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『スリープ』「マイ・ディア・ミスター」…不世出の名優イ・ソンギュンが私たちに遺したもの

  • 2024.6.21
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誰しも、忘れられず記憶にずっと残る俳優がいる。その俳優をとりわけ偏愛しているというだけでなく、彼らや彼女たちの演技が、人生のある瞬間にピースのようにはまることがあるからだろう。

【写真を見る】眠っている間に奇行に走る夫と、追い詰められる妻の恐怖を描く『スリープ』

昨年12月末、自ら命を絶ったイ・ソンギュンもまた、説得力と力強さのある俳優だった。ジャンルを問わず、主演から助演まで幅広く堅実に演じ分けてきた彼の不在は、1人の演技巧者を失ったということだけでなく、日に日に重みを増しているように思う。イ・ソンギュンが極端な選択に至った経緯をめぐる問題については、ポン・ジュノ監督ら映画人有志たちが声明を発表し、現在真相究明が待たれている状況だ。今回は、彼を韓国映画界に記憶するべく、その演技を振り返る。

『スリープ』で新人監督が見た、イ・ソンギュンの勉強熱心さ

韓国では7月と8月にかけて、彼の遺作2本が公開される。濃霧の空港大橋で発生した連続追突事故と橋の崩壊危機、そして突如放たれた統制不能の軍事用実験犬から生き残るために死闘を繰り広げる『脱出:PROJECT SILENCE(原題)』、1979年に発生した大統領暗殺事件をモチーフにした『幸せの国(原題)』だ。そして日本でも、生前最後の公開作品となった『スリープ』(6月28日公開)がまもなく劇場公開を迎える。

困難を夫婦で乗り越えようとする2人を襲う怪奇現象 [c]2023 SOLAIRE PARTNERS LLC & LOTTE ENTERTAINMENT & LEWIS PICTURES ALL Rights Reserved.
困難を夫婦で乗り越えようとする2人を襲う怪奇現象 [c]2023 SOLAIRE PARTNERS LLC & LOTTE ENTERTAINMENT & LEWIS PICTURES ALL Rights Reserved.

『スリープ』でイ・ソンギュンが演じたヒョンスは、かつては新進気鋭の役者として褒め称えられたものの、いまではほんの数行のセリフしかもらえない端役におちぶれてしまった。チョン・ユミ扮する妻スジンは、夫の才能を心から信じている。彼のオーディション予定を把握し、彼をサポートするように臨月まで働いている。そして眠りについた夫の奇行が相次ぐと、すぐに解決策を取ろうとする。

撮影現場では、キャラクターについて積極的に監督へ提案したというイ・ソンギュン [c]2023 SOLAIRE PARTNERS LLC & LOTTE ENTERTAINMENT & LEWIS PICTURES ALL Rights Reserved.
撮影現場では、キャラクターについて積極的に監督へ提案したというイ・ソンギュン [c]2023 SOLAIRE PARTNERS LLC & LOTTE ENTERTAINMENT & LEWIS PICTURES ALL Rights Reserved.

この映画は睡眠がテーマであると同時に、結婚という要素もまた作品を貫いていて、不穏な出来事を夫婦で乗り越えていくところがポイントだ。ストーリー展開に夫婦の関係性が必要不可欠だったが、俳優のコンビネーションはキャラクター造形も良い影響があった。メガホンをとったユ・ジェソン監督によると、『スリープ』は特に、スジンの心情に従って室内の様子が変化するようにプロダクションデザインを設計している。このようにスジンのキャラクターはビジュアル面でも伝わりやすいが、ヒョンスは平面的になりかねなかった。それを厚みある人物像に仕立て上げたのが、イ・ソンギュンによるキャラクター解釈だったそうだ。そのためユ・ジェソン監督は「イ・ソンギュンによるヒョンスというキャラクターを基本に、チョン・ユミのスジンを演出した」と明かしている。撮影現場に来ると、イ・ソンギュンはすでにヒョンスに“なって”いる。何テイクを重ねても、ヒョンスそのものだった。確かにヒョンスは、本当に隣人にいそうな、血肉の通ったリアリティある人物だ。徹底した役柄の掘り下げで完成したキャラクターだったのだ。

