1. トップ
  2. 20歳の私にとって何より重要で馬鹿らしい「価値」について考えた

20歳の私にとって何より重要で馬鹿らしい「価値」について考えた

  • 2024.5.25
  • 488 views

インスタグラムに、「#お呼ばれドレス」の投稿が流れてくる。私はいま20歳で、今のところお呼ばれドレスを着る予定はない。つまり身近な人で結婚式の予定を控えている友人や親戚はおらず、この投稿に用はない。

でも、こんな投稿がポップアップ式に私の使用しているアカウントに表示されるということは、私と同じ、もしくは近い性別や年齢の多くの人々が「お呼ばれドレス」に用があるということだ。

◎ ◎

20歳の私にも、友人や先輩の中に結婚や出産を経験した人がいないわけではない。でも、同世代の知り合いの多くは学生で、結婚や出産を経験していない。そして私もそうだ。私は、「価値」が怖い。

今、私は20歳の学生で、女だ。大学では、付き合っている人がいる。その人とは今で二年付き合っていて、学生で二年間同じ人と付き合い続けているのは、どうも「価値」に近いようだ。

高校のときの先輩が、恋人との写真をインスタグラムにアップしている。投稿には「二年!」というキャプションが添えられてあり、なんだか大人びた雰囲気でコットンのTシャツにデニムのパンツを合わせたシンプルな装いの年上(と聞いた)の彼氏が、先輩の肩に手を添えている。写真の中の二人はなんだかお互いのことを深く理解し合っているみたいに微笑み合っていて、とても「価値」みたいだ。

この人は多分、そのうち周囲を「お呼ばれドレス」に用がある状態にするだろうし、したいのだろうなと思う。つい5年前まではころころと彼氏を変えていた高校生だったころの私たちの「価値」は、今、「長さ」と「落ち着き」にあるようだ。

◎ ◎

私たちよりもずっと年上の大人たちにとっては、二年なんて長さもなにもという話なのかもしれないけど、知人のインスタグラムの投稿を見る限り、私たちは絶対的な尺度である「長さ」で価値を周囲に示したくて仕方がないのだと思う。

そして、私もその「長さ」や「落ち着き」の「価値」から、逃れることができない。「二年! 」というキャプションをつけて、人間としての成熟度を周囲に示したい気持ちは、本当によくわかる。そしてそんな自分が心底嫌で、つまらない。

そしてふと思う。私たちの移り変わる「価値」は、どこへゆくのだろうと。30歳になったとき、40歳になったときに、私たちはどこへゆくのだろう。そして、自分の母や母の友人たちも、こんな「価値」の景色を共有してきたのだろうか。お呼ばれドレスを周囲に強要したあとの「価値」は「母になること」へ向かったりするのだろうか。

◎ ◎

私は「価値」が怖い。二年間同じ人間と付き合い続けていることを公表することによって、他人に「価値」をはかられることを馬鹿馬鹿しいと思いつつも、その「価値」のことが気になって仕方がない。そのうち私たちのインスタグラムは薔薇の花束の写真に「これからもよろしく」のキャプションになるかもしれないし、お腹に手を当てた写真に「これからよろしくね」のキャプションになるかもしれない。

それぞれの人にそれぞれの人生があることは尊いし、私の人生も、あなたの人生もはじめから当たり前に尊い。そのことはわかってる。でも、20歳の私にとっては、「価値」が何よりも重要で、何よりも馬鹿らしい。

そして、「母」。自分の母は、そんな「価値」から解脱しているように思えるし、とても今の自分が今の母の像と重なる日が来るとは思えないし、そもそも自分が母になるという選択をしないかもしれない。私にとって、母という存在は今の自分とシームレスにつながっているように感じられない。一番身近だけど、想像ができない。こんな「価値」に振り回されている今の自分の姿から。

でもまあ、生きてみるしかないなと思う。自分が母になったり、ならなかったりするこの人生で、自分なりの「価値」を見つけられたら。最終的に見つけられなかったとしても、それも一つの発見だと思う。見つけることに躍起になりたくない。今の自分の母に近づけても、近づけなくても、自分自身を肯定する力を身につけたい。

■持田降ルのプロフィール
冬と猫が好きです。

元記事で読む
の記事をもっとみる