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【黒柳徹子】オードリー・ヘプバーンの映画が公開されるたびに、真っ先に映画館に足を運びました

  • 2024.6.9
黒柳徹子さん
©Kazuyoshi Shimomura

私が出会った美しい人

【第26回】女優 オードリー・ヘプバーンさん

たった一本の映画によって、世界中の「美」の基準がひっくり返る。そんなことがあるなんて、今の時代を生きる人には想像できないかもしれません。でも、私が皆さんぐらいの年齢のときには、あったんです。終戦から10年が経とうとする1954年に日本で公開された『ローマの休日』は、それまで私が見たこともなかったおしゃれや、ロマンチックな出会いと別れ……。いろんな夢がぎゅうぎゅうに詰まった映画でした。

ヨーロッパにある某国の王位継承者であるアン王女が、ローマを訪問中、滞在先のホテルをこっそり抜け出し、1日だけ行動をともにした新聞記者と恋に落ちるというお話。それまで私が熱狂したハリウッド映画、たとえば『風と共に去りぬ』には、19世紀のアメリカが舞台なので、ウエストをコルセットで締め上げて、ペチコートを何枚も何枚も膨らませたスカート、肩や胸の周りにはレースやフリルを何枚も重ねるようなドレスが出てきました。しかもその映画は、カラーで、日本公開の13年も前、1939年に作られたものだったんです! 戦争で物資のない時代を経験し、当時ティーンエイジャーだった私は、それを観て、フリルとかリボンとかレースとかビーズとか刺繡とか、そういう美しい装飾に、猛烈な憧れを抱きました。

ただ、『風と共に去りぬ』の世界は、いくら憧れても手が届かないものだったのに、『ローマの休日』は、「これ、今すぐ真似してみたい」というおしゃれの宝庫! しかも、西洋の女性はグラマーでセクシーであることが絶対条件のような気がしていたところに、背が高くて痩せていて、ギョロッとした目の女性が、窮屈だった世界から飛び出して、自由に笑ってはしゃいで、それがとてもキラキラして見えたのです。アン王女が、何か新しいことに挑戦するたびに、一緒になって、「わあ!」とか「まあ!」なんて、ずーっと言葉にできないワクワクやドキドキがありました。

当時は、既成服を売るお店が選べるほどにはなくて、家のミシンで、ファッション雑誌なんかについている型紙を参考に服をつくることも多かった時代です。私も、『ローマの休日』を観て、母に「こんなブラウスが着たい!」なんてせがんだりして、その後も、オードリー・ヘプバーンの映画が公開されるたびに、真っ先に映画館に足を運びました。正直、ストーリーが面白いとは言えない映画もあったけれど、スターとは不思議なもので、その人が出ているだけで、「観てよかった」なんて思えるのです。

でも、そんな彼女は、実はコンプレックスの塊でした。足が大きいこと、痩せすぎなこと、鼻孔が広いこと、鼻筋がまっすぐではないこと、歯並びが悪いこと……等々。でも、だからこそ、「こんな顔の自分に、目をかけてもらっただけでもありがたい」という謙虚な心で作品に取り組み、セリフを完璧に覚え、時間を厳守し、周囲の人たちへの感謝と尊敬を忘れなかったそうです。

芝居の勉強のためにニューヨークに留学していたとき、森英恵さんが主催するホームパーティでオードリーとお会いしたことがあります。女優業からは距離をおき、第二子を出産して、イタリアに住んでいた時期に、たまたまニューヨークを訪れたタイミングでお目にかかることができたのです。当時は40代、輝くような美しさで、エレガントな振る舞いが素敵だったのはもちろんですが、私の心に強く残ったのは、なんとも言えない繊細な影のようなものでした。「私は内向的な性格」と自認されていたように、役を演じることでしか、自分の中にある感情を解放できない人だったのかもしれません。

オードリーは1993年、63歳でこの世を去ります。彼女は自伝を書かなかったので、私がお会いしたときに感じた「影」について、それがどこから来るものかは想像しかできないけれど、いろいろな人の証言から、彼女のコンプレックスは、容姿以外にもあったことがわかりました。6歳のときに父親が家族を捨てて政治活動に走り、母親も愛情表現が下手な人であったこと。いくつもの恋愛に傷つき、結婚生活も2度破綻しています。容姿にしても愛情にしても、彼女なりのいろんな渇望感が、その魅力になっていたとしたら? 才能に甘んじることなく葛藤する姿こそが、人間の輝きにつながるなんて……。誰の人生も、決してイージーゴーイングじゃないな。楽しいこと、面白いことが大好きな私でも、やっぱりそんなふうに思うのでした。

アンドレア・ドッティさん オードリー・ヘプバーンさん

女優

オードリー・ヘプバーンさん

1929年5月4日、オランダ貴族の母とイギリス・オーストリア系の父との間にベルギーに生まれる。6歳で父が出奔。イギリスに移住し、バレエを習う。第二次世界大戦前はオランダに在住、食糧難の中で栄養失調に苦しむ。戦後、バレリーナの夢を断念し女優の道へ。『ローマの休日』でスターダムに躍り出てからは、15年間にわたる活動期間中、16本の映画に出演し、そのすべてが世界中で大ヒット。1988年からはユニセフの親善大使として活動。1992年9月にガンが見つかり、翌年1月63歳で逝去。写真は1969年、2番目の夫である精神科医アンドレア・ドッティと。

─ 今月の審美言 ─

「才能に甘んじることなく葛藤する姿こそが、人間の輝きにつながることを、彼女を通して知りました

取材・文/菊地陽子 写真提供/Getty Images

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