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古内一絵がアンケートを取って書いた小説。「あなたにとって隠れ家とは?」で世の中のたくさんの“ハイダウェイ”を知ったと語るインタビュー

  • 2024.6.1
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『銀色のマーメイド』で第5回ポプラ社小説大賞特別賞を受賞し、2011年にデビューした古内一絵。新作の『東京ハイダウェイ』(集英社)では、東京都心部で息苦しく生きる人々の心休まる「隠れ家」を描いている。

この度彼女へインタビューを実施し、彼女が本作に込めた思いとはどのようなものなのか、なぜ「隠れ家」なのか、作品のディテールを辿った。

――『東京ハイダウェイ』で描かれる登場人物たちのハイダウェイ(隠れ家)は、どれも実在する場所ばかりですね。つい、聖地巡礼してみたくなりました。

古内一絵さん(以下、古内):東京って、お金がないと楽しめない場所だと思われがちですが、実はそうでもないんだよってことを描きたかったんです。

きっかけは、私が会社を辞めたとき、パートナーが趣味のジョギングに誘ってくれたこと。本音を言えばまるで気乗りがしない……というかイヤでたまらなかったんですが(笑)、ためしに走ってみることにしたんです。皇居や上野公園、代々木公園や外苑……コースはいろいろでしたが、それぞれの場所に自然があふれ、東京でこんなにも四季折々の景観が楽しめるのか、と驚きました。

――意外と古い建物が残っていたりして、東京って、散歩するだけでも楽しめますよね。

古内:そうなんです。午前中はそんなふうに走って、午後は近隣を散策していると、大金を使わなくても遊べるスポットが多いことにも気がつきました。たとえば作中に登場した東京国立近代美術館は、コレクションなら大人1人500円、週末の17時以降は300円で入れます。無料で楽しめるインスタレーションが街中に設置されていることもあるし、上野は歩いているだけで昔の西洋建築が楽しめる。1話と最終話に登場する港区立みなと科学館のプラネタリウムも、本当に、虎ノ門のオフィス街にあるんですよ。しかも、お昼に無料で上映している。

――それも、本当にあることなんですね。

古内:実際、平日のお昼の無料上映に行ってみたから、確かです(笑)。週末に走っているときに見かけて、いったいどんな人が訪れるのだろうと気になって。そうしたら、プラネタリウムという場所からイメージされる、子ども連れやカップルではなく、あきらかに会社で働いているんだろうなという男女ばかり。それも、ほとんどが一人客。みんな、まばらに座って、20分間、ただひたすらぼうっと星を眺めている。いいなあ、って思いました。オフィスの中にぽっと現れたオアシスみたいじゃないですか。そのとき浮かんだ「隠れ家」という言葉をテーマに小説を書きたいと、すぐに担当編集者さんに連絡をしました。そして、アンケートをとっていただいたんです。お題は「あなたにとって隠れ家とは?」。

――集まった答えを読むだけでおもしろそうですね。

古内:おもしろかったですよ。幅広い世代の、いろんな立場の方に、アンケートをとってくださったので。世の中にはこんなにもたくさんの隠れ家があるものか、そしてこんなにも隠れる場所が必要な世の中を生きているのか、としみじみ感じました。

そのなかに、初恋の人が早逝してしまい、夢の中で会いに行くのが私の隠れ家です、と書いてくださった女性がいて、その方には個別でコンタクトをとり、取材させていただきました。

――誰、とは書きませんが、そのエピソードは作中で切ない痛みをともなって描かれていますね。

古内:そんなふうに、私一人の頭や、個人的な交友関係だけでは思いつかない、生身の声を聞かせていただけるのが、アンケートのいいところですね。アンケートをもとに小説を書くスタイルを最初にとりいれたのは『アネモネの姉妹 リコリスの兄弟』(2019年刊行)を書いたとき。編集さんからいただいたお題は姉妹だったのですが、あまりにありふれたテーマでしょう。なにかヒントを得られないかと「兄弟姉妹に言えずに今も心に残っていることはありますか?」とアンケートをとってみたんです。そうしたら、想像の斜め上をいくような回答がたくさん集まって……一つとして似たものはなく、コメディからホラーまで書けそうなくらいバリエーションが豊か。この世には平凡な人間など一人もいないのだと思い知らされました。

――それも、読んでみたい(笑)。今回、アンケートをとったことで気づいた、隠れ家の条件みたいなものはありますか?

