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朝晩寒く、昼暑い…。季節の変わり目の”最適解な服装”を、ちょっと真剣に考えた

  • 2024.5.23
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一体なにを着ればいいのかとんと分からない。

そこそこの年齢になったというのに、未だに季節の変わり目にどんな服を着たらいいのか分からないのだ。

本当のことを言えば一年中あまりちゃんと分かっていない。

最高気温や最低気温を見たところで、それが体においてどのような具合なのかの見当がつかないのだ。

ただ、真冬や真夏に関していえば、真冬ならば私は寒がりなので思い切り足し算していれば凍えることはないし、真夏ならばノースリーブのワンピースを着ていれば大きな間違いは起きない、と思っている。

ところがだ、この季節の変わり目というのは本当に厄介なことに毎日気温が気まぐれに変化しすぎる。

朝は寒いのに昼間は暑いなんてこともあったりする。

私は朝に照準を合わせればいいのか、昼間に照準を合わせればいいのかよく知らないまま、四十路を迎えてしまったのだ。

少し前に、最高気温19度という日があった。

分からないなりに最高気温をチェックしようという気持ちはある。

先述したとおり、19度がいったいどのような具合なのかは分からない、分からないけれど、真冬よりは温かいということは分かっている。

なんと言ってもあと少しで20度だ。

私の中には、20度を迎えると春であり、いよいよセーターは着なくていい、という大味な基準がある。では、とその日私が選んだのは5分袖の薄手のブラウスだった。

結論から言うと、ものすごく寒かった。

その日は屋外で仕事があり、その上雨が降っていた。

ブラウスから突き出した腕がいくらでも冷えて、次第に体全体が芯から冷えていった。

思わず、「寒い……」と呟くと、現場にいた女性が

「朝会ったとき、半袖着てるなあ、と思っててん」

と言った。

「だって、天気予報で今日19度って言ってたから」

と両腕をさすりながら言うと

「最高気温が19度ってことは15度から16度で推移するってことだから結構寒いよ」

と彼女は言った。

気温の推移なんて人生で一瞬だって考えたことがなかった私は驚いた。

驚きすぎて絶句した。

私にとっての最高気温19度と言えば「ほとんど20度で冬じゃない」ということだけだ。

最高気温19度の具合をこんなに正確に把握しているなんて、あまりに聡明ではないか。

もちろん彼女は長袖を着ていて、決して寒そうではなかった。

「もしかして理系ですか」

絶句の末、トンチンカンなことをたずねると

「ううん、文系」

とだけ返ってきた。

ちなみに私は文系だ。

その日、移動の車中で私は気温と衣類について人生で初めてまともに考えた。

よく考えてみると、私は衣類で体温調整をしようという考えがおそろしく欠落している。

その日現場に同席していた男性を見れば、なるほど半袖に長袖のシャツを羽織っている。

つまり彼は、気温に応じてシャツを脱いだり着たりできる仕様なわけだ。

忙しい朝にそんなことまで考えて支度をしているらしい。

立派だ。

私はと言うと、最高気温を見るだけの知恵はあるというのに

「5月なので、この服。だって去年も5月はこれを着ていたし」

とマンスリーで衣類を判断している。

なんならいっそ、「真夏でもない、真冬でもないときに着る服」を着ていればいいと思っている節がある。

タートルネックを着る季節ではないし、ノースリーブのワンピースを着る季節でもないので、それ以外でという考えだ。

そうして選ばれた5分袖のブラウスはこの日、決して快適とは言い難く、私は終始頭の中に「寒い」の2文字を抱え続けることになったのだった。

朝起きたときの気温なんてあてにしてはいけないと思っている。

真夏以外の朝はだいたい寒いものだし、それに起きぬけの寒さなんて一時のことだ。

じきに暖かくなるとだから、朝の少しの寒さは辛抱したらいい。

そう思うので、季節の変わり目の朝は比較的薄手の服を選んでいるような気がする。

私は極度の寒がりでではあるのだけど、昼間の火照るような暑さも嫌なのだ。

それに、基本的に腕に布がまとわりついているのが好きじゃない。

だから、朝の博打の際には薄着に賭けたくなってしまう。

最高気温を明確なデータとして蓄積していない私は、希望を込めて毎朝が薄着寄りの博打なのだ。

少し薄手の服を着て、10時を過ぎればそこそこ暖かくなって、なんとかなりそうだと思っている内にぽかぽかの正午を迎えて、温まった身体の熱を保ったまま夕方に突入すればきっとなんとかなる。

それが理想の季節の変わり目の1日だ。

なのに実際は、10時ごろには全然気温が上がらず、さえない気温のまま昼を回って、気がつけば体が冷え切って、15時ごろいよいよ寒さにストレスを感じ始めて、でも今着替えたら負けたような気がして、辛抱しているうちに冷えが行きわたった体を持て余して、そのうち「なにくそお風呂に入るまでの辛抱だ」と我慢比べが始まって、下手をすれば喉をいためている。

体が温まらないまま夕方を迎えたら、冷え性の私は本格的に冷えからの回復が難しくなることは分かっているのだけど、半日しか着ていない服を洗濯に出そうとするとき貧乏性が顔を出してしまう。

仮に腹をくくって温かい服に着替えたとして、その温かい服だって、残りの半日しか着ていないのに洗濯に出すことになってしまう。

子どもたちに「いたずらに洗濯物を増やさないで」とあんなに口うるさく言っているのに私がみすみす洗濯物を増やすわけにはいかない。

その日の夜、夫に「ほんとうに私はなにを着たらいいのか分かっていない」と話した。

気温何度が体感でどんなふうかもわかっていないし、1日の気温の推移なんてますます分からない。

みんなどのように衣類を選んでいるのか、いつそれを体得したのか、なぜ私だけがこんなに分かっていないのか。

とうとうと話していて気が付いた。

「もしかして、私、小学校からずっと制服があったせいじゃない?」

そう、制服があるといちいち気温に振り回されているわけにはいかないのだ。

暑くても衣替えが訪れるまでは冬制服を着ていなくてはいけないし、寒くても冬制服を着られるのは衣替えを迎えてからだ。

寒くても暑くてもある程度は我慢するしかなく、衣類でなんとか調整する文化が私の中で育たなかった。そうだそうに違いない。

夫もハッとした顔をして「そうなんじゃない!??」と言ったので、これは間違いないと思いたかったけれど、では、と私服登校の子どもたちを思い返せば、長女はいつも上半身だけ季節問わず着ぶくれて、なのに半ズボンを履いているし、長男は1年中半袖半ズボンだ。

気温に応じてまともに衣類を変えているように見えるのは末っ子だけだった。

しかも年中半袖半ズボンの長男は、毎朝その日の最高気温を確認している。

なんのためだろうか。

結論を言えば、もうこれは本人の自覚の問題。

というごくシンプルな結論に辿り着き、私は毎朝少しだけ立ち止まって、今日はなにを着るべきかを今までより少しだけ深く考えるようになった。

今のところあまり上手くいっているとは言えないけれど、そのうち私も暑くも寒くもない、快適な季節の変わり目を過ごせるようになるに違いない。

そして子どもたちにもそのような立派な背中を見せて、彼らも季節に応じたよい服を選べるようになるに違いない。

とりあえず、間もなく訪れる梅雨に向けて、ちょっとした羽織るものを買おうと思っている。

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