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ブラジャーの原型を考案した女性実業家、エルミニーの人生。

  • 2024.6.21
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カンヌ映画祭を始め、著名な国際的女優たちが集まるイベントでは有名クチュリエによるドレスのクリエイションが大いに話題となる。しかしそのベースとなるボディを整えている、フランスのランジェリーメゾンCadolle(キャドル)によるコルセットは表に見えないこともあり、語られずじまいだ。女優たちも素晴らしいボディを作り上げてくれるコルセットについては自分だけの秘密にしておきたいので、なおさらキャドルの名前は表に出にくいのである。カンボン通りにブティックを構え、サントノーレ通りにオーダー専門のサロンを持つキャドルの歴史は19世紀後半に遡る。メゾンを創始したのはHerminie Cadolle(エルミニー・キャドル)。当時彼女はアルゼンチンのブエノスアイレスに暮らしていた。なぜ彼女は南米にいたのだろうか?フランスの歴史とともに、エルミニーの''激動的な''物語を語ってくれたのはメゾンの5代目プピー・キャドルだ。彼女の娘パトリシアもメゾンで働いていて、エルミニーを筆頭に女性から女性へとメゾンは受け継がれている。

唯一残されているエルミニーの写真。左で座っている女性が彼女で、隣の男性はメゾンの5代目のプピー・キャドルによるとおそらく息子のアルシードだろうとされる。photo: courtesy of Cadolle Paris

現在のブティック(4, rue Cambon 75001)。クチュール部門はサントノーレ通り255番地にある。https://www.cadolle.com/en/ photo: Courtesy of Cadolle

1842年にエルミニーが生まれたのはオルレアンから30kmくらい離れたロワール川沿いのボージャンシーという町。エルネスト=フィリップ・キャドルと18歳で結婚し、翌年には息子が誕生するが、1860年代に夫が経営する塗料会社が倒産したことをきっかけに、一家はエルミニーの妹とその子どもも一緒にパリへと居を移す。第二帝政期のパリはナポレオン三世が打ち出した政策で経済成長が著しく、彼らはこの地に仕事を求めてやってきたのだ。それまで男性用チョッキ仕立てを職にしていたエルミニーは、パリでは女性用コルセットのアトリエに仕事を見つけた。

あいにくとパリの平穏な暮らしは続かず。1870年に普仏戦争が起き、その敗戦後に結ばれた講和に反対したパリ市民たちが蜂起して1871年にパリ・コミューンが誕生。労働者政権である。女性の給与の平等を求める活動家だった彼女もこれに参加し、救急車で傷ついた同志を運搬する役を買って出るなどアクティブに活動した。何度も暴動に参加し......ついに妹とともに投獄の憂き目にあってしまう。獄中ではふたりにひとりが殺されるという運命だったが、幸いにもふたりは無事に日常の暮らしに戻ることができた。仕事を再開したエルミニーの元にはデパートからの注文が絶えず、コルセット製造の仕事は順調だったのだが、彼女は政治への強い関心と情熱から闘争を続けた彼女は危険な状況へと追い込まれていくことになる。

1887年、エルミニーはひとり息子を連れてパリ脱出する。行き先はアルゼンチンだ。正確な記録は何もないが、その前に夫は亡くなっていたらしい。このころのアルゼンチンは社会主義国でイタリアやドイツ、そしてフランスから多くの社会主義者、共産主義者がここにやってきていた。国家の経済成長のため人手を求めていたアルゼンチンは、左翼であろうとなかろうと手に職を持つ海外からの移民を受け入れていた時代で、エルミニーもそのひとりとして迎え入れられるのだ。この地で彼女はランジェリーのブティックを開く。そしてコルセットのアトリエも構えて、店で販売をするのだ。アメリカでもキャドルのコルセットの人気は高くまり、息子は船で北米の都市を巡って商売をして......。プピーはこう語る。

「アルゼンチンに両手を広げて迎えられ、アナキストの彼女はこの地で資本主義者になったのです。アルゼンチンの人々にとってフランスは夢の国な上、政治にかけていた情熱と知性を彼女は事業に傾けることで信じられないほどの成功を収めました。現地で雇用するだけでなくフランスから職人も呼び寄せるほど、商売は大繁盛。彼女は次々とアルゼンチンに土地を購入していきました」。あいにくと彼女が入手した土地も建物も、ファン・ペロン大統領の時代に国有化されてしまったらしいが。

