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アンチに苦しむ/絶望ライン工 独身獄中記⑳

  • 2024.6.12
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私がインターネット活動にその身を投じるようになったのは学生の頃である。 当時遊びにいっていた渋谷の音楽イベントのスレを覗くのが楽しみで、大学の図書館のPCで匿名掲示板に張り付いていた。 内容はDJやイベントスタッフの噂や醜聞に終始しており、一見華やかに見えるパーティー界隈も裏側はこんなにも醜悪なのだと感銘を受けた。 数十人いたクルーの中に密告者がいるイベントというのはそれも含めて楽しく、週末になると「あれが例のマルチ商法やってるDJか」などと随分と悪趣味な楽しみ方をしていた。

その後は板を変え、大学生活板、デスクトップ板、ニュー速、嫌儲、就活、孤男、喪男、冠婚葬祭、Youtube、半角、その日暮らし、無職だめ板と点々と移動を繰り返し、今は人の醜さをそのまま楽しめる「X」というインターネットサービスに落ち着いた。 好き勝手何でも書けた自由なネットはとうの昔に滅び、令和のワールドワイドウェブに匿名性は皆無である。 何かを発信することは常に責任が伴い、フォロワーの数だけ銃口が突きつけられる。 そんな危険な場所にもかかわらず、地雷原を丸腰で歩く命知らずが後を絶たぬ。 ネットに本音を書くは愚者である──それが大前提だが、本稿ではこの場所をお借りし、久々に私の本音を綴ってみたい。

まずネットで意見を述べるなら其れを否定する返信もまた意見であると考える。 今日食べたラーメンが美味しかった、とラーメンの画像を投稿する。 寄せられる返信の中に、 「アフリカでは何も食べられない人もいるんですよ」 と慈愛に満ちたコメントをなさる聖母が降臨される。 これも意見である。認めなければいけない。 聖母よ、貴女はそのアフリカのために何かしてらっしゃいますか? そんな詭弁はいくらでも思いつくが、これに反論するもまた愚者、いや聖母である。 聖母は現人神でおられるので、こんな私の散文ではあまりにお目汚しだ。 こんな汚い世界をこれ以上見なくて済むように、ブロックという「意見」で返歌申し上げるが丸い。

同様に趣味である動画投稿、これに寄せられるコメントに関しても同じ考えである。 私は好き勝手に動画を発表する。それに皆が自由にコメントする。それを私も又自由に楽しむ。 ハートマークをつけたり、返信したり、唸るような内容であれば固定して皆にも見てもらう。 例え否定的な内容であっても、それはそう感じた貴重な意見だ。余程の内容でない限り削除やブロックはしない方針ではあるが、それもまた私の自由であり、権利である。

否定的なコメントのスクショを撮り、SNSで晒す動画投稿者はとても多い。 特に女性に多いと感じる。女性動画投稿者は容姿に対してのコメントが多く、中年男性である私には計り知れない気苦労があると想像する。 しかしながら投稿者本人が「容姿に対するコメントやめてください」と発信するは正解か分からぬ。 配慮なきコメ主は貴方のSNSなど見ていないだろう── 出席者に向けて「欠席者が多い、けしからん」と怒鳴り散らす教師と同じである。 そもそも人の思考や行動を制限する権利は誰にもないのだ。 容姿への中傷は人としての品位に欠く愚かな振る舞いであることは疑いようもないが、それに傷つくなら容姿をコンテンツとした動画投稿をやめる事も検討してはいかがか。 この悪意に満ちたインターネットで、安易に容姿を晒すは大変な危険行為である。

何かを発信すれば反動がある。 それは必ずしも発信者の望むものではない。 ときに傷つくような中傷や否定的な意見もあるが、これらをいっしょくたに「アンチ」と呼称し疎ましく思うのは健全とは思えない。 ましてや訴訟をチラつかせ、開示請求だ名誉棄損だと喚いて挑発するのは愚の骨頂である。 もちろん私にもアンチと呼ばれる方々は存在していると思うが、彼らのお陰で絶望ライン工chの公平性が絶妙なバランスで保たれていることも又事実である。 私はあまりこのアンチという言葉自体好きではない。 そうカテゴライズして小馬鹿にしているような気がするし、何より彼らもまた大切な視聴者である。 (動画の楽しみ方がやや否定的である、というだけだ) 以上を踏まえた上で、私なりの見解を述べる。

よく耳にする「アンチなんてやることのない暇人だから、気にするな」 これは0点である。何も彼らのことを理解ってないし、理解しようとする気がない人のロジックだ。 アンチは誰よりも対象者を愛し、そして人生の中核に据えて日々を生きる活力に満ちた人たちである。 暇人ではないく、皆忙しい。仕事の合間を縫って、アンチ活動に勤しんでいる。 活動を支える根源は充実感だ。対象者の醜聞を仲間と共有する喜び、コミュニティに属する連帯感。 アンテナを張り、常に新しい情報を得ようとする知的好奇心、探求心。 そして社会人としての正義感に衝き動かされ、まとめサイトを作成したり、ブログを執筆したり掲示板に書き込んだりしている。 やっかいな狂信者を定期的に晒すことで、ファン層の自浄作用も促す潤滑油としての役割もあり、コンテンツが永く続くために必要な「多様性」の一つが彼らアンチの存在と考える。 誰も否定する者がいなくなった時、コンテンツは終焉を迎える。 争いのない平穏な世界なら、これまでの発展はなかった。

ところでネットで誹謗中傷を繰り返すアカウントの中身は、孤独で所得の低い50代男性がその半数以上を占めるらしい。 前項を良いアンチとするなら、彼奴等は悪いアンチである。 彼らを衝き動かすのは正義感や知的好奇心ではなく、嫉妬や憎悪、充実感のない自身の人生への失望や怒り。 その矛先を反撃してこなさそうな安全なターゲットに向けるのは、店員さんに怒鳴っているオッサンと同じ属性のように思う。 彼らは自分より下を見て安心する、インターネット説教おじさんだ。 ネットを彷徨い、自分より不幸な発信者を見つけては馬鹿にすることで己の尊厳を守る。

絶望ライン工chも開設当初は彼らの尊い揺り籠であり、動画は辛辣なコメントで溢れていた。 「そんなんだから貧乏なんだ」 「自業自得、何も努力してこなかったお前が全部悪い」 「底辺乙 (笑) (笑) (笑) 惨めな人生(笑) (笑) (笑)」

絶対に反撃してこないサンドバックとしての役割はこの3年間で十分に果たしたと自負するが、いつの頃からか彼らは皆渡り鳥のように何処かへ去ってしまった。 しぶとく続いた私の動画投稿。 どうやらそれは、彼らの自尊心をいたく傷つけるものであったらしい。

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