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こうすれば莫大な遺産でももめない…池田大作、大川隆法の死後ドロドロの相続争いが起きなかった納得の理由

  • 2024.5.29
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相続でもめないためにはどうすればいいか。『脱しきたりのススメ』などの著作もあり慣習に詳しい宗教学者の島田裕巳さんは「そもそも相続ということばは仏教の用語だが、その行為が堕落してしまった」という――。

相続の語意は人の行為の連続性

なぜ相続でもめるのか。

それは、相続という行為が「堕落」してしまったからである。

相続
※写真はイメージです

そんなことを言い出せば、珍説として扱われるかもしれない。だが、よく考えてみるなら、決してそれが珍説ではないことが明らかになってくるはずである。

そもそも相続ということばは仏教の用語である。

そうしたことばは実に多く、「因果」や「縁」などがその代表だが、相続には、「人間の行為には連続性がある」という意味がある。

ただ、今の世の中で相続のことが取り上げられるとすれば、それは、「遺産相続」の場面においてである。ある一人の人が亡くなり、資産を残したときに、相続が行われる。多くは、配偶者や子どもが、遺産を相続することになる。

その際に、故人の遺言があると、それが効力を発揮し、特定の人間により多くの遺産がわたることがある。それでも、全額を一人に相続させることはできず、相続の資格のある人間に対しては法定相続分が確保されている。

相続をした人間は、相続の権利を放棄しないかぎり、遺産はわたるものの、相続税を支払わなければならない。相続税を支払うことは、相続に伴う義務のようにも見えるが、それ以外に、相続人がしなければならないことはない。

これが今のやり方だが、昔は違った。

なぜ、旧民法では不平等なのか

相続に関係する法律が民法である。

民法は明治31年7月16日に定められたもので、戦後、昭和22年5月2日に大幅に改正された。憲法と違い、その後、改正がくり返されている。昭和22年5月2日以前の民法は「旧民法」と呼ばれ、現行の民法と区別されている。

旧民法と現行の民法とでは、相続にかんして、考え方が根本から異なる。というのも、旧民法では、「家督相続」の制度がとられていたからだ。

旧民法では、それぞれの家には戸主が定められることになっていた。戸主は主に男性で、家督を譲られるのは、基本的にその家の長男である。長男がすべての財産を相続し、他の子どもたちはそれに与かることができなかったのだ。

なぜそのような不平等な制度が存在したのか。今の人たちはそこに疑問を抱くだろうが、農家の場合を考えてみれば、その理由が明らかになる。

ある農家で、1ヘクタールの水田を所有し、それを耕作することで生計を立てていたとする。その農家で、戸主が亡くなり、相続となったとき、4人の子どもたちに均等に分けられれば、相続分は4分の1ヘクタールになってしまう。それでは、農家として成り立たない。だからこそ、農家を維持するために、長男が独占的に相続することになっていたのである。

現行の相続がもめる原因は…

これだと、長男が一方的に得をする。そのように見える。

だが、家督相続の特徴は、戸主には権利とともに義務が定められていたことにあった。

権利の方は、家族の婚姻や養子縁組に同意する権利、家族の居所を指定する権利、家族の入籍を拒否する権利、家族をその家から排除する権利である。

子どもが結婚する際、親の同意が必要だったのも、これによる。あるいは、親が子どもを勘当したのも同じである。

ただ、同時に戸主には義務が課せられていた。それは、家族を扶養する義務であり、家を維持し、存続させていく義務である。

戸主の権限は極めて大きなものだが、同時にそこには重い義務が課せられていた。

そして、家督相続が行われれば、こうした権利と義務がすべて長男に移行したのである。

今は随分と違う。

相続によって遺産を受け継いでも、そこには何の義務も生じない。金がわたるかどうか、どれだけの額がわたるのかだけが問題になる。すべてが金の問題になってしまうわけで、相続の堕落とはこのことを指す。結局は、遺産の額が問題になり、だからこそどうしてももめてしまうのだ。

その際に、故人の介護をしたかどうかが主張されたりもするが、この点は、遺産の額を配分する上で法律には盛り込まれていない。懸命に介護しても、決して多くの遺産は入らない。これも、もめる原因を作っている。

