するのも、無理はありません。1893(明治26)年。師弟関係は恋仲に発展します。

しかし、マスコミを騒がすほどの女癖を持つ有名作家との恋愛は、両親に知られるところとなりました。堅気な父親が首を縦に振るわけはなく、稲舟は鶴岡の実家に連れ戻されてしまいます。娘の身を案じて連れて帰るのも親心。無理ないところですが、反対されれば燃えるのが恋。

実家に戻った稲舟は、美妙との文通を続け、小説を描きます。こうして生み出した作品「医学修行」は、美妙の紹介で『文芸倶楽部』6月号に掲載されました。すると稲舟は、第二の樋口一葉誕生と、世間から注目を浴びたのです。

同年12月には『文芸倶楽部』の閨秀小説号が刊行。樋口一葉をはじめ、当時活躍していた11名の女流作家の作品が並ぶ中、注目の新人作家田澤稲舟の「しろばら」も掲載されました。

とある華族の娘光子は、親が決めた縁談に猛反発。婚約者を拒絶して自立の道を模索しますが、婚約者となった青年は、この状況を諦めきれず、自分の意に沿わない光子を騙して、直江津の旅館に誘い出すと、クロロホルムを嗅がせて、彼女を奪った。失意の光子は浜辺で自殺する。というのが「しろばら」の大筋です。

師である山田美妙の影響も、かなり色濃く出たのかもしれませんが、女性を騙して連れ出し、クロロホルムを使って乱暴するという展開や、死骸を烏が蝕む等の表現が、この当時の人たちには、斬新過ぎて物議を醸したのです。

好評を博したのは、樋口一葉の「十三夜」でした。作品の大筋は下記の通り。

親の勧めで位の高い役人と結婚したお関は、夫である原田勇の暴言に耐え続けた末、子どもを残して実家に帰ります。心を鬼にした父親は、原田勇のおかげで、お関の弟が昇進できた事を踏まえ、「我が家の家の安定は、お前が我慢して、原田との婚姻関係を継続することで成り立っている」とが涙を流しながら、娘に近家へ戻る事を勧めました。

それに応えてお関は、泣く泣く息子のいる婚家に戻るのです。実家から原田家まで、人力車を使って帰りますが、なんと、その車夫(人力車を転がす人)は、お関が学生の頃、好きだったタバコ屋の息子録之助という展開。

元カレ、今夫な構図ですが、お関の結婚を機に、彼女との恋愛を諦めた録之助は、自分も結婚するが、仕事も生活もうまくいかず、身を持ち崩して流転した半生を送っていたのでした。帰る道すがら、それを聞きながら、お関は婚家に戻り、再開した元恋人な二人に、展開はなく話は終わります。

親や親族の勧めによる結婚が色濃く、嫁ぐ女性への境遇に不理解な世界。そこで苦悩しながら、人として大切なものを守る女性を描くことで、時代に問いたい。一葉の気持ちが、こもった作品ともいわれているのが「十三夜」です。

稲舟と一葉。二人の作品は、どちらが見劣りするということはなく、生き生きと自分の世界観を描いています。が、当時の人たちには、苦悩しつつ、状況と折り合いをつけて生きてゆく女性観の方が、受け入れやすかったのでしょう。

社会的に論争を巻き起こした田澤稲舟の「しろばら」ですが、雑誌「帝国文学」は、一葉に欠けたものを持つ作家として、稲舟を評価しました。この時、「帝国文学」と「太陽」の文芸誌批評を担当していたのは、稲舟と同郷の高山樗牛です。これが稲舟を後押しし、女流作家としての道を、確かにしたのでした。

♉の☀を持つ一葉。♑の☀を持つ稲舟。二人の女流作家は、直接会っていたようで、、樋口の日記から、それをうかがい知ることができます。土属性の星座同士、気が合ったのかもしれません。

1894(明治27)年は、日清戦争開戦の年。国内が戦争一色となるなか、稲舟執筆活動を続けた稲舟は、翌1985(明治28)年。三回目の上京を果たします。

鶴岡の両親もようやく折れて、同年12月。ついに山田美妙と結婚できました。

山田美妙パーソナルデーター

1868年8月25日神田生まれ(慶応4年7月8日)12時設定

☀星座 ♍ 2°8

☽星座 ♐ 3°9(24h ♏27°29~♐9°24)午前中の生まれなら、♏の可能性あり)

画像は稲舟と美妙のシナストリー。

第1室 本人の部屋 ♍ ☀

第2室 金銭所有の部屋 ♎

第3室 幼年期の部屋 ♏ ♄

第4室 家庭の部屋 ♐

第5室 嗜好の部屋 ♑

第6室 健康勤務の部屋 ♒

第7室 契約の部屋 ♓

第8室 授受の部屋 ♈ ♃R♆R

第9室 精神の部屋 ♉ ♇R

第10室 社会の部屋 ♊

第11室 友人希望の部屋 ♋ ♂♅♀

第12室 障害溶解の部屋 ♌ ☿☊

おとなしい性格でありながら、章に荒々しさが潜むといわれる山田美妙。☀星座こそ♍ですが、コンジャンクションする☿は、♌。しかも第12室で見えない部分を司っています。彼の場合は、作品にそれが出たのでしょう。表現力の中に獅子が潜む組み合わせ。第11室友人希望の部屋に集まる♂♅♀も、彼の魅力を物語る重要な場所です。基本的に親切。人当たりもよく、友情を大事にしますが、親密度が上がると、余所行きの仮面がはずれて、 不尽なわがままを言う可能性あり。