1898年に特許申請したコルスレ・ゴルジュのLe Bien-Etreのデッサン(左)と、その復元品。デッサンでブラジャー部分と下の部分の間に見えていのは下着である。photo: Courtesy of Cadolle

ブエノスアイレスでエルミニーが考案したコルセットは、ブラジャーの元祖とも言える新しいタイプだった。彼女が活動的だったからだろうか、女性たちが体を動かしやすいようにコルセットを背中部分はそのままに、前をふたつのパートに分けたのだ。これで胃や肋骨は解放され、かつ腹部は従来のコルセット通り補正される。またコルセットは胸を潰すように平らなところ、彼女は胸の部分に膨らみをつけたのだ。鯨のヒゲのワイヤーを体を抑える骨組みに用い、さらに伸縮性のあるゴムを織り込んだ素材を開発させ、また胸の支え用にゴムの肩紐もつけた。''corselet-gorge(コルスレ・ゴルジュ)''なる新しいジャンルのこの開発品を、彼女は「Bien-Etre(ビアンネートル)」と命名。この型についてエルミニーは1898年に特許申請をし、その後も細部にわたる複数の特許をフランスのみならず世界複数の都市で申請している。コルセット製造業者がパリだけでも100近くあった時代。彼女の創造をコピーから守る必要があったのだ。

英語圏の国での1905年の特許申請。photo: Courtesy of Cadolle

1889年、アルゼンチンをベースにしたままエルミニーはパリで開催された万国博覧会で下着革命とも言える''コルスレ・ゴルジュ''のスタンドを引きさげてスタンドを開くのだが、あいにくと女性たちはコルセットを手放す準備ができておらず。結果ははかばかしくなかったが、1900年の万国博覧会に再び彼女はパリにやってきて、銅賞を得るなど成功を収めた。

エルミニーがアルゼンチンを引き払ってパリに戻るのは1914年。1887年の移住以来フランスにはその間4〜5年に一度戻ってきていたそうで、1910年にパリに会社を設立している。当時女性には不可能なことだったが未亡人ゆえにできたことで、会社名は''Herminie Sardon veuve Cadolle、つまり''キャドルの未亡人エルミニー・サルドン(注:旧姓)''である。ブティック・アトリエを9区のショセ・ダンタン通り24番地に開き、息子の結婚相手のマリーは商才の持ち主だったらしく、エルミニーは彼女に店の経営を任せた。ここは当時、銀行家や企業主など新しく台頭したブルジョワ階級が多く暮らしていた界隈。ブルジョワのマダム達、そして同様に界隈の住民であり彼女たちのライバルとも言えるドゥミ・モンデーヌたちでブティックは大いに繁盛した。時が流れ、この店の売り上げが落ち始めるや、エルミニーはブティックをカンボン通りとサントノーレ通りの交差する場所(現在はディオールのブティック)に移動。その際には人通りの多い最良の場所を選ぶべく、嫁と孫を街角に立たせて通行人の数を調べさせたそうだ。パリに戻って10年後の1924年に彼女は亡くなるが、最後までキャドルの商品、経営に関わっていたのではないかとされる。

ショセ・ダンタン店の宣伝。編み地が体に素晴らしくフィットするコルセットとうたっている。photo: Courtesy of Cadolle

ショセ・ダンタン店の宣伝。photo: Courtesy of Cadolle

女性の体の解放というとポール・ポワレ、ガブリエル・シャネルという名前が挙がるけれど、これはオート・クチュールにおいて。それ以前、外には見えない下着の世界に革命を起こしたエルミニー・キャドルがいたのである。女性が始めたメゾンを女性が引き継ぎ、現在6代目まで続いているメゾンながら、彼女の人生には謎が多い。いま、エルミニーの伝記の出版に向けて歴史研究家が執筆を準備中とか。その過程でわかってきたこと、これから明らかになることがある。プピーによると、「彼女の写真は家族と撮影された1枚があるのみ。現在インターネットで検索すると出てくる写真は彼女ではありません。小柄な女性でフェミニンでもコケットでもなく、すごく権力的な女性だったようです。感じも良くないし、他人に親切でもなく、楽しい人間でもなく、愛情も薄かった......でも闘う女性でした。素晴らしい!」

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