古内:やっぱり、一人になれるということですね。物理的に一人になる、というよりも、誰かの目を気にしないで済むというのが大切なのかな、と。回答のなかには「妻以外の女性」というものもあって、それはどうかと思うんですけど(笑)、ようするに、しがらみから解放されたいということなのだろうと思いました。

どこにも属していない、責任を追及されることもない、ただ自分が自分でいられる場所。運動している時間を挙げている方が多かったのも、体を動かしているときには、すべてを断ち切って、何も考えずに済むからじゃないでしょうか。

――身を潜めたいというより、日常から隠れたいということなんですね。

古内:隠れ家というのは、束の間の逃避する場所ではあるけれど、ただ逃げているだけでは何も解決しません。作中にも書いたように、最近は「逃げてもいいんだ」と優しく語られることがとても増えて、それじたいはいいことだと思うんだけれど、じゃあどこに逃げればいいのか、逃げた先でどうすればいいのかを、教えてくれる人は誰もいない。そこは自分でどうにかしなさい、と突き放してくる。それは優しくないな、と思うんですよね。震災が起きたときやコロナ禍で政治家がよく使っていた「自助」という言葉の無責任さと、何も違わないのではないか、と。

――逃げてもいいけど、その先で困ったことが起きても自己責任、という感じはありますよね。

古内:自己責任も、いやな言葉だなあと思います。実際、どうにかできるのは自分だけなのだからしょうがないな、と自分で自分を奮起させるためにその言葉を使うのはいいと思うんです。でも、他人に向けてたやすく使っていい言葉ではないだろう、と。

「逃げてもいいよ」というのは、美しい言葉で現実をうやむやにさせる象徴のような気がして、それは一つのテーマとして書きたいなあと思っていました。作中にもあるように、逃げるってけっこう大変なことなんだよ、と。どうして理不尽に攻撃してくる連中をそのままにして、被害を受けた側が逃げなきゃいけないのだ、という怒りとあわせて。

――だから「逃げ場所」ではなく「隠れ家」なんですね。

古内:そうです。プラネタリウムで星を眺めている会社員のみなさんは、逃げているのではなく隠れているんだと、私は感じたから。プラネタリウムを隠れ家にしている桐人と璃子は、それぞれ抱えているものは違うけれど、たった20分間でも、その場所で一人きりになれることで、午後からの仕事も頑張ることができる。そうして息抜きできる場所がなければ、人は頑張り続けることなんてできない。誰もがそういう場所を見つけられるといいなあという願いも、この小説にはこめています。

――エピソードごとの語り手は、性別も年代も、置かれている立場も違うので、それぞれに共感できる人がいそうですよね。誰に共感するかで、行きたくなる場所も変わってきそうです。

古内:なるべく登場人物にはばらつきをもたせよう、というのは意識しています。最初、桐人はもう少しがむしゃらに成果を求めて働く男の子にしようと思ったんですよ。でも担当編集者さんから「今の男性は勝ち負けにこだわるよりも、承認欲求を満たす気持ちのほうが強い」と言われて。誰かに認められたいと思うのと、誰かに勝ちたいと思う気持ちは、いったいどう違うんだろう?とかなり根を詰めて話し合いました。

――それで、成果主義の直也という同期が、対比的に登場するわけですね。かなり腹の立つキャラクターでしたが、だからこそ、彼はどういう思いで働いているんだろう、どこを隠れ家にしているんだろう、と気になりました。

