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秋篠宮佳子さまの"お相手候補"は島津家が有力か…昭和の香淳皇后、内親王降嫁と続いてきた皇室との深い縁

  • 2024.5.22

今年30歳になる秋篠宮佳子内親王のお相手選び、いわゆる“婚活”が始まったらしい。4月には旧薩摩藩藩主の家系であり、明治維新後は公爵として華族のトップにあった島津家との顔合わせも行われたという。系図研究者の菊地浩之さんは「現在の島津家の閨閥は、最後の藩主・忠義が“子だくさん”だったゆえに広がったもの。皇室との婚姻も前例があり、佳子さまのお相手が島津家から選ばれてもおかしくない」という――。

島津家の親族会に上皇、秋篠宮両夫妻と佳子さまが参加

2024年4月13日、上皇ご夫妻、秋篠宮ご夫妻と佳子さまが「霞会館」で開かれた島津家ゆかりの会合におしのびで出席されたとの報道があった。一説には、佳子さまのお見合いという見立てもあるようだ。

島津家というのは、薩摩藩主で有名な、あの島津家である。島津家ゆかりの会合とは、「錦江会きんこうかい」のことだろう。「錦江会」は鹿児島湾の別称・錦江湾に由来し、12代薩摩藩主・島津忠義ただよし(1840~1897年)の孫たちが1953年にはじめた会合で、定期的に会合を重ねているという。

薩摩鹿児島藩最後の藩主となった島津忠義
薩摩鹿児島藩最後の藩主となった島津忠義(公爵)1867~1877年(尚古集成館所蔵/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons)

薩摩藩主といえば、幕末の英傑・島津斉彬なりあきら(1809~1858年)が有名だが、斉彬は子どもにめぐまれず(一説には子女は毒殺されたともいう)、異母弟・島津久光ひさみつ(1817~1887)の子、忠義を養子とした。

1884年に華族令が発令され、華族が公爵・侯爵こうしゃく・伯爵・子爵・男爵の5つに分類されると、島津久光と島津忠義はそれぞれ公爵に叙された。

【図表1】島津家と皇室の関係図
島津忠義は子だくさんで、明治に華麗な閨閥を形成した

公爵は後に人数が増えるのだが、1884年当時は10人しかおらず。その内訳は公家の五摂家5人+維新の功臣・三条さんじょう実美さねとみ、武家の徳川将軍家、薩長の島津家・毛利家、および島津久光である。薩摩藩主だった島津忠義は当時まだ35歳(数え年)で、父・久光が隠然たる影響力を保持していた。久光は西郷隆盛らの家臣が明治維新を成し遂げたものの、維新後の諸政策には不満たらたらで、それを慰撫するために島津家の分家として公爵に叙したのだという(対する長州藩・毛利家は、従順すぎて覇気がないと旧家臣から嘆かれた)。

島津忠義は子だくさんで、8男10女に恵まれた(数人早世したので、実質的には5男8女)。しかも、明治維新を成し遂げた薩長藩閥の親玉、華族のトップ・公爵家である。子女が形成する閨閥けいばつは華麗と言うほかない。

娘2人は皇族に嫁ぎ、徳川家に3人、将軍家、御三家(紀伊家)、御三卿(田安家)にそれぞれ嫁いでいる。また、大名家では福岡藩の黒田家、岡山藩の池田家(いずれも侯爵家)に嫁いでいる。久松伯爵家は、藩祖・島津家久いえひさの正室の実家にあたる。

一方、子息の方は、長男・島津忠重ただしげが家督を継ぎ、徳大寺侯爵家(のち公爵)から妻を迎え、5男・6男は分家して男爵に叙され、7男・島津久範ひさのりは分家筋の日向佐土原藩主(伯爵)の婿養子になっている。

