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一穂ミチ「感情旅行」 vol.2【web連載小説】

  • 2024.6.12

仕事も恋愛も人生の踊り場にいる30代。惑いの世代の揺れ動く心を旬の作家たちが描くアンソロジーを、CLASSY.ONLINE限定で毎週水曜に公開します。第一回は一穂ミチさんの『感情旅行』

これまでのあらすじ

主人公の華(はな)は、癌で亡くなった地元の旧友である蒔生(まきお)の葬儀に出席する。そこで蒔生の息子で高校生の千歳(ちとせ)と再会するが、突然旅行しようと誘われ…。

「再来週の土日、ちょっと旅行に行ってくるね」

冷蔵庫の扉に貼ってあるマグネット式のスケジュールボードに書き込みながら、直(すなお)に告げた。

「珍しいね、誰と?」

「お母さんが、ふるさと納税で宿泊券ゲットしたから行こうって」

「へえ、ラッキーじゃん。どこ行くの?」

「島根の玉造温泉っていうとこ」

「聞いたことない」

「けっこう歴史あるっぽいよ。松江の近く」

一泊だから、出雲大社と宍道湖観光でもして帰ってくる、と言うと、直は「縁結びの神社にお母さんと行くんだ」と笑った。

「うん」

「お土産期待してる」

「えー? 何があるかな。しじみとか?」

「もっといいやつ」

「わかんないよ」

「華がいないんだったら、俺も出かけようかな。温泉、行きたくなってきた」

「いいんじゃない?」

「箱根で行ってみたい宿があるんだよね」

ほらここ、と見せてきたスマホの画面には、湯けむりが立ち昇る露天風呂の写真が表示されていた。わあ、いいね、とにこにこしながら、口の中にじゃりっと何かが溜まるのを感じた。

「華が泊まる宿はどんな感じ?」

「まだ詳しく聞いてないや」

なめらかに嘘を重ねながら、奥歯でその、存在しないじゃりじゃりを噛みつぶす。

 

旅行当日、羽田から出雲縁結び空港に飛び、そこから出雲大社までバスで向かうことにした。

「レンタカーは? はなくそ免許持ってんだろ」

「ペーパーだからいや。もし事故ったらしゃれにならない」

ちいさな空港だから、バス乗り場まではすぐだ。歩きながらわたしは「ほんとに大丈夫だよね」とここまで何度もした確認を繰り返す。

「ばれて未成年者誘拐とか言われたら、人生終わるんだけど」

「大丈夫だって、しつこいな」

「信用できない」

千歳は母親に「友達んちに泊まってくる」とだけ告げて出かけてきたという。友達がちゃんと口裏を合わせてくれるのか心配でたまらなかった。

「母さんは俺の交友関係なんか具体的に知らねーよ。友達は友達、固有名詞なし」

「そういうもんなの?」

「小学生じゃねーし、そういうもんだろ」

わたしの記憶ではついこの間まで小学生だった(しかも一年生)千歳が鼻で笑う。

バスでは前後の座席に分かれた。前に座った千歳がワイヤレスイヤホンを耳にぐりぐり押し込んでいる。わたしは山と田畑ばかりののどかな景色に目をやった。

 

千歳の父、蒔生の一家はうちのご近所さんだった。房総半島の南のほうにある、何てことのない狭い町だ。兄も蒔生もわたしの六つ上で、彼らはそれほど仲よくなかったが、わたしにとって蒔生は気安い親戚みたいな存在だった。だから、蒔生が大学四年生で結婚し、卒業して間もなく一児の父になってしまったことにけっこうショックを受けた。「ちゃんと責任取って立派よ」と褒める母に苛立ち「立派だったらそもそも妊娠させてねーんだわ」と乱暴な口調で八つ当たりしたのを覚えている。結婚式はしなかったので、わたしは未だに蒔生の妻だった女の顔すら知らない。