男の☀と女の☽が重なるので、「結婚できる可能性大。(ただし、永続性の保証はなし)山田の♍☀と♌の☿(ライオンのしっぽの先)が、稲舟の☽と、コンジャンクション。気に入った相手なら楽しくワクワク。声もかけるでしょう。稲舟の♑の☀は、美妙の第7室契約の部屋にある♋♂と♅と、土と水のオポジション。分量が良ければ、作物を育てられる組み合わせですが、強引さがでると、関係が重く揺らぎます。

さらに稲舟の♀。これは♐にありますが、美妙の♐の☽だけなら、良き組み合わせといえますが、ここに♏の♄が被っているため、恋愛にストップ効果が出てくると、ぎくしゃくします。さらに年の差6年。度数も10度あるので、重なりませんが、二人とも♈の♆持ちであるのも、気になる要素。良くも悪くも、♆は「逃げ」が伴う星。

恋愛は良いかもしれませんが、結婚生活を続けるにおいて、危うい要素が潜んでいます。

1895年12月28日(彼女の誕生日)の星回りを見てみると、♑の☀に☿来ているし、美妙の☀と稲舟の☽の対角に、♋☊があるので、多くの存在は近くになり、近くのものが遠くなるような現象もあり。♏には、♅♄♀という三ツ星が、美妙の怒声を刺激。彼がもし、午前中の生まれなら、☽は♏になるので、これも刺激されます。難易度の高い結婚は、案外この辺が効いているかもしれません。

いかにも稲舟が経済的に困っているような文面を下書きした美妙は、それを妻に清書させて、彼女の実家に、金の無心をしたようです。

1896(明治29)年には、夫婦合作で「峯の残月」を発表。プロ作家としての活動に、念願かなっての結婚ですが、女性とのスキャンダルが絶えない山田美妙との結婚は、速攻でいばらの道と変わりました。

美妙と関わる女性からの嫉妬は受ける。メディアからは、色物を見る目やバッシングネタとなる稲舟ですが、さらに美妙の暮母と祖母との同居という難関が待っていました。

封建的な感覚の強い姑と大姑は、女流作家として活動しようとする稲舟に、強いプレッシャーを与えます。同じことを言われても、実家なら「イヤだ!」の一言で済んだことが、姑と大姑が相手だと通じません。

今の時代のように、洗濯機も冷蔵庫も、炊飯器もなく、すべての家事が手作業の明治時代です。夫に頼らず、家に頼らず、生き生きと生きる女性像を求めていたハズの稲舟は、作品発表の時期と被るように、胸を患い始めました。これには山田美沙も配慮して、母親たちと別居生活をしますが、既に限界を超えていたのです。

結婚から僅か3ヶ月で、二人は離婚に至りました。迎えに来た母親は、やつれて変わり果てた娘を庇うようにして、故郷に連れて帰ります。実家に戻って療養しながら執筆を続ける稲舟を、さらなるショックが襲いました。離婚してわずか一月足らずで、美妙が西戸カネという女性と再婚したことを知ったのです。

6月美妙との別れの悔恨を、新体詩「月にうたう悔恨の一ふし」として発表。続けて小説「小町湯」を発表しますが、評価は芳しくありませんでした。8月には肺炎を患ってしまった稲舟。睡眠薬を飲みすぎてしまったことが、美妙との悲恋による自殺未遂として、報じられてしまいます。

その最中、稲舟は小説「五大堂」を書き上げました。流行作家が、子爵の令嬢と松島への逃避行。それを新聞に掻き立てられ、二人とも投身するというのが大筋ですが、これまでのような、山田美妙の雰囲気を纏った雰囲気とは違う、田澤稲舟の世界観が開きだした作品と言われています。その「五大堂」が発刊される前、1986(明治29)年9月10日。

田澤稲舟はこの世を去りました。享年21歳。23歳という記述もありますが、おそらく数え年と判断してよいかと思います。どちらにしろ、命を枯らすには、早すぎる年齢ですね。

これまでは稲舟をバッシングしていたメディアは、この日を境に、彼女を悲劇のヒロインに位置づけ、山田美沙を叩きはじめました。彼は文壇から追放される立場となります。どうも、昔も今もメディアのやることは変わらないのかもしれません。

「女性の独立」を考え、自由になりたくて文筆家の道を進んだ少女が、一人の男性作家と出会い、一時の成功を納められますが、それと引き換えに恋心と命を差し出すのは、あまりに儚いですね。同時に結核という病気の恐ろしさを痛感します。

樋口一葉に田澤稲舟。どちらも今の時代の女性たちに、語りかける内容を持つ作家だと思います。機会があれば、ぜひお読みください。

お話/緑川連理先生

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