忠義の曾孫は、大久保利通の仲人で西郷隆盛の曾孫と結婚

ただし、兄弟姉妹の仲はどちらかといえば疎遠だったという。子どもたちには一人ひとり“お付き”がいて、それぞれが別々に食事を作って食べ、しかも母親が違ったりするから、兄弟姉妹の交流はほとんどなかった。忠義の外孫・松平豊子(徳川家正の長女)は「島津家の御姉妹皆、無口で社交的でないのはそのせいかも知れない」と語っている。また、末っ子の徳川為子は、実兄・島津忠重について「お兄様とは母も違い11歳もちがってあまり兄妹という感情をもったことはございませんでした」と述懐している。

忠義の子どもたちは、兄弟姉妹といった感覚に乏しかった。親族同士の交流も少なかったのかも知れない。そうした反省を込めてなのか、先述したように孫の代になって親族会「錦江会」が生まれた。子どもたちの形成する閨閥が華麗だったので、おのずと孫たちの閨閥も輪をかけて華麗になった。

系図を紐解くと、島津家の閨閥のすごさがわかる。天皇家、徳川宗家(いわゆる将軍家)は言うに及ばず、公家では近衛文麿、西園寺さいおんじ公望きんもち、岩倉具視ともみ。武家では松平慶永よしなが(号・春嶽しゅんがく)、松平容保かたもり。そして、薩摩が生んだ英雄・西郷隆盛の曾孫が、忠義の曾孫と結婚している。その時の仲人は、西郷の盟友・大久保利通の孫が務めたという。

第33回森と花の祭典「みどりの感謝祭」で出席者らに声を掛けられる秋篠宮家の次女佳子さま
第33回森と花の祭典「みどりの感謝祭」で出席者らに声を掛けられる秋篠宮家の次女佳子さま=2024年05月11日、東京都千代田区[代表撮影]
徳川宗家との関係は、将軍正室だった天璋院篤姫が取り持つ

忠重の娘は徳川宗家(将軍家)にも嫁いでいる。これには、2008年の大河ドラマの主役にもなった篤姫あつひめ(演:宮﨑あおい)が関係しているのだ。

明治維新で江戸城は明け渡しとなり、大奥の女性たちは知人のもとに身を寄せた。篤姫こと天璋院てんしょういんは一橋徳川邸、赤坂紀伊藩邸、戸山の尾張藩下屋敷に移り、最終的には16代宗家・徳川家達いえさと(旧・田安亀之助)の千駄ヶ谷の洋館に引き取られた。

家達の妻は近衛このえ忠房ただふさの長女・泰子ひろこ。天障院は泰子を幼いうちから引き取って自ら養育に当たり、結婚した泰子が妊娠したと聞くと、「今度、男子が生まれたら、是非島津家から嫁を貰ってほしい」と遺言して1883年に死去した。翌1884年3月に家達の長男・徳川家正いえまさが生まれ、翌1885年に島津忠義の9女・正子なおこが生まれたため、天障院の遺言に従って家正と正子の婚約が整えられた。

上皇陛下を産んだ香淳皇后は、島津久光の曾孫に当たる

ちなみに、忠義の娘が嫁いだ徳川家(将軍家、紀伊家、田安家)はいずれも紀伊徳川系である。残りの御三家(水戸家、尾張家)、御三卿(清水家、一橋家)はいずれも当主が水戸徳川系なので、島津家が水戸徳川家を嫌っていたのかも知れない。

孫たちの華麗な閨閥。その最たるものが、7女・久邇宮くにのみや俔子ちかこ妃の娘、良子ながこ女王が昭和天皇の皇后になったことだろう。その縁で、昭和天皇ご夫妻は「錦江会」に参加していた。つまり上皇陛下の母が、島津久光の曾孫ということになるので、今回もそのツテをたどって、上皇上皇后両陛下、秋篠宮ご夫妻と佳子さまが参加したのだろう。

皇太子妃に選ばれた久邇宮良子女王
皇太子妃に選ばれた久邇宮良子女王(後の香淳皇后)。当時19歳、1922年。(光文社『昭和の母皇太后さま』より/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons)

高校の日本史で「宮中某きゅうちゅうぼう重大事件」というのを習わなかっただろうか。これが島津家と関係あるのだ。

1918年、良子女王が昭和天皇(当時は皇太子)の皇后に内定すると、長州閥のボス・山県やまがた有朋ありともがそれを阻止しようと暗躍した。良子女王が旧薩摩藩主・島津家の血縁者であるから、それによって薩長藩閥のパワーバランスが崩れることを危惧したのだ。

