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両親と戸籍を分け、母はただ「私を産んだ人」になりました

  • 2024.5.22
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私と母の関係はいまいち、よくわからない。
昔は仲良かったと思う。2人で映画行ったり、ご飯行ったり、母の職場に遊びに行ったりしていた。でも、今は必要最低限の連絡を取るだけで、ただ私を産んだ人になった。

◎ ◎

フェーズ①

共働きだったわりには、父とは違って母は構ってくれていた。保育園も基本は母がお迎えに来てくれていた。どうしても仕事で来られないときは、母方の祖父母がお迎えに来てくれていた。いつも疲れているのに、たくさんお話を聞いてくれて、一緒にぬいぐるみでごっこ遊びをしてくれていた。

ただ小学校に上がるまでは祖父母の家にいることが多く、一緒に旅行したりしていたし、小学校時代も熱が出たり、長期休みは祖父母の家にいた。育て親は祖父母だと思っている。

母は仕事を続けつつも小学校低学年の頃は「おかえり」の時間にはお家にいてくれていたし、甘えに行っても文句は言われなかった。お手伝いするとお小遣いをくれたりと至って普通であった。

フェーズ②

小学校高学年あたりからか急に態度が一変した。私が学校の児童クラブに入っていたこともあり、仕事にも本格的に復帰して、「おかえり」の時間に母はいなくなっていた。むしろ、私が母に「おかえり」と言う側になっていた。

帰ってきても、母の職場の愚痴を聞いたり、父と喧嘩していたり、私という存在が母の中で薄くなっているように感じるようになっていた。そう思ったきっかけがある。

私が甘えたくて後ろから抱きつきに行った時、「もうこの年齢になったんだから、そんなことやめなさい」と母に言われた。父はただそれを傍観しているだけだった。

そのことがあってから、私は少し両親と距離を置くようになった。その時期から、私はいじめを受けていたが、中学生で不登校になるまで、隠し通した。

◎ ◎

不登校になってからは気にかけてくれたが、私が危機的状況になるまで寄り添ってはくれなかった。寄り添ってくれるようになってから、また態度が一変した。母はとてつもなく過干渉になった。

私の1日の出来事を話さないと機嫌が悪くなるのだ。母が見つけてくれたフリースクールがあり、中学1年の終わりから通っていた。学校での出来事やどんな子とお友達なのか、休日はいつどこで誰と何をしていたのか、これらを話さないと母は安心できないのだろうと当時は思っていた。

受験して私立高校に入学したが、母の過干渉はヒートアップした。どんな風に高校生活を送っているのか、どんな子と関わっているのかなど私の近辺をひとしきり聞くのだ。聞いた上で母が私の関わっていい子を判別する。例えば、部活の仲間と関わるのはいいが、クラスメイトのこの子たちとは関わらないようになど。

中学の時は優しさだと思っていたが、高校からは私は母のおもちゃみたいになっているんだと感じるようになった。その頃は両親の仲も悪く、母から父の文句を聞いたり、父から母の文句を聞いたりするようになり、自宅でも気づくろいするように接していた。

◎ ◎

故に、プライベートな時間は減っていき、もちろんお友達と遊ぶ時間や部活の時間はあったが、私だけの時間は両親が寝てからや、勉強の合間、通学時間だけになっていた。

私はだんだんどれがどの自分なのかわからなくなっていった。結果、多重人格とパーソナリティ障がいになった。

通院している精神科の先生によると、逃げたかったときに逃げれなかったこと、一般にいう両親からの幼少期から成長期での愛情不足によるものらしい。

フェーズ③

最終的には両親から戸籍から出てくれと頼まれ、今年、2024年1月に分籍届を市役所に提出し受理された。母は私を産んだ人になり、無関係の人になった。今はまだ終わっていない手続きの話をするだけで、それ以上もそれ以下もない。

戸籍を抜いたことで世間的には見る目が変わったように思うが、私の心は軽くなった。パーソナリティ障がいも軽くなったように感じる。

私と母の距離は元からあったようで、なかったのかもしれない。

■Reina.のプロフィール
映画と音楽、小説などが好き。 人生難あり、神奈川県に住みながらも中高生は県外を選択。 7疾患と闘いながらも、やりたいことやってる人。

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