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マルクスの巨大な顔面がエモすぎる。ある意味の「映え」が知的興味をそそるドイツの工業都市を発見

  • 2024.6.3

旅先の「映える」写真を、競って撮影する人が多い現在、既視感のある風景を撮ってもさほど自慢にはなりません。そこで今回は、日本人にはまだそれほど知られていない(はずの)ドイツの町を紹介します。ある意味で「映える」、エモい写真が撮れる可能性が高い、ドイツ東部のザクセン州にある工業都市のケムニッツです。西ヨーロッパにありながら、社会主義のモデル都市として発展してきた工業の町で、近年は、文化都市にトランスフォームしようと試みているユニークな土地でもあります。

歴史的建造物と旧ソ連風の集合住宅が共存する

ケムニッツの中心部にあるオペラハウス。第二次世界大戦の空爆で壊れたものの再建。東西ドイツ時代には、東ドイツで最もユニークなシアターと評価された

恐らく、日本人のほとんどがケムニッツの地名を知らないはずです。もちろん筆者も知りませんでした。

国際政治に詳しい人であれば、2018年(平成30年)に発生した極右デモと対抗デモの衝突のニュースを覚えているかもしれません。

しかし、その話題を記憶している人もきっと少数派のはず。ケムニッツどころか、ケムニッツを含むザクセン州(ドイツの東端)の位置すら分からない人の方が多いのではないでしょうか。

ただ、ドイツがかつて、東西に分かれていた話は有名です。ザクセン州は当時、旧東ドイツ側でした。

 

 

現地ガイドのエーデルトラウト・フーファーさんによれば、州内に流れる川の名前から命名されたケムニッツは東西分裂前、第二次世界大戦中の空爆で、都市の8割近くが焼け野原になったそう。

しかしその後、ソ連(現・ロシア)と固く結び付く東ドイツの一部になり、東ドイツ時代は、同国最大の工業都市の1つになるまで復興を遂げたと『大辞泉』(小学館)にも書かれています。

1953年(昭和28年)5月10日には、カール・マルクス・シュタット(シュタット=市)と改称しました。社会主義のモデル都市として「東側」っぽい町に以後、生まれ変わっていきます。

1990年(平成2年)にはベルリンの壁が崩壊し、東西ドイツが統一され、ケムニッツという名前に戻りますが、その「東側」のテイストは町の建築群に残ります。

歴史ある建築物のレッドタワー(写真中央)と旧東ドイツのモダン建築(写真左)が共存する町並み

もちろん、新旧の両市庁舎、城壁のあった時代の名残であるレッドタワーなど歴史的建造物の幾つかは戦禍を免れています。再建された建物も当然あります。

しかし、それらの建築物に加えて、旧ソ連圏にあるフルシチョフカ風の無個性なアパートメント(flat)群、ならびに旧東ドイツ時代のモニュメントおよびモダン建築が混在しているため、ケムニッツの町全体が、どことなく「エモい」感じになっているのです。

旧東ドイツ時代のアパートメントをリノベーションした住宅

カールマルクスに手足は不要

その町中でも、カメラを(スマホを)自然に向けたくなる印象的な撮影スポットは間違いなく、カール・マルクス・モニュメントです。

カール・マルクスとは、ドイツの経済学者、哲学者にして革命家です。著書『資本論』が特に有名で、マルクスが発展させたマルクス経済学は、ソ連のような社会主義国誕生のきっかけとなりました。

現地ガイドのエーデルトラウト・フーファーさんによると、カール・マルクスはケムニッツに一度も訪れていません。

しかし、彼の名前が町になった理由としてはケムニッツがもともと、労働者の町だったからです。

14世紀に発達した交易・手工業をベースに、綿織物工業、ならびに機械、機関車、自動車、鋳物および電気工業で1800年以降に栄えた町だと『日本大百科全書(ニッポニカ)』(小学館)にも書かれています。