現代社会にエールを送る「マイ・ディア・ミスター〜私のおじさん〜」

『スリープ』公開にあたって韓国で行われたインタビューで、イ・ソンギュンは自身の“人生の一本”を尋ねられて「40代を代弁する作品で良かった」としてドラマ「マイ・ディア・ミスター〜私のおじさん〜」を挙げている。

鬱屈を抱えるドンフンと孤独なジアンの心が共鳴する「マイ・ディア・ミスター〜私のおじさん〜」 [c]Everett Collection/AFLO
鬱屈を抱えるドンフンと孤独なジアンの心が共鳴する「マイ・ディア・ミスター〜私のおじさん〜」 [c]Everett Collection/AFLO

イ・ソンギュンが演じた、建設会社でエンジニアとして働くドンフンは、どこにでもいるごく普通の中年男性。ひょんなことから派遣社員のジアン(IU)との交流が始まるが、実はジアンは、ドンフンの妻と不倫関係にあるト社長と結託し、彼を盗聴するなどして陥れようとしていたのだった。それを知らないドンフンは、多額の借金や家族の世話などで幼い頃から苦境に立たされたため、自暴自棄に生きるしかなかったジアンを助けていく。ジアンもそんなドンフンに心を開いていく。このドラマは、特にコロナ禍で世界中が自宅で配信ドラマを楽しむ時期に大きな反響を呼んだ。若い女性の貧困や派遣社員への冷遇、ヤングケアラーといった社会的イシューを体現したジアンに共感が集まったからだろう。同時に、「真面目な無期懲役囚」とジアンに言われるほど、内面に憂鬱を溜め込み周囲と波風を立てることなく生きる“諦めた人間”のドンフンもまた、非常にリアリティがあり現代の肖像のように感じる。

いまだに「マイ・ディア・ミスター〜私のおじさん〜」を言及するファンが相次いでいる [c]Everett Collection/AFLO
いまだに「マイ・ディア・ミスター〜私のおじさん〜」を言及するファンが相次いでいる [c]Everett Collection/AFLO

ドラマの終盤、とうとうジアンとト社長のつながりを知ってしまったドンフンが、映画館で1人葛藤するシーンがある。そこで上映されていたのは、イ・チャンドン監督の『ペパーミント・キャンディー』(99)だ。

『ペパーミント・キャンディー』は、光州事件、民主化運動、漢江の奇跡、IMF危機という1980年〜1999年の激動の韓国現代史を、時代に翻弄されなすすべなく運命を変えられてしまった男性ヨンホの人生とともにたどっていく映画だ。見終わったドンフンは、失踪していたジウンの居場所を突き止めて駆けつける。正当防衛とはいえ過去には殺人も犯し、信頼してくれたドンフンまで裏切った自分を責めるジウンに対し、彼はこう言い放つ。

ドンフンのセリフは多くの視聴者を勇気づけた [c]Everett Collection/AFLO
ドンフンのセリフは多くの視聴者を勇気づけた [c]Everett Collection/AFLO

「どうってことない。恥ずかしいこと、人から後ろ指さされること、全部どうってことない。幸せになれる。俺はダメにならない。幸せになるんだ。幸せになるよ」

『ペパーミント・キャンディー』のヨンホは戒厳令下での兵役服務中、少女を誤射し死なせてしまう。それまで純粋で誠実に生きてきたからこそ、たった一度の過ちで再帰する希望を自ら手放し、冷酷にしか生きられなくなってしまうのだった。『ペパーミント・キャンディー』と「マイ・ディア・ミスター〜私のおじさん〜」が接続したことで、社会の象徴的な痛みを負うヨンホと、彼と相似形をなすようなドンフンが「全部何ともない」と語りかけたかのようだった。このセリフが持つ波及的な治癒能力は、時代を越えていた。イ・ソンギュンが亡くなった直後、この作品について言及するファンが相次いだのもうなずける。

『最後まで行く』『キングメーカー 大統領を作った男』『パラサイト 半地下の家族』…イ・ソンギュンが演じてきた複雑な“ヒール”