古内:彼には彼なりのつらさがあるだろう、と私も想像しますし、いずれ直也のように譲れない人の苦しさというのも書くことになるのかもしれないな、と思います。個人的には、不器用な桐人に「そんなに頑張っても会社はなんにもしてくれないよ?」という思いもあったのですが、「そういうことを言うキャラクターを出してください」と担当さんに言われて、光彦が生まれました。

――クラゲのようにふわふわと漂う中途採用の男性で、実際、桐人に同じことを言う場面がありますね。

古内:私の会社員時代の同世代に、あの手の男性が多いんですよ(笑)。大きな組織で生き抜いている男性ほど、ふわふわしていることが多いんですよね。流れに逆らわず、長いものに巻かれながら、求められることをこなして、定年まで走り抜けていくという……。バブル期を経験した男性は、バリバリ働く俺様タイプか光彦のようなタイプに分かれる気がしますね。そして後者の存在が、意外と癒しでも支えでもありました。

――「そんなに頑張っても会社はなんにもしてくれない」という古内さんの実感は、どこから生まれたんですか?

古内:そうですね……。男女雇用機会均等法の改正以降、総合職のフロントランナーとなった女性たちは、本当に頑張って働いていたんですよ。男性と違って女性は、出来がよくなければ会社で認めてもらえなかったので、だから女はだめだと言われないよう、必死で働き続けていた。その頑張りを会社やメディアは利用して、ちやほやするだけして、でも、硝子の天井で出世は頭打ちにしてあとの責任は絶対にとらない。本当に親身になって、私たちのことを考えてくれる人なんて誰もいなかった悔しさや虚しさを、痛感させられることもありました。

そういう時代で、「俺のほうが仕事していないからさ」なんて言ってフォローしてくれる、光彦のような同僚の存在は、とてもありがたかったんです。会社に利用されて、梯子を外された経験を持っているのは男性も同じなので、彼らの悲哀も、ちゃんと書いてみたかったんですよね。

――そんな光彦の悲哀と会社に対する諦めを、愚直ともいえる桐人が思いがけずひっくりかえすところが、とても好きでした。

古内:同じ景色も、見ている人が違えば解釈も変わり、それを知ってハッとさせられることってありますよね。それは家族やパートナーであっても同じで、長い時間をともに過ごしていながら、わかりあえていない部分のほうが多かったりする。しょせん他人同士で、100パーセントの味方でいることも、理解しあうこともできないのだというさびしさを認めて生きていくことが大事なんじゃないのかな、そのうえでときどきほんのわずかに支えあえる瞬間を大事にしていけばいいんじゃないのかな、と思います。

――そのさびしさに、古内さんはどのように折り合いをつけているんですか。

古内:「マカン・マラン」シリーズで書きましたが、幸福の木の花ことばに「寂寥」というのがあるんですね。幸せのうしろには常に寂寥が潜んでいる、生きている限り人はさびしいのだと認めることが必要なんじゃないでしょうか。100パーセントの理解やつながりを求めるから、苦しくなるわけで……そうではないのが当然なのだと知ることで、逆にラクになることもあるんじゃないのかな。

――だからこそ、隠れ家が必要なんでしょうね。一人であることを受け止めるために。

古内:そうだと思います。会社はもちろん、国も社会も助けてはくれないし、味方だと信じている人にも、頼りたいときに頼れるとは限らない。自分だって、そうそう他人を助けたり、窮状を変えてあげたりすることなんて、できない。その悲しみやさびしさを引き受けて、ほっと一息つける隠れ家のような場所が、どんな人にでもあるといいな、と思います。そうしてたくわえた力で、現実の困難を6割でも解決できれば、万々歳。生きていくのはそれだけで厳しいことだけど、この小説を読んでくださった方が、隠れ家に身をおくように、少しでも楽になってくれたらうれしいです。

取材・文=立花もも、写真=金澤正平

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