お后選びのとき、島津家ゆかりの宮家を山県有朋が妨害

1920年、山県は島津家に色覚異常者(いわゆる色盲)がいることを理由に、良子女王の立后りつごう内定の取消を提議した。これに久邇宮家は猛反発、右翼の運動家などを総動員して、山県発言をつぶしにかかった。結局、1921年に宮内くない大臣が責任を取って辞任。良子女王の立后は問題なしということになった。山県有朋は謹慎に追い込まれ、影響力を著しく失った。これが「宮中某重大事件」である。島津家が無関係であれば、起こらなかった事件であろう。

1924年、昭和天皇と良子女王は御成婚。夫婦仲が良く、子宝にも恵まれたのだが、4人目まで女児(内親王)しか生まれなかった。周囲は昭和天皇に側室を勧めたが、「人倫に悖もとることはしたくない」と頑なに拒否。5人目の出産で、やっと男児出生に至った。現在の上皇陛下である。

なお、昭和天皇の末娘(第五皇女)・貴子内親王は、久光の曾孫・島津久永ひさながに降嫁している。貴子内親王の「私の選んだ人を見て下さって……」は当時の流行語になった。久永は貴子内親王の兄・上皇の同級生、その父・島津久範ひさのりは昭和天皇のご学友でもあった。貴子夫人は健在であり、皇室との縁は続いている。

【図表2】島津家と皇室、徳川家、西郷家などの関係
明治維新で功を成した二大巨頭のひとつ、毛利家は……

山県有朋が「宮中某重大事件」を起こしたのは、島津家の閨閥が原因になっている。では、長州藩主だった毛利家の閨閥はどうだったのだろうか。

【図表3】毛利家の家系図

長州藩の最後の藩主は毛利元徳もとのり(1839~1896年)。島津忠義の1歳年長で、同年代といえるだろう。子どもは少なくとも8男1女がおり、配偶者がいるのは6人(5男1女)。島津忠義のほぼ半数だ。娘が1人しかいないので、比べるのは酷かもしれないが、毛利家の長女は子爵夫人。島津家の嫁入り先に対して見劣りがする。爵位で見ると男爵(爵位の最下位)が多く、島津家の閨閥ではあまりみられなかった現象だ。また、島津家で2例もあった皇族が見当たらない。

薩長藩閥といえば、二大巨頭のように感じられるのだが、旧藩主の閨閥はなぜにこんなにも違うのか。ここに興味深いエピソードがある。

長州藩の隣藩・安芸広島藩の「最後の殿様」浅野長勲ながことという人物がいる。浅野家に「長州の或る華族から良縁を持ちこまれた」時、長勲は「わしの目の黒いうちは、長州との縁談だけは断ってくれ」と発言したというのだ。「どうも何か戊辰戦争の時、芸州が長州に煮え湯を飲まされたニガイ思い出があるらしい」(遠藤幸威『女聞き書き 徳川慶喜残照』)。

幕末の長州藩は国を想う理念こそすばらしかったが、いざそれを実現する段となると、「目的のためには手段を選ばず」といった感が強い。明治維新を成し遂げるために、あちこちで恨みを買ってしまった故、閨閥を展開するのが難しかったのではなかろうか。

菊地 浩之(きくち・ひろゆき)
経営史学者・系図研究者
1963年北海道生まれ。國學院大學経済学部を卒業後、ソフトウェア会社に入社。勤務の傍ら、論文・著作を発表。専門は企業集団、企業系列の研究。2005~06年、明治学院大学経済学部非常勤講師を兼務。06年、國學院大學博士(経済学)号を取得。著書に『企業集団の形成と解体』(日本経済評論社)、『日本の地方財閥30家』(平凡社新書)、『最新版 日本の15大財閥』『織田家臣団の系図』『豊臣家臣団の系図』『徳川家臣団の系図』(角川新書)、『三菱グループの研究』(洋泉社歴史新書)など多数。

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