イ・ソンギュンは印象的な悪役も演じてきた。たとえば『最後まで行く』(14)で、野心と欲望にまみれた刑事ゴンスを演じた。自身のひき逃げ事故を隠蔽しようとしたために、事件の黒幕から狙われるゴンスがすがすがしいほどの汚職刑事で、愚かさゆえに追い詰められるさまがブラックコメディとして効いていた。

ギリギリのストーリー展開も話題となり、日本でリメイクされた『最後まで行く』 [c]Everett Collection/AFLO
ギリギリのストーリー展開も話題となり、日本でリメイクされた『最後まで行く』 [c]Everett Collection/AFLO

またヒールとは言えないまでも、『キングメーカー 大統領を作った男』(21)も思い出される。イ・ソンギュンが演じたのは、大統領の影の選挙参謀、ソ・チャンデだった。正攻法では選挙で勝てないキム・ウンボム(ソル・ギョング)を大統領候補に押し上げるために手を汚すチャンデに待ち受ける結末は皮肉ながら痛ましく、考えさせられるものがあった。ソル・ギョングによれば、イ・ソンギュンは物語を牽引する人物としてビョン・ソンヒョン監督と本当によく話し合っていたという。本作で大鐘賞の監督賞を授賞したビョン・ソンヒョン監督が、「私の心の主演男優賞はイ・ソンギュンさんです」と力を込めて語っていたのもそうした理由からだろう。

大統領のフィクサーの成功と悲哀が表現されたソ・チャンデ [c]2021 MegaboxJoongAng PLUS M & SEE AT FILM CO.,LTD. ALL RIGHTS RESERVED.
大統領のフィクサーの成功と悲哀が表現されたソ・チャンデ [c]2021 MegaboxJoongAng PLUS M & SEE AT FILM CO.,LTD. ALL RIGHTS RESERVED.

これらのキャラクターは、“ヒール”は、“悪”と断じてしまうことに少々引け目を感じる。それはどこか私たち観客の持つ後ろ暗い感情に通じているからではないだろうか。最も分かりやすい例は、『パラサイト 半地下の家族』(19)のパク・ドンイク社長だ。

 裕福さゆえの無意識な冷淡さがにじみ出るパク社長 [c]Everett Collection/AFLO
裕福さゆえの無意識な冷淡さがにじみ出るパク社長 [c]Everett Collection/AFLO

貧しい半地下住まいのキム・ギテク(ソン・ガンホ)らキム一家が入り込むことになる大豪邸に暮らすIT企業のパク社長は、一見、上品で礼儀正しい。「線を越えるな」が口癖で、僭越な振る舞いを何より嫌うため自分もまた他人の欠点を直接論ったりはしない。それは彼が優しいからというよりも、他人を蔑むのは下品だと言われるから、表立ってしないだけだ。それでも半地下の臭いには耐えられなかった。彼らを見下す本性が露呈した瞬間、ギテクに刺し殺される。

人間には、誰かと比較して生きる性がある。自分よりも年収が低い人、家が裕福でない人に対し、わずかながら優越感を感じる瞬間はあるのではないだろうか。ドンイクは、そういう私たちの一部を取り出して目の前に見せつけてくる、不都合で居心地の悪いキャラクターとして完璧だった。

去年、『脱出:PROJECT SILENCE』で第76回カンヌ国際映画祭に参加したイ・ソンギュン [c]SPLASH/AFLO
去年、『脱出:PROJECT SILENCE』で第76回カンヌ国際映画祭に参加したイ・ソンギュン [c]SPLASH/AFLO

『スリープ』のプロモーション当時、折しもDisney+「ムービング」が賞レースを席巻していた。イ・ソンギュンはこのヒーロードラマに興味津々で、「私もヒーロージャンルをやりたいって言っていたんです。たいしたことなさそうなヒーローキャラクターを演じてみたいです」と笑っていたそうだ。イ・ソンギュン演じる、実に人間臭いヒーローが活躍するドラマ。決して実現しない悲しい夢を、どうしても思い描いてしまう。

人は忘れ去られたときが本当の死だという。彼が演じ、特に代表的と見えるキャラクターは、時代の声を代弁し、傷みと共振する人物として観客の心に刻まれた。イ・ソンギュンがスクリーンにいてくれた時間は、永遠に朽ちない。

文/荒井 南

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