その後、わたしも東京の大学に進学して実家を離れ、そのまま就職し、でもすぐ駄目になって実家に戻ってきた。そうしたら、蒔生も千歳を連れて出戻っていたのだった。妊娠・出産のハンデをものともせず働いていた妻に海外駐在の打診があり、揉めたらしい。離婚の理由を蒔生ははっきりとは教えてくれなかったけれど、母親が蒔生のおばさんから聞き出したところによると、主夫として帯同してほしい、という妻の要望を蒔生が呑まなかったから、ということだった。

――これ以上人生を制限されたくないって言われちゃったよ。身軽になってリセットするんだって。

蒔生はひと言だけわたしに漏らした。被害者ぶってやな女、と当時のわたしは思った。でも、邪魔者がいなくなって蒔生の近くにいられるのは嬉しかった。療養という名目でぶらぶらしている時期だったので、蒔生のフォローを口実に家に入り浸り、千歳と遊んだ。千歳はお菓子を買ってほしい時だけ「華ちゃん」、それ以外では「はなくそ」とわたしを呼び、年相応に生意気だったけれど、さらさらの細い髪やいつまでもつついていたくなるほっぺた、まとわりついてくる手がかわいかった。三人で出かけた帰りの電車で、わたしにしなだれかかって眠る千歳のしっとり熱い身体を泣きたいほどいとおしいと感じたものだった。この子を捨ててもやりたい仕事って何だろう、会ったこともない元妻に思いを馳せていた小娘の自分は、もう半ば家族の一員になった気でいた。このまま、なりゆきで蒔生の妻になり、千歳の母になるのは悪い未来じゃなかった。蒔生の実家は小規模な造園業を営んでいて、蒔生もその手伝いをしていたから、わたしもおばさんに経理を教わって……とか、勝手な将来設計まで立てていた。

でもそう思っていたのはわたしだけで、ある日、蒔生から「こういう、ずるずるした感じはよくないと思う」とやんわり言われた。

――なし崩しに、みたいなさ。うちの親も妙に期待してる節があるし……千歳と遊んでくれて助かるから、俺も甘えてて悪かった。華はまだ若いんだから、ちゃんとした恋愛しないと。

――ちゃんとした恋愛って、なに。

悔しくてたまらず、言い返した。気心も知れていて、息子とも親ともうまくやれるし、極端に太ってもいないしブスでもない。何より「未婚の若い女」であるわたしが、バツイチ子持ちの蒔生でもいいと思ってあげているのに、先方からお断りされるなんて、屈辱的ですらあった。

――わたしのこと嫌いならはっきりそう言えばいいじゃん。

――そんなわけないだろ。ただ、俺にとって華は妹みたいな存在だから、チャンネルが違うというか……女としては見られないよ。

わたしは、再び実家を出た。蒔生に振られたらしいと噂の的になるのはごめんだった。東京で契約社員の仕事にありつき、女性限定のシェアハウスを経て直と暮らし始め、二十八歳の時に兄が結婚することを母からの電話で知った。マイホーム資金を貯めたいというお嫁さんの希望もあり、実家で同居することも。自分にはもう帰る家がないんだなと思った。母はどこか気まずそうで、その気まずさをごまかしたかったんだろう、「そういえば」と唐突に蒔生の近況を語り始めた。

――蒔生くん、奥さんと復縁して、もうこっちにはいないのよ。奥さん、去年くらいに日本に戻ってきて、千歳くんも交えて会ううちに……ですって。少々のブランクはあっても、やっぱり、ほんとのお母さんがいちばんよね。

やっぱりって何だよ、と思った。

vol.3に続く

イラスト/日菜乃 編集/前田章子

一穂ミチ(いちほ・みち)

2007年『雪よ林檎の香のごとく』でデビュー。『イエスかノーか半分か』などの人気シリーズを手がける。2021年『スモールワールズ』が大きな話題となり、同作は吉川英治文学新人賞を受賞、本屋大賞第3位。『光のとこにいてね』が直木賞候補、本屋大賞第3位。今もっとも新刊が待たれる著者の一人。

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