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【賢者の選択心理テスト】人は“何か”を待っている

  • 2024.6.5

津田秀樹先生「今回は、太宰治の短編「待つ」です。これは文庫で2、3ページの、とてもとても短い小説。私は太宰治の作品の中で、一番、好きです。最初に読んだのは中学生の頃ですが、それ以来、ずっと胸に残っています。

ある若い女性が、毎日、買い物の帰り道に、駅のベンチに座って、人を待っています。といっても、誰か待っている人があるわけではないんです。誰を待っているのか、彼女自身にもわかりません。

「私は誰を待っているのだろう。旦那さま。ちがう。恋人。ちがいます。お友達。いやだ。お金。まさか。亡霊。おお、いやだ。」

待っているのが人なのかどうかも、彼女には確信がありません。

「いったい私は、毎日ここに坐って、誰を待っているのでしょう。どんな人を? いいえ、私の待っているものは、人間でないかも知れない。」

「はっきりした形のものは何もない。ただ、もやもやしている。けれども、私は待っている。」

彼女は待っていますが、でも、誰か(何か)が現れるのを、怖れてもいます。

「どなたか、ひょいと現われたら! という期待と、ああ、現われたら困る、どうしようという恐怖と、でも現われた時には仕方が無い、その人に私のいのちを差し上げよう、私の運がその時きまってしまうのだというような、あきらめに似た覚悟と、その他さまざまのけしからぬ空想などが、異様にからみ合って、胸が一ぱいになり窒息するほどくるしくなります」

母親と二人で家にいて、縫い物などをしている、この若い女性は、「私だけが家で毎日ぼんやりしているのが大変わるい事のような気がして来て、何だか不安で、ちっとも落ちつかなくなりました。身を粉にして働いて、直接に、お役に立ちたい気持なのです。私は、私の今までの生活に、自信を失ってしまったのです。家に黙って坐って居られない思いで、けれども、外に出てみたところで、私には行くところが、どこにもありません。買い物をして、その帰りには、駅に立ち寄って、ぼんやり駅の冷たいベンチに腰かけているのです」

彼女は、期待しながら、恐れながら、何かを一心に待っています。

「ぱっと明るい、素晴らしいもの。何だか、わからない。たとえば、春のようなもの。

いや、ちがう。青葉。五月。麦畑を流れる清水。やっぱり、ちがう。ああ、けれども私は待っているのです。胸を躍(おど)らせて待っているのだ。」

あなたは彼女の気持ちがわかりますか? あなたの意見はどの人に近いですか?

A.「わけのわからないものを待っているなんて、意味不明。ちゃんとしたものを待つべき」

B.「待っているだけでは仕方ない。自分で努力したり行動を起こさなければ」

C.「わかる気がする。自分も何かを待っているのかもしれない」

心が決まったら解説を読んでください。

このテストから学ぶテーマ

非現実的で幻想的で正体不明で、でも大切な“何か”

国語の時間なら、「この主人公の女性は、何を待っているのでしょう?」ということを先生は問うのかもしれません。

でも、何を待っているのかということよりも、「人は、このように、正体のはっきりしない何かを、人生で待っているのではないか?」ということのほうが、私には重要に思えます。

たとえば、誰かが「白馬の王子様」を待っていたとしましょう。多くの人は、それを笑うでしょう。そんなものは現れないし、だから、そんなものを待つのはバカげているからです。

でも、恋愛や結婚に、まったく幻想を抱かないということがあるでしょうか?

逆に、「私はお金のためだけに生きている」という人がいるとして、この人は、本当に現実的と言えるでしょうか?

お金を手にすれば幸福になれる、という幻想にとらわれている部分はないでしょうか?

実際には、大金を手にすれば、かえって幸福度は減っていくとされています。お金だけでは埋められないむなしさがあり、人間関係などで問題が生じやすいからです。

同じことで、出世とか、成功とか、そういう願いにしても、どんなに現実的で実際的に見えても、そこにはどこか「白馬の王子様」と同じような、非現実的で幻想的な“何か”が含まれています。

では、人は人生にいったい何を求めているのでしょうか?

それはけっきょくのところ、正体不明の“何か”としか言いようのないものでしょう。つまり、人は現実だけを生きているわけではなく、必ず非現実的な願望を持って生きている、ということです。

人生で何か目覚ましい大きなことが起きれば、たとえばミュージシャンになるのが夢で、 CDデビューできたとしたら、その“何か”がやってきたと感じるでしょう。

しかし、ミュージシャンとしての生活がしばらく続けば、また“何か”を待っていることに気づくはずです。

その“何か”は非現実なので、決して本当に手にすることはできません。でも、それが現実に人を動かします。

何が言いたいかと言うと、人は皆、この「待つ」の主人公の女性のように、非現実的で幻想的で正体不明の“何か”を待っているということです。若い頃はとくに、そして何歳になっても心のどこかで。

そのことに無自覚で、「自分はどこまでも現実的」と思い込んでいると、かえって足元をすくわれます。現実的だったはずの人生に、正体不明のむなしさを感じるようになって、その原因がつかめなかったり。また、「待つ」の主人公のように、駅のベンチで待ち続けていても、それはそれで何も起きないむなしい人生になりかねません。

人は現実だけで生きているわけではなく、非現実も含めて生きている。そのことをよく自覚した上で、非現実も大切にしながら、現実的に生きる、それが大切なのではないでしょうか。 新年を迎えるにあたって何か目標を決めようとしている人も多いかもしれません。そこで、今回はこのテーマを選んでみました。人生の目標を決めるときには、現実と非現実のバランスに、ぜひ気をつけてみてください。

