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せんべい汁もカニしゃぶも出てくる喫茶店? 悩める人たちを迎えるのは、毎回エプロンが個性的なマダム店主

  • 2024.6.10
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ダ・ヴィンチWeb
『注文の多い喫茶店』(少年画報社)

日常に疲れてしまった時、ちょっとしたモヤモヤを抱えている時、ふっと息をつけるお店があれば、それだけで明日もがんばれる。美味しい食事、居心地のいい店内、気さくに話せる店主。それらすべてが揃ったお店が、とあるコミック作品の中に存在する。

グリコ氏によるコミック作品『注文の多い喫茶店』(少年画報社)は、タイトルから宮沢賢治の名作を彷彿とさせる。宮沢賢治の作品では、店側が客に多くの注文をするが、本書はその真逆をいく。東京の片隅にある「モルティ・オルディニ」――「多い注文」という名の飲食店は、「なんでもあるお店」をコンセプトとしている。たくさんのランプが両脇に並ぶ不思議な回廊を通ってたどり着くと、そこには一見バーを思わせるようなおしゃれな空間が広がっている。

おとぎ話のような入り口をくぐれば、小粋な店主が多種多様な料理を提供してくれる。鉄板ナポリタンなどのオーソドックスなメニューをはじめとして、冷やし中華、赤味噌の味噌汁、カニしゃぶなど、まさに「何でもござれ」だ。店主は、「いかめし」を提供する時には「イカ釣り船のエプロン」を着用するなど、お客の食べたいものに合わせて毎日エプロンを取り替える。そんなおかしみもまた、本書の味わいの一つである。

第1話で登場するのは、大学1年生の小山内紅実。青森から上京して1ヶ月、軽音サークルに所属する彼女は、レコードを買うお金を捻出するために食事を抜く生活を続けていた。しかし、彼女が食事を疎かにしていたのには、別の理由があった。ある日、ふと見上げた目線の先にある看板に導かれ、紅実は「モルティ・オルディニ」の扉を開ける。

「何でもある」と謳われているとはいえ、紅実は自分が一番食べたいものはどうせないだろうと諦めていた。しかし、店主に促され「青森のせんべい汁」を食べたいと口にすると、店主は事もなげに「あるわよ」と返した。こんなおしゃれな喫茶店で、青森のせんべい汁が食べられる!?――そんな驚きとワクワクが、登場人物の表情を通して読み手にも伝わってくる。

私自身、東北の出身なので、せんべい汁には馴染みがある。鍋に限らず、南部せんべいは身近なおやつで、よく仏壇に供えられていた。せんべい汁専用の「かやきせんべい」は、小麦粉を原材料とした白くて軽いおせんべいである。醤油味のスープに、鶏肉やたくさんの野菜を入れて、その中で数分程度せんべいを煮る。出汁をたっぷりと吸い込んだせんべい独特の食感と歯ごたえは、まさに絶品である。

せんべい汁の優しい味は、紅実にとって祖父との思い出と直結していた。毎日食べても飽きないほど大好きなせんべい汁を、祖父と競い合うように食べる。その時間は、紅実の心と体を元気にしてくれた。上京したい気持ちを真っ先に理解して、応援してくれたのも祖父であった。

“「お前(おめ)、変わったモン好ぎだはんで、外さ出ていろんなモノ見でこい」”ダ・ヴィンチWeb

祖父のこの言葉を胸に、紅実は上京を決意した。しかし、紅実が上京した矢先に祖父は体調を崩し、呆気なくこの世を去った。「またすぐ帰ってくる」と交わした約束は、宙に浮いたまま消えてしまった。

“「じいちゃんが横にいないせんべい汁に、食べるイミはあるのかな」”ダ・ヴィンチWeb

そう言って涙をこぼす紅実に対し、店主は「重ねてきた想いはなくならない」と伝える。

「大好きな味がなくなるんだったら、もう何を食べても変わらない」と思っていた紅実は、店主の言葉で祖父との思い出を取り戻す。亡くなった人はかえらないし、失われたものは戻らない。それでも、“重ねてきた想い”そのものは、決して消えない。記憶は常に隣にあって、蓄えられた温かい想いは知らぬ間に人を強くする。

お腹も心もいっぱいにしてくれるお店は、今日も東京の片隅でひっそりと開店している。悩める人の心をゆるませ、お腹を満たし、小粋な言葉を贈る。そんなお店に出会えた人は幸運だと、誰もが思うだろう。しかし、店主は「それは私の力じゃない」と言う。「彼女たちがもともと持っている力」なのだと、新しいものを見つけて、踏み出して、扉を開ける力を持つ人だからこそ巡り会えるのだと、そう言い切る店主の横顔は、清々しいほどにきっぱりとしていた。

「何でもある」お店。「自分が求めている味」に出会えるお店。訪れる人にさりげなく力を与え、ゆとりを生み出せる場所。それが、喫茶「モルティ・オルディニ」である。私がこの店を訪れたなら、何を注文するだろう。そんな想像も、また楽しい。美味しくて温かい物語をお腹いっぱい味わった夜は、いつもより優しい夢を見られそうな気がする。

文=碧月はる

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