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愛に本物と偽物はあるか…夫が寝たきりになったら復讐したい妻がその後に続けた信じられないひと言

  • 2024.5.21

「本当の愛情関係」なるものは、いったいどこにあるのか。社会学者の山田昌弘さんは「社会学的に言えば、他人が何と言おうが、その人がそれを愛だと思えば愛なのです」という――。

「本当の愛」っていったいなに?

〈これも愛 あれも愛 たぶん愛 きっと愛〉

もう45年も前になりますが、1979年に、テレビドラマの主題歌「愛の水中花」で有名になったのがこのフレーズです(作詞:五木寛之/『水中花』五木寛之原作、1979年TBS放映)。

笑顔のカップル
※写真はイメージです

中高年のみなさんは、バニーガール姿の松坂慶子さんを思い出す人も多いかもしれませんね。私は、現代日本社会に広がる状況は、まさにこのフレーズに集約されていると考えています。

前回、「愛の分散投資」の例として、「推し活」「キャバクラや性的サービス業に通う既婚男性」や、「夫と仲が悪いわけではないが一番好きなのはペットという既婚女性」を取り上げました。

みなさんの中には、「推し活、キャバクラ・キャストやペットとの関係は、単なる遊びであって、本当の愛情なんかではない」と思う人もいるかもしれません。

では、“愛がある関係”とはどのようなものでしょうか? 「本当の愛情」とはなんでしょうか? どこに、本当の愛情関係なるものがあるのでしょうか。

「本当の愛、偽物の愛」も分析の対象

愛に関しては、文明誕生以来、さまざまな哲学的、文学的議論がなされてきました。そこでは、「本当の愛は何か」というテーマで、有名無名の哲学者や文学者たちによるさまざまな愛が語られてきました。日常的にも、「そんなのは本当の愛ではなくて、自己満足にすぎない」などの意見が飛び交うこともあります。

本連載では、どの愛が正しく、どの愛が偽物である、といった判断には立ち入りません。

社会学的に言えば、他人が何と言おうが、その人が愛だと思えば「これも愛、あれも愛」なのです。

どのような人が、どのような時、どのような愛を感じているかを分析していくのが、「愛」の社会学だと私は思っています。「本当の愛、偽物の愛」といった区別も、誰がどのような理由でそう思っているかという点で、分析の対象になります。

例えば、ペットをかわいがっている人の中には、ペットには「見返りを求めない」から、なんらかの見返りを期待する人間相手よりも「純粋な愛情があるんだ」と言う人もいます。キャバクラ・キャストやホストに入れ込む人を非難する際に、キャストやホストはお金目当てで「好きなふりをしているだけ」という意見もあります。

しかし、私は夫婦関係をインタビュー調査する中で、夫は嫌いだけど離婚すると生活ができないので「仕方なく一緒にいる」と言う女性に何人も会ってきました。うち一人は、「夫が寝たきりになったら復讐しようと思っています」と言い、「でも夫は、自分たちを仲の良い夫婦と思っているでしょうね」と答えたのが、印象的でした。彼女は生活を夫の収入に依存しているがゆえに、夫に対して愛情があるふりをしているのです。

「愛」という言葉が表すものは…

その愛が「本当の愛」である条件を並べて極めて狭い意味で「愛」を使うと、そんな関係を築いている人は、日本社会にひと握りもいないでしょう。

現実には、「一緒にいて楽しい」「つらいとき一緒にいてくれた」とか、「なんとなくこの人が好きだ」「アイドルのことを思うと胸がキュンとする」「見ているだけで幸せになる」という理由から、「この人を抱きたい、この人に抱かれてみたい」まで、多様な愛情に関連する経験をみなさんは日常的にしています。

このような親密関係、広く言えばさまざまな「肯定的なコミュニケーション体験」を、日本人は「愛」という言葉で把握して生活しているのです。そしてその対象は、身近な人間に限らず、画面の向こうのアイドルやペット、実在しないバーチャルな存在にも広がっています。

愛はこうして発達してきた

ここで、「愛」について歴史的な位置づけを整理しておきましょう。

ポイントは三つあります。

一つは、前近代社会においては、「愛」という概念や愛情経験、愛情関係は、人生にとって重要ではなかった。近代社会になり、「個人化」が進むとともに、愛という概念、愛情体験、愛情関係が、人生にとって重要な位置を占めるようになったという点です。

もう一つは、近代社会では、愛情関係は「家族、とりわけ夫婦、カップル」の中に閉じ込められる傾向が強まったということ。

それに付随して、「本当の愛情」と「偽物の愛情」といった、愛情に対する“ランク付け”が生じるようになったという点。

これらの三つのポイントは、「愛の分散投資」に関わってきます。さらに、日本社会における愛の位置づけにも関わってきます。それは、日本社会が欧米的な意味で「近代化」したのか、狭い意味では「近代的個人主義」が浸透したのか、という問いにも関連してきます。

議論を先取りして言えば、日本では、「愛情が人生にとって不可欠だ」という近代的意識の浸透はあったとしても、欧米ほど強くはない。そして愛は、家族の中、特にカップルの間に閉じ込めなければならないという意識も弱い。これが本当の愛情だ、偽物だと意識して悩む機会も少ない。これらの理由で、現代日本では「愛の分散投資」が広まっていると考えられるのです。

充填されていくハート
※写真はイメージです
西欧意識が浸透しなかった愛の概念

少し説明しておきます。ここで「近代化」というのは、西ヨーロッパで15世紀頃から始まった一連の社会変化です。

資本主義が発展し、産業革命によって経済が大きく変化し、政治的にはフランス革命など民主主義が広がり、社会制度が大きく変化するとともに、意識的には宗教や地域コミュニティが衰退し、「個人化」が起こります。