<賢者の答え>

A「わけのわからないものを待っているなんて、意味不明。ちゃんとしたものを待つべき」を、もっともだと思ったあなたは……

あなたは人生に具体的で現実的な目標を持っているほうでしょう。何かに悩むときも、自分が何を悩んでいるのかわからないということは、ないでしょう。それは立派なことですし、それだけ夢をかなえ、目標に到達できる可能性が早いでしょう。

ただ、自分のことを「完全に現実的で、わけのわからない何かを待っているような人とはちがう」と思ってしまうと、あてが外れてしまうかもしれません。どういうことかと言うと、せっかく夢や目標に到達しても、その後でむなしさを感じてしまうかもしれません。

どんな夢も目標も、それで幸福になれるとか満足できるとか不安がなくなるとか、そうした思いを含んでいます。しかし、それは「白馬の王子様」と同じで、完全にかなえられることはありません。いったんはかなえられたと思っても、必ず満たされない思いが出てきます。そこで「こんなはずではなかった」と思ってしまうと、それまでの努力や犠牲がむなしくなってしまいます。

そうではないのです。人が人生に求めるものは、もともと半分は非現実的なものなのです。人は現実と同時に非現実も生きているのです。ですから、たとえば「完全な幸福」というものは、得られると思うのも間違いですが、得られないと思うのも間違いです。非現実を承知の上で、そこに向かって進んで行くことが、唯一可能なことであり、それは決してむなしいことではありません。

人生の目標を決めるときには、それがいかに現実的な目標であっても、そこに非現実的な“何か”も含まれていることを意識するようにしてみてください。それが自覚できていれば、どこまでも前向きに進んで行けます。

B「待っているだけでは仕方ない。自分で努力したり行動を起こさなければ」を、もっともだと思ったあなたは……

あなたは、求めるものがあるときには、そこに向かって進むのが当然と思うほう。努力家で行動的なほうでしょう。実際には充分な努力や行動ができていないとしても、ちゃんとしなければという思いは持っているはずです。

ですから、「何か起きてくれるといいなー」などと言いながら、何の努力もしない人を見ると、イライラしてしまうかもしれません。

でも、何が起きてほしいのかがハッキリしなければ、努力することも、行動を起こすこともできません。そして、その何かをハッキリさせることは、そんなに簡単ではありません。そして、ハッキリできないことは、必ずしもその人の欠点とは言えません。

とはいえ、待っているだけでは何も起きないというのは、まったくその通りです。少なくとも、何か起きる可能性はとても低くなってしまいます。たとえ不確かでもいいので、どこかに進んでいかないと、どこにもたどり着けません。 ですから、あなたの努力し行動する姿勢は、素晴らしいものです。ただ、待っていることしかできない人もいますし、待っているしかできないときもあります。自分がそうなってしまうこともあります。そのとき、あまり人や自分を責めないようにしてください。

「待つ」の主人公のように、わけのわからない待ち方をしてしまうときが、誰にでもあります。そして、それは必要な時間でもあります。そういう思いをしたことがあるのと、ないのでは、人生の味わいがちがってきます。

人生の目標を決めるときには、どう努力してどう行動するという現実的な面を決めるのも、もちろん大切ですが、あなたはそれは得意なほうなので、むしろ自分のそうした夢や目標の背景に、非現実的で幻想的で正体不明な思いもあることに、思いをはせてみてください。自分が何を求めているか、より理解が深まると思います。

C「わかる気がする。自分も何かを待っているのかもしれない」を、もっともだと思ったあなたは……

あなたは、自分が人生に求めているものが、非現実的で幻想的で正体不明なものであることに、なんとなく気づけています。 具体的な夢や目標を考えてみても、何かちがう気がしてしまうでしょう。素敵な恋人が現れれば、この思いは満たされるのか? そんな気もするけど、何かちがう気がする。すごい仕事ができれば、この思いは満たされるのか? そんな気もするけど、何かちがう気がする。大金が手に入ればこの思いは満たされるのか? そんな気もするけど、何かちがう気がする。

もやもやとした何かを、現実的な何かに置き換えることができず、そんな自分にイラ立ちを感じることもあるかもしれません。なぜちゃんとした夢や目標が見つからないのかと。 でも、それはあなたが、自分の思いの非現実性をちゃんと自覚できているからこそでもあります。現実だけの夢を目標にすることができないのは、ある種、当然なのです。

とはいえ、そのままでは、「待つ」の主人公のように、ただあてもなく待つだけの人生になってしまいます。 それでも、「待つ」の主人公は、ただ家にいるのではなく、駅のベンチで待つようになります。つまり、少しは行動を起こし始めています。駅のベンチで待つのは、見当ちがいでムダかもしれません。でも、たとえ見当ちがいでも、何かをすれば、何か起きる可能性は高まります。 人生の目標を決めるときに、自分のもやもやした思いを、現実的な夢や目標に置き換えられないときは、とりあえず見当ちがいでもいいと割り切って、具体的な目標を立ててみてください。それは必ず前進になります。

津田先生より

今回はちょっと抽象的で、難しかったかもしれません。なにしろ、言葉にできない“何か”についてのお話なので。言葉にできないものを言葉で表すのが小説ですから、そういう意味で、この太宰治の「待つ」は、短いながらも、見事なものだと思います。私もいまだに何かを待っているのだと思います……。

お話/津田秀樹先生

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