そのケムニッツを、社会主義のモデル都市として発展させようと考えた時、政治的な意思決定者らは、カール・マルクスの名前を都市に与えようと当然のように考えました。

さらに、政治的なスタンスを強調するために、分かりやすいモニュメントを指導者らは必要とします。

そこで、ソ連の彫刻家であるルー・ジェフィモヴィッチ・カーベルを招へいし、1965年(昭和40年)に彫像の制作をスタートさせたのです。

最初は、高さ11メートルの全身像のアイデアもあったそうです。オーソドックスな発想ではないでしょうか。

当初のアイデアのまま完成させていたら、世界中にあるカール・マルクス像の1つ程度の扱いで今では、誰も振り向いてくれないかもしれません。

しかし「カール・マルクスに手足は不要だ」とカーベルは考え、高さ7.1メートル、重さ40トン、95のパーツからなる青銅の顔面を、高さ4.5メートルの花こう岩の台座に乗せ、1971年(昭和46年)に完成させました。

モニュメントの背後の建物壁面には、社会主義のマニュフェスト「万国の労働者よ、団結せよ!」の言葉がドイツ語・英語・フランス語・ロシア語で掲示されています。

遠くから見るとそれらの言葉が、仏像の光背のように、独特の重々しさをモニュメントに加えている感じがします。

仏像つながりで言えば鎌倉大仏が、台座を含め13.35メートルの高さ(重さは121トン)。ほぼ同程度のサイズです。

しかし、人体を省略し顔面を強調したデザイン、権威を示す厳格な表情、ならびに巨大ブロックのようにデフォルメされたあごひげおよび頭髪が、数字以上の重たさを感じさせてくれます。

道行く観光客は著者も含め、町の中心部(冒頭の極右デモの活動もモニュメントの前で開かれた)に不意に現れる巨大なモニュメントに思わず視線が釘付けになります。

その後、恐る恐る近付き、カメラを自然に構えているはず。

後は、好みのテイストに合わせて、セルフィ―を撮るなり、アーティスティックな写真を撮るなり自由自在。腕の見せどころです。

「美しい」より「興味深い」都市

ケムニッツの面白さは、カール・マルクス・モニュメントだけではもちろんありません。パブリックアートの豊富さも挙げられます。

例えば、デパートだった建物を、市立図書館、教育施設、自然歴史博物館などの入る複合施設につくり替えたDAStietz Chemnitzの1階共有フロアには、2億9100万年前の噴火で石化した木の幹による「森」が再現されています。

旧東ドイツ時代の1974年(昭和49年)完成の建物を複合施設にリノベーションしたStadthalle Chemnitz周辺も、社会主義的都市づくりを目指した、東ドイツ時代のモダン建築が林立し、パブリックアートも多彩です。

ケムニッツ生まれの建築家によって旧東ドイツ時代に設計されたホテルを背景にしたパブリックアート

知名度こそ劣るケムニッツですが他の有名都市を押さえて、2025年(令和7年)の「欧州文化首都」開催地にも選ばれています。

「Chemnitz is not beautiful but interesting.(ケムニッツは、美しいとは言えないけれど興味深い)」

ケムニッツで出会う人たちは、ドイツ国内の(あるいはヨーロッパ各地の)美しい都市との比較を通じて、控えめに笑いながら口をそろえて言っていました(ドイツ語の分からない筆者には英語で)。

ケムニッツの人々

ケムニッツを訪れれば「マイナーな都市」を開拓した際の静かな満足感も得られます。そのレアな体験は当然、SNS(会員制交流サイト)のポストに一種の面白さを添えてくれるでしょう。

ケムニッツ郊外にもパブリックアートは多い。写真は、アウエ・バート・シュレーマにあるクアパーク内のインスタレーション。印象的なアート作品の数だけ「映える」写真撮影の可能性も広がる

同じザクセン州のドレスデンやマイセンはもちろん、首都のベルリンからもケムニッツはドイツ鉄道(BD)で無理なく行ける距離に位置します。

ちょっと「エモい」および(または)変化球のような「映える」写真を旅のお土産にしたい人は、東ドイツ時代の歴史が色濃く残るケムニッツに、ドイツ旅行の際には足を延ばしてみてください。

ベルリンからケムニッツへ向かうドイツ鉄道(BD)の車窓から見た菜の花畑と風力発電の風車

[写真・文/坂本正敬]

[参考]

※ Germany migrants: Protesters face off in Chemnitz 28 August 2018 - BBC

※ The Petrified Forest - CHEMNITZ

※ Gastronomical part "DAStietz - Kulturkaufhaus Chemnitz" Reconstruction and Renovation of the listed department store TIETZ - C&E

※ Rudolf Weisser - Architectuul

※ Stack by Tony Cragg in Aue-Bad Schlema - Kulturhauptstadt Europas Chemnitz

 

 

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