日本では、明治維新以降、世界経済にまきこまれるかたちで、西洋の社会制度が輸入され、近代的社会が徐々に形成されます。

実は、今われわれが考える「愛」の概念も、西洋において近代化とともに作られ、広がり、重要なものとして位置づけられるようになったものです。そして、その概念が日本にもたらされ、広く使われるようになってきたのです。

しかし、日本では、政治的、経済的に近代化しても、価値観や意識面ではなかなか近代西欧の意識が浸透しなかったのではないでしょうか。

もしかしたら、日本が先陣を切って、近代を超えた愛にかかわる価値観、意識を形成しているとみなすことも可能です。

すると、今の日本は、前近代的要素と近代的要素、そしてポスト近代的要素が混じり合っている状況なのかもしれません。今後、その点を念頭に置きつつ、愛の考察を深めていきたいと思います。

「愛している」は恥ずかしい?

柳父やなぶ章あきらさん(1928~2018)という翻訳家にして文芸評論家の方がいました。彼は、「愛」に関する言葉の歴史を徹底的に調べた人です。ずばり『愛』(三省堂/2001年)というタイトルの著書があり、その冒頭の節の見出しが「恥ずかしい言葉、愛」なのです。

確かに、欧米の映画やドラマでは、「I love you.」が頻出します。恋人はもちろん、中高年の夫婦でも、「I love you.」と言いながら、キスやハグをします。

若いカップルとバックグラウンドで幸せな両親
※写真はイメージです

30年も昔の話になりますが、私がアメリカに留学していたとき、現地の学生に聞いてみたことがあります。1993年、カリフォルニア大学バークレー校でのことです。

「アメリカでは、本当に映画のように家の中でもよくキスするんですか?」

すると彼女は、当然という顔で、「両親がキスせず、I love youと言わなくなれば、子どもは親の離婚を覚悟しなくてはならない」と答えたのが、ひどく印象的でした。

柳父さんに戻ると、彼は、「愛」という言葉は文章や歌詞では頻出するけれど、実際の話し言葉では、口にするのが「恥ずかしい言葉」として今でも日本では捉えられている、と述べています。

「自分を愛しているかい?」

それは、西洋でも事情は同じだったかもしれません。

私は、ミュージカルが好きでよく観に行きます。映画にもなった『屋根の上のヴァイオリン弾き』(原題: Fiddler on the Roof)は好きな演目の一つで、日本とロンドンで何度も観ています。その中で、中年の主人公が妻にむりやり、「愛している(I love you.)」と言わせるシーンがあります。

ミュージカル「屋根の上のヴァイオリン弾き」の「テヴィエ」役を演じる俳優の森繁久弥さん
ミュージカル「屋根の上のヴァイオリン弾き」の「テヴィエ」役を演じる俳優の森繁久弥さん(1986年3月撮影、東京・千代田区の帝国劇場)

描かれるのは、ウクライナ農村のユダヤ人一家で、主人公の中年男性が妻に向かっていきなり、「自分を愛しているかい?(Do you love me?)」と問いかけます。妻は、とまどい、「愛しているなんて考えたこともない」と答えます。

このミュージカル自体が、19世紀末のウクライナ社会で、結婚形態が「お見合い結婚」から「恋愛結婚」へと推移していくプロセスを描いています。

その中で、「love(※英語のミュージカルなので)」という言葉でお互いの関係を把握し行動しようとしている子ども世代と、生活に手一杯で「愛」なんて考えたことがない親世代のギャップが展開され、それがこのミュージカルの一つのテーマになっています(ユダヤ人差別もテーマの一つですが)。

「愛してる」なんて言ったことがない…

つまり、欧米社会でも、「I love you.」と口に出すのが恥ずかしかった時代があった、ということです。

このミュージカルが初演されたのは1964年のニューヨークにおいてですが、戦前に東ヨーロッパの農村からアメリカに来た移民夫婦の中には、「愛してる」などと言ったことがない人たちがたくさんいた。一方でアメリカで育った移民の子どもは、結婚すれば「愛している」と毎日言う社会に生きている――それが、このミュージカルの背景であり、大ヒットした一因かもしれません。

柳父さんが述べているように、日本では、小説や評論、歌謡曲やポップスの歌詞に、愛が頻出します。しかし、実際に日常的に「愛している」と口に出している人がどれだけいるでしょうか。

次回は、その問いの答えから始めましょう。2023年2月に私が行なった調査結果を基に、私たちが「愛情をどのように表現しているか」について、その実態を明らかにしていきたいと思います。

山田 昌弘(やまだ・まさひろ)
中央大学文学部教授
1957年、東京生まれ。1981年、東京大学文学部卒。1986年、東京大学大学院社会学研究科博士課程単位取得退学。専門は家族社会学。学卒後も両親宅に同居し独身生活を続ける若者を「パラサイト・シングル」と呼び、「格差社会」という言葉を世に浸透させたことでも知られる。「婚活」という言葉を世に出し、婚活ブームの火付け役ともなった。主著に『パラサイト・シングルの時代』『希望格差社会』(ともに筑摩書房)、『「家族」難民』『底辺への競争』(朝日新聞出版)、『日本の少子化対策はなぜ失敗したのか?』(光文社)、『結婚不要社会』『新型格差社会』『パラサイト難婚社会』(すべて朝日新書)など。

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