資産の取り合い
※写真はイメージです
世俗に言及するイスラム教

日本の法律は、民法を含め、世俗の法律であり、宗教が背景にはない。

仏教は、釈迦が家を捨てて出家したように、世俗の生活には究極的に価値をおかないので、世俗の生活を律する法が発達しなかった。「仏法」ということばがあるが、それは世界の法則を意味する。神道になれば、創唱者はなく、教えそのものがない。

キリスト教でも、世俗の生活を律する法がないのは、初期の時代、世の終わりがすぐにでも訪れると信じられていたからで、それでは世俗の生活をどう続けるかは問題にならない。

これに対して、ユダヤ教やイスラム教では、宗教生活と世俗の生活が一体のものとしてとらえられており、ユダヤ法やイスラム法が発達を見せている。

ここでは、現在、世界第二の宗教となったイスラム教について取り上げるが、その聖典である「コーラン」や「ハディース」では、相続のことについても述べられている。「コーラン」は預言者ムハンマドに下された啓示で、「ハディース」はムハンマドの言行録である。

「ハディース」は膨大な数存在し、その真偽をめぐって議論になったりもするが、それに目を通して見ると、日本では民法で規定されているような事柄に多く言及されていることが分かる。イスラム教を国教とする国では、イスラム法が法律の基盤になっている。

「男児には、女児の2人分と同額」

では、イスラム法で相続はどのように規定されているのだろうか。

「コーラン」の4章11節には、「アッラーはあなたがたの子女についてこう命じられる。男児には、女児の2人分と同額」とある。これが遺産相続の原則とされ、男性の相続分は女性の2倍とされているのである。

これでは、女性に対して不公平ではないかということになるが、家督相続と共通していて、女性には経済的な負担や義務はいっさい課せられない。逆に、男性に対しては厳しい扶養の義務が課せられ、女性を経済的に支え続けなければならないのだ。

ここでも、権利には明確に義務が伴っている。

戦後の日本社会では、あらゆる面で平等ということが重視され、それと平行して家の重要性は大きく低下した。さらに、高度経済成長の時代になると、産業構造の転換が起こり、多くの人間が、役所などの公的機関や企業に雇われるようになった。

農家では家の存在が決定的に重要で、それをいかに存続させていくかが課題になったが、サラリーマン家庭では、家は家族の憩いの場へと大きく変貌した。子どもを育てるにしても、家を継がせるためではなくなった。子どもも、やがては役所や企業に雇われ、家を存続させることに力を注いだりはしないのだ。

新宗教だからこその教訓

遺産をめぐってもめごとを起こさないようにするにはどうしたらいいのか。

答えは簡単だ。

遺産を残さないことである。

輝くナンバーゼロの前に待っている人間の群衆
※写真はイメージです

実は、私が研究してきた日本の新宗教の教団で、最近、そうしたことが起こった。

創価学会の池田大作、幸福の科学の大川隆法という二人の教祖が亡くなったのだ。どちらの教祖も、膨大な数の著作があり、それはベストセラーになってきた。印税収入は相当な額にのぼる。当然、遺産も巨額になったはずだ。

池田大作氏死去/故池田大作氏のお別れの会
創価学会名誉会長の故池田大作氏のお別れの会で、献花する参列者=2024年1月30日午後、東京都千代田区

だが、二人とも、生前にその大半を教団に寄付していた。たとえば、創価大学の創立資金には『人間革命』の印税が投じられている。出版物を買ったのは信者なのだから、それが信者に利益として還元されるのは当然だ。創価学会の信者はこぞって自分の子どもを創価大学に送り込んだ。

これまで、他の新宗教の教団では、亡くなった教祖の遺産をめぐって争いが起こってきた。ところが、創価学会でも幸福の科学でも、それは起こらなかった。争いが起きなければ、教団が分裂したり、分派が生じることもない。

新宗教というと、金儲けのイメージが強い。だが、金が集まってくるからこそ、その弊害も知っている。

これは、相続で悩まないための貴重な教訓になっているのではないだろうか。

島田 裕巳(しまだ・ひろみ)
宗教学者、作家
放送教育開発センター助教授、日本女子大学教授、東京大学先端科学技術研究センター特任研究員、同客員研究員を歴任。『葬式は、要らない』(幻冬舎新書)、『教養としての世界宗教史』(宝島社)、『宗教別おもてなしマニュアル』(中公新書ラクレ)、『新宗教 戦後政争史』(朝日新書)など著書多数。

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